○ 「伊勢本街道No4」見聞録(巻向〜榛原)・(距離 16.7km/ 72.0km/ 98.0km)
1.巻向〜榛原・(16.7km) 2011.03.02 9:30-15:30 曇り
第4回目の「伊勢本街道」紀行も、前回に引き続きO君と8時30分にJR奈良駅で待ち合わせて、巻向に向うことにする。 6時前の列車で、京都廻りで行くことにし、京都から約1時間、ウトウトとし奈良駅に到着する。O君の列車が遅れたため、次の桜井線の列車で 巻向駅に向かい、曇り空で寒波再襲来の中出発する。(9:30) 先日歩いていた「上つ道」を南に進むと、直ぐ横にあるJAの支店に石碑が見える。中に入って確認すると「柿本人麻呂公屋敷跡」と刻まれて いる。前回立ち寄らなかったが、この辺りには柿本人麻呂の史跡が点在していることを知った。歩くことによって得る知識は多い。 「上つ道」を南下するとJR桜井線を越える高架橋があり、スロープを上ると、二上山がくっきりと見え、金剛山付近は厚い雲に隠れている。
高架橋を渡り終え、再び南下すると前にこんもりとした森が現れる。これが卑弥呼の墓ではないかとも云われている 「箸墓(はしはか)古墳」だ。
この巨大な古墳は「昼は人が作り、夜は神が作った」と『日本書紀』に記されている。 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓としても有力で、謎と神秘につつまれ、夢を秘めた古墳である。 (奈良・まほろばHPより) ルートから離れて「箸墓古墳」を一周することにする。濠の水は抜かれていて、水位は低くなっているが、水鳥が群れている。濠の周りを 巡る遊歩道が設けられており、濠越しに古墳のこんもりとした森を眺めるが、全体の形状は想像するしかなく、 前方後円墳とは分からない。 宮内庁の管理ではないのかと思いながら進むと他の御陵と同じように鳥居が設置され、宮内庁の管理所が設けられている。案内板は 改装中で下に「孝霊天皇皇女倭迹々日百襲姫命・大市墓」と書かれている。 出土品が何処かに展示されていないかと探すが、ここにはないようだ。
ぐるっと一周して元の「上つ道」に戻り、南下する。少し進んだ所にため池があり、渡り鳥がたくさん群れている。池畔の紅梅は前回に 比べると5分咲き位になっている。春は間近に来ている感じだ。しかし、外気は冷たく、手袋を着けていないと寒いのだ。 池の外れには「燈籠」が立っているが、字は読めない。真っ直ぐな「上つ道」を南下するが、古い街並みに何故か散髪屋さんが目立つのは 不思議な感じだ。
巻向の集落から三輪の集落に向かって街並みを眺めながら進むと「大神神社」の参道に出て、大きな鳥居を眺めながら小道に進んで行く。 道角に鳥居があり、境内には「大神協会・神殿」が鎮座している。ここは以前「青春18きっぷ」を使って 「京都・奈良・和歌山周遊」時に訪れた所だ。 前回は「大神神社」の本殿まで参拝したが、今回は時間の関係もあり、パスすることにして次に進む。 真っ直ぐ進んだ角に古い道標が立っている。「左、いせ・・・」と刻まれていて、その道標に従って左に進む。
左に曲がると三輪の名物である素麺を売る由緒ある「素麺屋」さんが建つ。店の看板も古めかしく三輪の街の歴史を感じさせる。 次の角に「三輪恵比寿神社」が鎮座している。境内に参拝すると案内板には「三輪の初市」の起源についての説明があり、三輪の街は 商業の中心として繁栄した場所だと認識する。 古い街並みの中には閉まっていたが、お菓子屋さんの建物や杉玉を吊るした酒屋さんが立ち並んでいる。 酒屋さんの店先には新酒が並べられているので、中に入って聞くと搾りたての吟醸酒とのことで、紀行の打ち上げにgoodだと買い求める。 店内に酒粕や甘酒も売っているので、明日は雛祭りと思いだし一緒に買い求める。良いお土産が出来た。
しばらく進むと出口橋に出て、橋の横に立派な「常夜燈」が立っている。「上つ道」はこのまま真っ直ぐに進み、飛鳥に通じているが、 「伊勢本街道」は手前の道を左折して「山の辺の道」を経由して行くようだ。奈良から歩んで来た「上つ道」とはここでお別れだ。 JR桜井線の踏切を渡り、ガソリンスタンドの所で、左の細い道に入って行く。「山の辺の道」の「金屋の石仏」に寄り道しようと、その曲がり角を 探していると道標を見つけて、より細い道を左折して坂道を上って行く。
