○ 「伊勢本街道No2」見聞録(花園〜尼ケ辻)・(距離 19.1km(今回)/ 34.7km(累計)/ 135.3km(残距離)

前回まで
今回
残距離


  1.花園〜尼ケ辻・(19.1km) 2011.01.19 10:00〜16:30 晴れ


伊勢本街道全行程.Map
「花園〜尼ケ辻・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(≪kaz≫さんのホームページより)

第2回目の「伊勢本街道」紀行は、前回に引き続きO君と9時にJR鶴橋駅に待ち合わせ、近鉄で前回歩いたコースに沿って進み、 河内花園駅からスタートする。(9:30)

河内花園駅

花園ラグビー場西の歩道橋

天気は良好だが、寒波が続き、風が冷たい。駅前の日当たりの良いベンチで作戦会議をし、まずは生駒山を越え、南生駒駅を通過して、 砂茶屋で、体調を確認して、バスで富雄にエスケープするか次の近鉄・尼ケ辻駅まで進むか検討することにする。
前回の終了地点、稲葉2丁目の交差点角にイトーヨーカー堂まで戻り、間近に見える生駒山に向かって歩き始める。しばらく行くと花園ラグビー場西の 交叉点の歩道橋から斜め左の小道に入る。花園ラグビー場は熱戦が終わり、静かに春を待っているようだ。
旧街道の小道をクネクネと英田北小学校に沿って進む。
左に曲がると「地蔵堂」が祀られ、「暗越奈良街道と松原宿」の説明板が立っている。 この一帯が「松原宿」なのだ。「地蔵堂」は「癌封じ延命地蔵」と云われるそうで、礼拝する。
直ぐ進んだ四つ角には古い「道標」が立ち、『右ならいせ道、左大坂道』と彫られている。角に道標があることは嬉しい。 「松原宿」の史料を探していると地元の小学校のHPに小学生が調べた史料があったので借用する。

暗越奈良街道の道標 説明

癌封じ延命地蔵 説明

松原村は、江戸時代の初めごろ(1653〜1658)に、奈良街道の旅人の利用を考えて河内側のゆい一の宿場として そうせつされた。村は、多くの旅人や荷物でにぎわった。
江戸時代末の松原村の宿屋や茶屋の名前帳によれば、大和屋以下14軒の宿屋、たちばな屋以下 9軒の茶店があった。
しかし、明治になって、おのずと宿屋ははいしされ、さらには大正3年大軌鉄道(現近鉄奈良線)の開通により、当時のにぎわいを 失いました。(6年児童)(東大阪市立英田北小学校HPより)
道標にしたがって右に曲がり進むと大きな旧家が軒を並べる。「地蔵堂」もあり、大阪で唯一の宿場の面影を残している。
右側に「町水走(まちみずはい)太鼓保存会」の倉庫が建っている。河内は河内音頭で知られるようにお祭りには太鼓や地車が主役となって盛り上げて いるのだ。この太鼓は「ふとん太鼓」と云われるもので珍しい。(町水走太鼓保存会HPより借用)

松原宿の旧家

地蔵堂

町水走太鼓の倉庫 ふとん太鼓


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

「松原宿」を抜けて東に進むと恩地川に当たる。橋を渡り堤防を南に行くと直ぐ「地蔵堂」が祀られ、その横の細い道を東に向かうと 外環状線を渡る歩道橋に至る。程得今日の上からは生駒山が間近に招いている。
旧街道は緩やかな上り坂になり、立派な家が立ち並ぶ道を進むと別の集落の「太鼓保存倉庫」も建っている。お祭りの季節に来れば さぞ賑やかだろうと思いながら進む。「地蔵堂」や玄関先で鶏を飼っている家を眺めて歩を進めると箱殿交叉点で産業道路に合流する。

