○ 「伊勢本街道No3」見聞録(尼ケ辻〜巻向)・(距離 20.6km/ 55.3km/ 114.7km)
1.尼ケ辻〜巻向・(20.6km) 2011.02.16 9:00-16:00 晴れ
第3回目の「伊勢本街道」紀行は、前回に引き続きO君と8時30分にJR鶴橋駅に待ち合わせ、近鉄で西大寺経由尼ケ辻駅に向かい、 晴天の下、奈良市街に向けスタートする。(9:00) 前日までは雨が降ったりと不順で寒い日が続いたが、この日は暖かく、無風で気持ちの良い散策日和だ。 今回は、尼ケ辻駅から東に向かい、「猿沢池」から直角に南にJR桜井線沿いの「上つ道(上街道)」進み、柳本駅付近まで行こうと計画した。 O君が柳本に戦中・戦後に疎開していたそうで、その記憶を辿ろうと。 前回歩いた道を東に進むと三条通りの広い道と合流する角に「伏見崗」の祠が建っている。説明を読んでも歴史的な意味合いは理解でき なかった。 奈良には知らないことが多そうだと先制パンチを食らう。 秋篠川を渡ると「石造地蔵菩薩立像」が祀られている地蔵堂があり、中をのぞくと鎌倉時代の地蔵尊が祀られている。歴史あるものなのだ。
広い三条通りを雪を頂いている「若草山」方向に進む。
しばらく進むと、「子安地蔵堂」が祀られている。やはり、奈良には「地蔵堂」が多いようだ。 国道24号の高架下、桜並木が美しい佐保川を渡って進むと、広い三条通りから狭い商店街に入って行く。 少し進んだ交叉点の右側にJR奈良駅が見られ、ここは6年前 (2005年3月)「熊野古道・大峯奥駆道」紀行の前哨戦で、 「吉野道」として京都から吉野まで歩いた。飛鳥文化に造詣の深い「風人さん」の先導で、奈良から「飛鳥寺」まで案内してもらった 道だ。 その「風人さん」に示してもらった古代の地図の中、その時は「中つ道」を歩いたが、今回はその東にある「上つ道」を歩くのだ。 当時、奈良から飛鳥への道は、東から「山の辺の道」「上つ道」「中つ道」「下つ道」と真っ直ぐに通っていたと。「伊勢本街道」は その一つである「上つ道」が本ルートとのことで、そのスタート地点に当たる「猿沢の池」に向かう 商店街に入ると古い街並みや商店が点在し、平城京から始まる奈良の歴史が垣間見られる。 和菓子屋さん、墨屋さんと歴史のあるものだ。南都銀行の建屋は石造りの重厚なもので、違った奈良の歴史を示しているようだ。 観光客も見られるようになり、余り歩いたことのない街並みを楽しみながら進む。
「猿沢池」の手前に「高札場」が設置されている。この辺りに来たことがあるが、今まで気付かなかった。
前々回、高麗橋の「里程元標跡」から歩き始めたので、奈良にもある のだと驚いた。 ついでに、各都市の「里程元標」を検索すると、結構あるのだ。「中山道」のスタートを三条大橋としたが、 少し離れた烏丸三条の交叉点に「京都里程元標」があると。一度訪れなければと思った。これからの旅行時のチェックポイントに加えよう。 「高札場」の前には朱色鳥居と垣根の立つ「采女神社」が祀られている。 「縁結びの神」との幟が立っているが、由緒書きを読むと? 鳥居に向かって本殿が背を向けているのだ。