緩やかな坂を上った所に「金屋の石仏」を祀る祠が建っている。静かな雰囲気の中に祀られているのだ。
鎌倉時代の作といわれるが、天平末期という説も。もとは大神神社近くの平等寺にあったが廃仏毀釈で寺と一緒に破壊されるところを 村人が移し、今も守り続けている。 (桜井市観光協会ばHPより) 石仏の保存状態も良く、お堂の中を覗き込んで参拝する。横のベンチに座り一息入れる。(10:40) 「巻向〜金屋の石仏」の「紀行スライドショー」 元の道に戻り、進むと道標と説明板が立っている。ここは「海柘榴市(つばいち)」跡とのことで、こんな内陸部に交易の集積地があった ことに驚く。先程の「三輪恵比寿神社」の「三輪の初市」も含め、
海柘榴市は人々が物々交換する市道(いちじ)であり、後世の市場のおこりであります。和名を「椿市」としるす。 このあたり一帯は、 古代の結婚の場となった「歌垣(うたがき)」が行なわれていた。春秋の季節には青年男女が集まってきて、必死に恋のかけあい歌を 投げ合っていた。(桜井市観光協会ばHPより) また、若い男女の出会いの場であり、「歌垣」と呼ばれる恋歌を交わす文化もあったそうだ。現在の合コンのはしりか? しかし、 「海柘榴市」と書いて、「つばいち」と読むのには??と思っていたが、「椿市」と書いたのだと知ると納得できる。
その入口に「左、いせ」の道標が立っている。古い道標が所々に点在して来たことは、昔の街道が残っている証しだ。 河原に大きな黒い石の碑が立っている。 「佛教伝来之地」と刻まれ、説明文によると難波の地から大和川を上って、百済から仏教が伝来した地だと。「海柘榴市」も含め、文化・商業の中心地であることを改めて認識する。しかし、そんなに深いとも思えない大和川を 遡って来たことは凄い。 大和川に架かる橋の上に行くと、対岸に大きな絵が描かれているので、渡って見学に行く。 タイルに描かれた絵は、遣隋使の小野妹子が隋から帰国した時に出迎えた時の絵のようで、仏教伝来や中国・朝鮮との交易時に船に馬を載せて、 表敬した当時の想像画で、見事なものだ。 河川敷の遊歩道には、可愛い「山の辺の道」の道標が埋められている。行政も観光に力を入れていることが分かるものだ。
「佛教伝来之地」碑に戻り、河原の道を進むと小さな「錺馬(かざりうま)」の像が数匹設置されている。先程のタイルの壁画に描かれていた 中国からの渡来した馬で、もう少し進むと大きな「錺馬」が立っている。大きくて立派な馬なのに驚く。 大和川の流れを見ながら上流に進む。下流では日本一汚ない川との悪名のある大和川もここでは、雨で濁ってはいるが、きれいだ。
河原の道から堤防の上に上がり進むと国道165号線の高架道路に出会い、その下を東に向かう。この辺りから「初瀬街道」になるのだろうが、 道路が拡幅され旧街道の雰囲気がしない。本来、途中から左に向かわなければならないのを、高架沿いに進むと左の山の麓に神社らしき 物が見え、確認すると「玉列(たまつら)神社」と読めたので、その方向に向かう。 「玉列神社」は「大神神社」の摂社で椿で有名な神社のようで、3月下旬には「椿まつり」が開かれると。この辺りの椿と先程通った 「海柘榴市」が「椿市」と云われたことと結びついているのだろうと想像する。 隣に建つ「慈恩寺」には「阿弥陀如来坐像」が祀られ、境内には樹齢800年のケヤキの老木が植えられており、旧街道の趣に戻ることが出来た。
道なりに進むと脇本の交叉点に至り、国道を渡り、横の細い道に入る。前には近鉄電車が走っている姿が見られ、静かな集落の道を淡々と 進む。「伊勢街道・白山神社」の道標があり、細い路地を国道に出ると「白山神社」が鎮座する。 国道の歩道を進む。小さな祠があり、そこには室町時代に造られた赤いよだれ掛けをした「流れ地蔵」が祀られている。
しばらく国道を進み、左への細道が旧街道で入って行く。国道と旧街道が入り交じりながら存在するのは「中山道」でも同じで、何となく 旧街道が分かる。曲がった所の家の軒先に「おいせまいり」の白い札が吊るされていて、判断が正しかったことを確認する。これからも この道標の札が力を与えてくれるだろうと。
「十二柱神社」の祭神は国常立命等の天神七代と地神五代の十二柱です。 ここら辺りは、桜井市大字出雲で、第25代武烈天皇の 「泊瀬列城宮(はつせノなみきノみや)」があった所とも云われ、また、土師氏の先祖で、野見宿禰(のみノすくね)が居た所で、 境内には彼の顕彰碑と五輪塔があります。