恩地川

外環状線を渡る歩道橋

鶏を飼っている家


少し進んだ所に箱殿東交叉点があり、その手前に「地蔵堂」と古い「道標」が立つ。この交叉点が、「暗越奈良道・伊勢本街道」と 「東高野街道」の交叉点なのだ。

分岐点の地蔵堂 説明

分岐点の道標

この道は「熊野古道・小辺路」紀行の前哨戦として、八幡の「石清水八幡宮」から「高野山」に通じる「東高野街道」で、以前歩いた道だ。 しかし、その時は「地蔵堂」が街道から少し離れていたので気付かなかった。
あれから7年も経つのだと感慨深く思い出し、 「東高野街道見聞録」を回想する。
「道標」には、『是ヨリ北江すぐ、京八はた、柳谷観音菩薩道、淀ふしみ』『東江すぐ、ならいせ道』『南江かうや、大みね道』 『西江すぐ、大坂、金ひら道』と刻まれている。
交叉点を渡り、緩やかな坂道を上るとここにも「太鼓保存倉庫」が建ち、祭りの賑わいを感じる。珍しい「二宮金次郎」の石像と 「地蔵堂」を見て真っ直ぐ進む。 そろそろ近鉄のガードだと思って上ると踏切だった。道を間違えたことに気付き、線路沿いに下ると、ガードがあり、これが正解だと その道を戻り、「子安地蔵」らしき「地蔵堂」を確認して、ガードに戻る。「二宮金次郎」の石像辺りから、右に曲がらねば ならなかったようだ。

二宮金次郎の石像

地蔵堂

子安地蔵?


近鉄のガードを抜けると正面の道が国道308号線と表示されているが、通行禁止の標識がある。人は進めるだろうと坂道を上り始める。 先程までと違って、勾配は急でなかなかの坂道だ。
この道は一方通行のようで、上から車は降りて来る。上り路線と合流して急な坂を少し息を弾ませながら上ると、「勧成院」の寺院が建ち、 前の道端で一息入れる。ここからは大阪平野が望まれ、高く上って来たことが分かる。お茶とお菓子を飲食し、生駒山越えの英気を養う。 (10:50)

国道308号線の上り坂

勧成院 説明

大阪平野を望む



「花園〜暗峠麓」の「紀行スライドショー」


一息入れ、「暗(くらやみ)峠」越えにトライする。これが国道かと思う1.3車線程の狭い道を上って行く。風が強くて頬が冷たく感じる。 上って行くと温度表示の電光板かあり、5℃と表示されている。冷たい訳だ。(もう少し上った所の表示は2℃だった。)
「芭蕉句碑」が立っている。元の句碑は先程休んだ「勧成院」の境内にあるとのことで、芭蕉の最後の旅となった時の句だと。 国道の脇には「一般国道308号」の標識が掲げられている。この標識がなければとても国道とは思えない狭い坂道を上る。

温度表示の電光板

芭蕉句碑 説明

一般国道308号の標識


外気は冷たいが、坂道を上っているので体はホカホカ状態だ。「法照寺」を過ぎ、坂道から振り返ると大阪平野が霞んで望まれる。大分 高度を稼いだのだと実感する。

大阪平野を望む

「おいせまいり」の道標

鳥居の横に「禊行場」の石碑が立っているので、鳥居をくぐって、滝があるのだろうと下に降りて行くが、行場的な所は見られなかった。 国道に戻ると年配のご夫婦と出会いご挨拶。枚岡から暗峠周辺のハイキングコースを歩いておられると。
国道沿いの木に時々伊勢本街道保存会の「おいせまいり」の道標が吊り下がっている。この道標が伊勢まで導いてくれるのだろうかと話しながら 上って行く。まだ新しい「くらがり峠」の道標を確認して上る。