これが采女神社で『大和物語』によりますと「奈良時代に帝に仕えていた采女(後宮で帝の給仕をする女官の職名)が、帝のご寵愛が 衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け、入水したので、その霊を慰めるために社を建てた。 しかし、采女は我が身を投じた池を見るにしのびないと一夜のうちに社を後ろ向きにした。」と伝えられています。 (采女祭りHPより) この説明を読んで、何故「縁結びの神」なのか疑問だが、鳥居の反対側の入口から入って行く女性を見たので、ご利益あるのだろうと 想像する。 「猿沢池」の周辺にも「采女祭り」に関する絵入りの石碑が飾られている。お祭りの時は平城京の優雅な舟遊びが見られるようだ。 「猿沢池」の周辺を散策して一息入れる。
絵筆を運んでおられる方、写真を 写しておられる方と古都奈良のベストショットを楽しんでおられる。 奈良八景の一つに数えられる猿沢池は、周囲360m、池畔の枝垂れ柳越しに望む興福寺五重塔は昔も今も変わらぬ絵はがきの画題になる 名勝である。 池には、毎年4月17日の興福寺の放生会に鯉が放たれる。最近はカメの名所としても知られるようになったが、 岸に立てばカメと共に緋鯉、真鯉がエサを求めて変わらず寄ってきて観光客を楽しませる。猿沢池の俗謡に、 「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙湧かず藻が生えず、魚七分に水三分」の七不思議があるが、奈良公園の鹿と同じように池の生物は 興福寺のおかげで手厚く保護され、「魚七分に水三分」というのも大いに理由がある。(奈良歴史漫歩HPより) 今まで東に向かっていた街道は、ここからは「上つ道」を南に下って行くことになる。 まず、率川(いさがわ)を渡る橋の下に舟形の島の上にたくさんの石仏が祀られている。この史跡は、昨年秋、「スイス・ドイツ旅行」メンバーとの 「奈良散策」時に初めて知り、その後「奈良町」を 散策した地点だ。それまで、橋を渡っていたが、仲間の方に船の上の石仏を教えて頂いたのだ。 「奈良町」入ってすぐ「猿田彦神社」が建つ。朱色の鳥居には「道祖神」と記され、境内には「道祖神」が祀られている。鳥居の横の 道標の看板に「「上ツ道・伊勢街道」と書かれている。 「猿田彦神社」は「伊勢神宮・内宮」の近くにもあったことを「伊勢路」紀行のスタートだったので思い出す。関係は分からないが、 この「伊勢本街道」紀行の最終日に参拝出来るだろう。
「尼ケ辻〜猿沢池」の「紀行スライドショー」 いよいよ「伊勢本街道」を進むのだと気分新たに、「奈良町」の中に進む。 古い街並みを進むと古い漢方薬屋さんをモデルにたくさんの方がスケッチしておられる。その漢方薬屋さんには大峰山の「陀羅尼助丸」の看板が 掛かっている。これは「熊野古道・大峯奥駆道」」を 歩いた時、洞川の街中にたくさんある薬屋に掛かっていた看板だ。 漢方薬屋さんを左折し、直ぐ右折すると「元興寺・塔址」が建ち、少し先には「御霊神社」が祀られている。ここも「縁結びの神」との ことで、若い女性グループが参拝しておられる。良きご縁がありますように!!