弘法の水と笠塔婆 説明

右手に「弘法の水と笠塔婆」の祠があり、年配の男性が掃除をしておられる。
祠の前の竹筒から水がチョロチョロと流れているので、 これが弘法の水かと尋ねるとそうだと。備え付けの竹の柄杓で少し飲む。温かいのに驚く。横の看板に生水を飲まないように注意書きが あったが、大丈夫だろう。
暗越奈良街道を登ると暗峠に近い標高約400mの道端に、通称「弘法の水」と呼ばれる湧水が出ているところがあり、弘法大師を祀る お堂が建っています。
堂内の右手奥には、ひときわ高い石柱に笠石をのせた笠塔婆があります。弘安7年(1284年)の銘があり、石柱の正面上部に浮き彫りで 阿弥陀如来坐像を彫り、その下に南無阿弥陀仏の文字を刻んでいます。
昭和53年に市の文化財に指定しています。(東大阪市HPより)
旅の無事を願って礼拝する。祠の前に置いてあるバケツの水は厚い氷に覆われている。ステッキでコツコツと突いても割れそうもない厚さだ。昨夜は 冷え込んだのだろうと想像する。
単調な上り坂を進み、脇道の道脇で一息入れる。急な上り坂で少し息が切れた次第だ。(11:35)
急坂を上ると視界が開け、棚田が広がっている。陽当たりも良く、急に暖かくなった感じだ。気分新たに左の狭い国道に向かう。 坂は緩やかになり、右前方に「地蔵堂」の祠と道標、横には常夜燈の「石燈籠」が立っている。峠道に立派な燈籠が立っているのには驚く。 「暗峠」の頂上は近そうだと歩を進めると国道なのに「石畳」が敷かれている。この道は「日本の道100選"(建設省 道の日実行委員会)」に 選ばれた道だと。青森の竜飛岬に車の通れない国道があったが、石畳の国道も珍しい。

地蔵堂 説明

石燈籠

石畳の国道


「地蔵堂」から石畳の国道を上ると「暗峠」の頂上に至り、奈良県・生駒市の標識が迎えてくれる。大阪府から奈良県に入ったのだ。 その下には「暗峠」のと彫られた石碑が立っている。
峠には茶店があるとのことで、期待していたが、水曜日は休みとのことで閉まっていた。残念だが止むを得ない。峠道を下り始めると 信貴生駒スカイラインの高架下を抜けると食堂「友遊由」があったので、南生駒側にも食事処はありそうだが、休みもあるので、ここで昼食とする。 カレーライス450円と安く、休憩を兼ねて美味しくいただく。(11:55-12:20)

奈良県・生駒市の標識

暗峠の石碑

食堂・友遊由


昼食を終え、奈良県の「伊勢本街道」に進む。すぐに「本陣跡」の石碑が立っている。峠の上での休憩場所だったのであろう。
風はまだ冷たいが、陽が降り注ぎ暖かい東斜面の下り道からは、これから進む奈良盆地が広がっている。下り道は自然と歩幅が広がり、 快調に進むことが出来、道端の「お地蔵様」を眺め進むと4体の地蔵が祀られている「西畑地蔵堂」辺りからは「棚田」が広がっている。 この時期の殺風景な棚田も、数ヵ月後には緑が溢れる美しい光景になっていることだろうと話しながら下る。

奈良盆地を望む

西畑地蔵堂

棚田


この下り坂には石仏が点在している。左側の大きな岩の上には「お地蔵様」が祀られ、少し下った所には「地蔵石仏と六字名号板碑」が 祀られている。石仏に興味のある方にとっては魅力的な街道なのだろうと。
藤尾の集落の手前に「石造阿弥陀如来立像」の祠があり、石面に阿弥陀如来が彫られている珍しい像が祀られている。地元の方の手入れも行き 届いた祠だ。
坂道はゆるやかになり、初め計画していた蕎麦屋に出会うが、休みのようで、峠で食事していて良かったと話しながら進んでいて、 「石仏寺」を見落としてしまった。随分下ってから気付いたのでパスすることにした。
立派な屋敷が続くようになった。白壁の蔵が立つ屋敷は街道筋の繁栄が残っている感じだ。