「上つ道」に建つ「格子の家」の風格のある街並みの家々には「身代わり猿」が吊るされ、奈良の風情が感じられる。 「庚申堂」には立ち寄らなかったが、庚申信仰が広まっているのだ。 道脇には「地蔵堂」も祀られている真っ直ぐな「上つ道」を南に進む。狭い道幅だが、真っ直ぐな道が続くのは、当時の先進的な行政・ 土木を見るようだ。暖かくなった道をひたすら進む。
「奈良町」から離れて、次の集落に向かう。横を走るJR桜井線はそれらの集落に駅を設けているが、その読み方、漢字が難しく、 覚えても直ぐに忘れてしまう。ここで、整理しておこう。 JR桜井線(万葉まほろば線)は奈良→京終(きょうばて)→帯解(おびとけ)→櫟本(いちのもと)→天理→長柄→柳本→巻向(まきむく)→三輪→桜井だ。 京終の集落に入ると大きな「常夜燈」が二基堂々と建っている。文政13年の銘がある古くて立派なものだ。 京終(きょうばて)とはどんな意味だろうとO君と話す。多分、平城京の外れ=終わりから来たのだろうと推測するが? 近くの家の庭には紅梅が咲き始めて、早春の息吹が感じられ、東の高円山にはまだ雪が残っているのが望める。「常夜燈」の傍で 一息入れ、お茶を飲む。(10:45)
一息入れて、再び「上つ道」を南下する。真っ直ぐな道は民家がなくなり、田園風景になる。右手に前回越えて来た「生駒山」が遠くに 霞んで見える。随分遠い距離を歩いて来たことを実感する。 能登川、岩井川を渡り、陽春の暖かい旧街道を進む。本当に気持ち良いが、退屈な道だ。 この辺りは灌漑用のため池が多く設置されていて、カモ等の渡り鳥も群れている。そのため池の下に大きな「地蔵堂」が祀られている。 この街道には「地蔵堂」は本当に多い。
「上つ道」は帯解集落に入り、立派な「帯解寺」が迎えてくれる。
そして、今から約1100年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様が生まれず、大変お悩みの折、 祖神春日明神のお告げによって、早速勅使をたてられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、 月満ちて惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。
境内に入り、本堂に参拝する。閉じられた扉の中からは「安産祈願」と思われる読経が聞こえて来る。数人の参拝者が訪れ、書類に署名し 祈願を待っている。この辺りでは「安産祈願」のお寺として有名なのだ。 12時近くになるので、昼食する食堂を駅前まで行き探すが、見つからず、この先も期待出来ないので、駅近くにある「お好み焼き屋」に入り、 焼きそばで昼食にする。(11:40-12:10) 「猿沢池〜帯解寺」の「紀行スライドショー」 昼食を終え、再び「上つ道」を南下する。少し行くと「帯解寺」と同じ「子安地蔵尊」を祀る「龍象寺」が建っている。同じ集落に 同じ「安産祈願」のお寺があることは不思議だ。 帯解の集落を抜けると再び田園風景が広がり、淡々と真っ直ぐな田舎道を南下する。菩提仙川を渡った所には「稲荷神社」が祀られており、 更に進むと櫟本(いちのもと)の集落に入る。この辺りは、立派な蔵があるお屋敷が多く、眺めながら進む。
しばらく進むと竹の節の形を思わせる銅製の鳥居が立つ「楢(なら)神社」が建ち、その境内で一息入れる。 銅製の鳥居も珍しいが、本殿の前の狛犬は檻に入れられている。何故? 広い境内には由緒ある史跡があるらしいが、その時は気付かず、 次に進む。 小さな「常夜燈」を眺め、高瀬川を渡ると木造の古い建物の「大阪府奈良警察署櫟本分署跡」と記されている。中に入ると天理教の教祖・ 中山みきさんが拘置された文書・史料が展示されていて、知らないことが多いのだと再認識する。
少し進んだ道角に「馬出の街並み」の案内板が立っている。