地蔵石仏と六字名号板碑

石造阿弥陀如来立像 石仏 説明

白壁の蔵



「暗峠麓〜南生駒」の「紀行スライドショー」

「暗峠」の坂道を下り、小学校の前からは下校の小学生と前後して進む。「竜田川」を渡り、近鉄・生駒線の南生駒駅の近くの踏切を 通過して次の「榁木(むろのき)峠」に向かう。
踏切を渡った所から緩やかな上り坂になる。小学生は平気な顔で家路を急ぐが、一度下り坂に慣れた体は、上り坂で少し足が重くなる。 公園があったので、その石垣の上で一息入れる。(13:30)
緩やかな上り道は広い県道に突き当たり、右側に進むと中学校があり、関電の変電所を左に上って行く。しばらく進むと特別養護老人ホームの 広い敷地があり、その中に「足湯」がある。靴を脱ぐのが面倒なので、ベンチで一休みしていると、次々と足湯を利用する人が 集まる。(13:50)
視線を上げると今まで歩いて来た生駒山からの下り道が確認出来る。

竜田川

足湯

生駒山を望む


道は狭くなり、旧街道の風情になるのは嬉しい。この道も国道308号線の続きなのだ。

四国八十八寺の石仏

木立の茂る道には、小さな「お地蔵様」が祀られており、雰囲気を楽しみながら上って行くと「矢田丘陵遊歩道」 の看板が立ち、この辺りが矢田丘陵と呼ばれることを知る。

榁木山弘法大師堂

「榁木峠」の頂上に到着する。頂上には「榁木山弘法大師堂」が建ち、近鉄のガイドブックに1mのお地蔵様があるとのことで 周辺を手分けして探すと山の中に「四国八十八寺」を意味する石仏が並んで祀られている。大きなお地蔵様は分からなかったが、これらの 石仏と出会ったのはラッキーだった。
旧街道の峠道にふさわしい雰囲気で、風もなくホカホカした体を鎮める気持ち良い空間だ。

榁木峠の道

小さなお地蔵様

矢田丘陵遊歩道


桧木立の「榁木峠」を下り始める。上りよりも少し緩やかに感じるが、足早に下れる勾配だ。

追分本陣・村井家住宅 説明

「警察犬訓練所」の看板を見て、左の峠道の脇には古い「道標」が矢田山を記している。 再び、緩やかな「追分峠」の上り道になり、その頂上には「追分神社」の鳥居と石段があるが、参拝はパスする。
「榁木峠」に比べると低く小さな峠だが、小さな梅林があり、神社が祀られている峠道だ。「追分峠」の下りには、立派な旧家が残り、 集落としては栄えていたのだろうと思いながら進むと、広い道と交わる右手に大きな「追分本陣・村井家住宅」が堂々と建っている。
このあたりは奈良と大和郡山の境目に当たることから追分と呼ばれ、街道沿いには追分本陣が置かれた村井家住宅が残っている。
江戸時代の後期に建てられた重厚な主屋は、茅葺(かやぶ)きと桟瓦葺(さんがわらぶ)きを合わせた大和棟(やまとむね)形式。 主屋の南東には座敷棟が続く。
古い宿場の面影を残す奈良市では珍しい宿場建築で、昭和59年に奈良市指定文化財になっている。 (ええ古都ならHPより)
ここは大和郡山との追分になっていたそうだ。細い街道は拡幅された広い県道に合流する。

榁木峠の下り道

古い道標

追分神社


拡幅された広い道を進むとまだ蕾もついていない「追分梅林」が第二阪奈道路の横に広がっている。この時期はまだ枯れ枝が群生している 寂しい光景だが、後半月もすれば梅園で賑わって来るのだろうと話しながら、次の行程では梅林をみたいなぁと。
道なりに進むと第二阪奈道路の高架下をくぐる道につながる。しかし、近鉄のMAPでは、高速道路の高架橋を渡ることになっているが、 高速道路の向こう側で合流するので、そのまま進む。帰宅して確認するとこの道が正解のようで一安心。拡幅・新道設置で、ルートの若干の 違いは止むを得ないだろうと納得する。
高架下をくぐった道には古い家並みが続き、旧街道の趣きを残している。坂を下り切ると田園風景が広がり、交叉点の角には立派な 「常夜燈」が立っている。田園風景・高速道路を見ながら一息入れる。(15:10)