写真を写していると、その家の奥さんが出て来られてお話をする。この辺りは昔の「市場」で、奈良の山奥から運んできた炭・薪と大阪 から運んできた魚・物資を物々交換する所だったと。今はこの家だけが残っているが、この辺り一帯に「馬つなぎ」が設けられ、昭和30年代 まで賑わっていたと。 30年代だと、我々が小学校・中学校時代まで、そんな光景が広がっていたのに、O君と驚きながら聞き入る。奥さんと記念撮影をして 元の道に戻る。 「西名阪自動車道」の高架下を抜けて南に進む。 街角には「地蔵堂」が祀られ、旧街道の雰囲気を感じながらすすむと立派な門の前には、昨日まで降っていた雪で子供たちが作ったであろう 雪だるまが、暖かい陽を浴びて輝いている。昨日歩行だったら、大変だったことが改めて認識する。 「花園寺」があり、境内には「石仏」が祀られているとのことで中に入り、たくさん「地蔵尊」が祀られているので参拝する。
この辺りも蔵付きの立派な家が続く。旧街道筋は立派な家が多いように感じる。 大きな「常夜燈」を過ぎて、道なりに左に曲がって行くとまた「地蔵堂」が現れ、その先には道の中ほどまで、神木が占領している。 このような光景が多いなぁと話しながら進んでいて、右に曲がるのを間違って真っ直ぐに行ってしまい、国道169号線に出てしまった。 国道との角に苺を売っている店があり、安いので地元の大きい「あすかルビー」を1箱(300円)買う。まだ間違いに気付かず、国道を南に進んで いて、間違いに気付き、次の角で本来のルートに戻る。 間違ったおかげで、苺屋に出会えて苺を買えたと話すと、O君が「一期(苺)一会」だなぁと。大笑いだ。
この辺りは天理教の詰め所が多く、全国各地から信者が集まり、宿泊する施設が立ち並んでいる。すごい信者数だと驚く。 天理駅を遠くに見て、天理商店街のアーケードを抜け、天理の街並みを南下する。
少し行くと立派な鳥居が立つ「市座神社」が鎮座する。 上街道沿いにあり、参道の入口左側には丹波から遷されたという恵比須神社、また本殿の右側には妙見社が祀られている。 今も丹波市(たんばいち)の名にふさわしく市場の守護神として尊崇され、毎年1月8日には商売繁盛を祈願する 「八日恵比須祭」で賑わう。(天理市観光案内HPより) 広い境内の奥の本殿に参拝する。荘厳な雰囲気のある本殿で、静かに頭を垂れる。 ここで一息入れ、先程買った「あすかルビー」を頬ばる。甘い果汁が疲れた体に沁み渡る。(13:50) 大きな苺は甘みたっぷりで美味だ。一息入れた後、境内を見回すと、奥の方に2m程の大きな青い一枚岩がある。2個の穴が空き、 色々と云われがあるそうだ。古墳の石棺の蓋ではないかとも。
「帯解寺〜市座神社」の「紀行スライドショー」 甘い苺を食べ、元気になった所で、再び南へ進む。「常夜燈」が見られ、「地蔵堂」が祀られている光景が繰り返される。旧街道の史跡が たくさん残っているので楽しく歩ける。 集落が途切れて田園風景が広がり、三輪山の山並みが青空に映え、気持ち良い光景だ。旧街道の横には苺のビニールハウスが点在し、先程食べた 「あすかルビー」を作っているのだろう。横のため池に赤い魚影が見えるので、良く確認すると金魚か鯉が群れをなして泳いでいる。 金魚で有名な郡山も近いので、ため池で養殖しているのだろう。街道歩きの中でくつろいだ時間だ。
「八坂権現」の鳥居を過ぎると街道は緩やかに左に曲がる。すぐ横に「芭蕉句碑」が静かに佇む。「草臥(くたび)れて、宿かる此(ころ)や、 藤の花」と刻まれている。芭蕉も伊賀上野からこの道を経て京に向かったのだと。 R169を渡ってしばらく進み、右折して進むと再びR169に出会い、渡って進むと道脇に大きな「岡地蔵」が祀られている。二対ある地蔵尊の 一方の上部は欠けているが、何か由緒のあるだろう。
少し日が落ちかかりつつ道をひたすら南に進む。「大和(おおやまと)神社」の鳥居が立ち、説明文によると「日本最古の神社」と記されて いる。本殿に行こうかと思ったが、参道は茂った森の中を遠くまで続いているので行くことを諦める。 立派な家並みの真っ直ぐな道が続き、しばらく進むと「御旅所跡」の標識が立つ広場がある。何処の神社の御旅所かは説明では分からないが。
いよいよ、O君が疎開していたと云う柳本の集落に近付く。小学校以前の記憶と小学生時代に一度訪れた記憶と兄弟から聞いていた記憶が 入り乱れて、なかなか興味のある出会いに期待する。
長岳寺の西方約850mの境外地、上街道の近くに五智堂が建っている。構造は方一間、単層屋根宝形本瓦葺(たんそうやねほうぎょう ほんかわらぶき)である。奈良朝の頃、善無畏(ぜんむい)三蔵という人が創建したと伝えられている。 どこから見ても正面なので真面堂とも、支柱を除けば四方吹放しとなるから傘堂とも呼ばれ、形が小さいのでマメ堂ともよばれている。 中央の太い心柱の上方に五智如来をまつっている。鎌倉時代の建築として、明治41年4月23日重要文化財として国の指定を受けている。 この種の建物は珍しく、江戸時代の好事家木村兼葭堂(けんかどう)も「雲綿随筆」のうちに傘堂のことを書いている。 今はないが、江戸時代には床が張ってあって旅人の休息所になっていたようである。
珍しい形の建物で、傘を開いたような構造になっていて、東西南北に梵字の額(南面:宝生如来、北面:不空成就如来、東面:阿しゅく如来、 西面:無量寿如来)が掛かっている。 全国にも「傘堂」と呼ばれる建造物が何カ所かあるそうで、これからも気を付けて行こう。 しばらく、O君の記憶を辿ることにする。道角で記憶を探っていると、地元の奥さんが道を探しているのだろうと声をかけていただく。彼が 理由を話し、疎開先の名前を云うとこの辺りの名士で、前の大きな屋敷がそうだと。 柳本の集落をぐるりと一周する。彼が疎開していた場所、製材所、柳本駅等々、記憶を正して行く。 柳本駅前に「首無地蔵」が祀られており、歴史を感じる。楽しい思い出探しの散策だった。(気付くと写真を写していなかった。) 元の場所から「上つ道」を進み、「黒塚古墳」への小道に入る。 この「黒塚古墳」は数年前、貴重な鏡がたくさん出土され有名になった古墳だ。坂道を上った所に濠に囲まれた古墳が現れる。 ここには宮内庁の表示もなく、濠を渡って古墳の中に行ける遊歩道らしきものも見られる静かな空間だ。
古墳の中には入らず、濠の周り歩いて、柳本小学校に向かう。ここもO君の記憶にある場所だ。 小学校の前には「黒塚古墳展示館」もあり、考古学ファンには見逃せない場所だろうと思いながら、次に進む。 再び「上つ道」に戻り、少し日が沈み始めた街道を南に向かう。 「伊射奈岐神社」の参道に設置されている「常夜燈」を見て、淡々と進む。時間を見ると16時少し前になっている。次回は榛原まで行く予定 なので、距離は稼ぎたい。残りの距離を計算し、今回はJR巻向駅迄にしようと。 道脇には、今日何回見たか数えられない「地蔵堂」が祀られている。前方に国道169号線の高架橋が見え、その手前に巻向駅があり、 無事到着する。16時到着、今日の歩行歩数は36000歩だった。
「市座神社〜JR巻向駅」の「紀行スライドショー」 ここで、事前計画の未熟さが露呈する。桜井線の時刻表を確認していなかったのだ。ローカル線の列車間隔は長いが、この時間は1時間に1本で 30分待たねばならない。他の時刻だと30分に1本なのに。止むを得ず、ベンチでゆっくりとくつろぎ、今日の反省と次回の計画を検討する。 次回はここ巻向駅に8時59分着の列車に乗れるよう計画し、9時出発して近鉄・榛原駅まで行くことにする。 奈良で乗換え、前回と同じ京橋の居酒屋で、3回目の「伊勢本街道」紀行の踏破を祝って乾杯で締めくくる。 さあ、次回も楽しもう。
|