追分梅林

古い家並み

常夜燈


休憩しながら、今後の行程について相談する。もう少し進んだ砂茶屋から近鉄・富雄駅にバスor歩いて行くか、そのまま近鉄・尼ケ辻駅まで 歩くかと。富雄駅行のバスは1時間に1本でこの時間はNG。歩いても4km弱あり、尼ケ辻駅まで3kmなので、次回のことを考えると そまのの進む方が良いと結論付け、近鉄・尼ケ辻駅まで進むことにする。
田園風景の道を進むと富雄川に至り、渡ると道横に「常夜燈」と「地蔵堂」が建っている。前に新聞の切り抜きがファイルされていて、 その記事にこの地蔵は「間男地蔵」と云う逸話が書かれている。昔の人はなかなか粋なものだ。
砂茶屋交叉点を渡って進むと古い街並みの集落が現われ、珍しい2階建ての蔵が数軒建っている。

赤膚焼の窯元

しかも外壁が木で覆われている。火事の時 大丈夫かと思いながら進む。「赤膚焼」と初めて聞く窯元の立派な工房が建ち、前には作品が並べられている。赤膚と名前から赤味の帯びた 陶器かと思ったが、白地のきれいなものだ。
赤膚焼の名称の由来についてはもう一つ詳かでありませんが、「衣だに二つありせば赤膚の、山に一つは貸さましものを」(新続古今和歌集)
とある如く地名から出たとするもの、その赤膚山−現在の奈良市赤膚町(五条山)から出る陶土は鉄分の含有量が多く焼上げた地肌が 赤身を帯びるから赤膚焼だとする、の二説があり、このいずれが正しいかは現在の窯元でも判然とせず、あるいは両方とも正しいのかも 知れません。
従って、九谷焼の如く有田焼の如く、その作風が他のものと確然と区別できる大きな特徴を持つ焼物の名というよりも茶趣味の陶器を 作る地方窯の名称として、その土地名を印象づける性格のものであります。(奈良市商業振興センターHPより)

間男地蔵 説明

2階建ての蔵

赤膚焼


道なりに進み、再び「第二阪奈道路」の高架下を抜けると落ち着いた街並みが続く。立派なお屋敷もあり、旧街道にふさわしい風情を 感じながら進むと広い道に出て、前方に県立奈良病院が見える。広い道から駐車場が並んでいる小道に入り、東に向かう。
前方にこんもりとした「垂仁天皇稜」の森が眺められ、御陵の堀には水鳥が泳いでいる。その横には「唐招提寺の石柱」がひっそりと 立っている。もうそこには近鉄の踏切があり、ゴールの尼ケ辻駅に到着する。(16:05)

落ち着いた街並み

垂仁天皇稜

唐招提寺の石柱



「南生駒〜尼ケ辻」の「紀行スライドショー」

第二回目の「伊勢本街道」紀行は当初の計画通り、花園から尼ケ辻までを歩くことが出来た。生駒山の「暗峠」を越え、少し低いが 「榁木峠」「追分峠」と峠越えも経験し、前回の市街地から峠道・野道と本来の旧街道の風情を満喫した。 天候にも恵まれ、風は冷たかったが、陽射しには満足する紀行だった。今日の歩行数は32000歩と満足のいくものだった。

近鉄で鶴橋まで行き、JR京橋で下車して紀行完遂の乾杯をする。二人で歩くのはこの乾杯が寂しくなくて良いものだ。次回の計画を 話し合い、奈良を過ぎ、天理を越えて行こうと。梅林も楽しめないか調べ、桜の季節には、山の一本桜等を見られれば良いのにと 夢を膨らます。さあ、次回も楽しもう。





    
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送