石段を上り鳥居をくぐるり、狛犬を見ると他の神社とは異なった台座になっている。野見宿禰に因んでお相撲さんが支えているのだ。 本殿に参拝して、今まで全く知らなかった武烈天皇の「泊瀬列城宮」を見学して次に進む。
旧街道は再び国道に合流し、そしてまた旧街道を進み、国道に出る。うねうねと曲がる旧街道の真ん中を拡幅された国道が設けられたのは、 「中山道」等と同じだと思いながら国道を進むと「長谷寺」への参道が見えて来る。 季節外れで参詣人が少ない参道を上って行く。お土産物屋さんも開いている所は少なく、少し寂しい参道だ。名物の「くさ餅」を焼く お店もあるが、参詣人は誰も見られない。 「伊勢本街道」への分岐点となる「伊勢辻」には古い大きな道標が立っている。 「右いせみち」と深く彫られた文字は年代を感じられる。
参道には「白髪神社」等、神社・仏閣も鎮座していて、「長谷寺」に向かって上って行く。そろそろ昼食時なので、店屋さんを探し、 三輪名物の「にゅうめん」を食べようと食堂に入り、昼食とする。温かい「にゅうめん」を食べて、冷たくなった体が温まり、 午後の歩行へのエネルギーが出た。(12:35-13:00)
「金屋の石仏〜長谷寺」の「紀行スライドショー」
O君が以前ここ「長谷寺」にハイキングで訪れた時、「長谷寺」の全景を眺められる山に登ったと。そこが何処かははっきりしないので、 食堂の女将さんに尋ねるが、分からない。 横の「與喜天満神社」へ登る途中の橋の上から「長谷寺」を眺められると教わったので、昼食後、「與喜天満神社」に向かうことにする。 食堂の横の朱色の橋の上からは「長谷寺」の本殿は眺められるが、全景のイメージではなく、「與喜天満神社」の長い石段を上って行く。 階段の途中には紅白の梅が咲き乱れ、参道には花びらが絨毯のように散っている。さすが「天満宮」だ。 フーフー云いながら、急な石段を上ると、古めかしい本殿が鎮座しているので参拝する。本殿は木々に囲まれて景観は望めず、目的の場所で ないことが分かった。 角度からしても近すぎるので、諦めて階段を降りて元の食堂前に戻る。
参道を「伊勢辻」まで戻り、「伊勢辻橋」を渡り、左に進むと小さな鳥居が建つお稲荷さんの祠が鎮座する。ここからは「化粧(けはい)坂」 と呼ばれる急な坂道になり、「暗峠」の上り口と同じ位だなぁと話しながらくねくねとした坂道を上る。 「化粧坂」とは、なかなか粋な名前で、「けはい」と読むとは。語源は古代の倭姫命や伊勢に向かう女人達が長谷寺から坂を登り一汗か き化粧を直した坂(峠)とか。途中の坂道は土砂崩れで道が半分埋まっていた所もあるが、ゆっくりと進む。
「化粧坂」を上り切った所から旧街道は左に進むが、O君の勘で右側に進む。なだらかな丘を上るとそこからは「長谷寺」の本殿、長い回廊が 一望出来る目的の場所だった。
そこには何か煙のようなものが立ち昇っている。杉花粉が舞い上がっているのだ。 TVの画像やCMで見たことはあるが、杉花粉の舞い上がる様を見るのは初めてなので、少し興奮した。 近くの杉の木を見ると褐色の杉花粉が、今にも舞い上がろうと熟している。 丘の上には「愛宕神社」の祠が静かに祀られている。ほとんど人も来ない所にひっそりと鎮座し、「長谷寺」を見ているのだ。 静かに参拝して、元の旧道に戻ると向こうの山にも煙がたなびいている。杉花粉だ。薄桃色や緑がかった煙が一面にたちこめている。 遠いので上手く写せないが、杉花粉の飛散現場をパチリ。この光景を見たら、杉花粉症の人はクシャミ連発だろうと、症状のない二人は元気良く 上りとは違った緩やかな「化粧坂」を下る。
「化粧坂」の下り道にも石仏が祀られ、「天満宮」の祠が鎮座する旧街道の面影かある。少し下るとコンクリートの道が地道に変わる。 今回の「伊勢本街道」で初めての地道ではなかろうか。やはり地道の感覚は膝や腰に優しく気持ち良い。 道端に「ふきのとう」が顔を出している。春の到来を感じさせる山菜を手分けして摘む。梅やふきのとうと春間近だ。坂を下り切ると 「奈良県桜井浄水場」の横から国道に出る。
「長谷寺〜化粧坂」の「紀行スライドショー」 しばらく国道を歩き、歴史街道の案内板を過ぎると旧道に分岐する。所々で旧道に進めるのは嬉しいことだ。道脇には石の祠に囲まれた 「お地蔵様」が祀られている。反対側には棚田が広がり、気持ち良い田園風景を楽しみながら、再び国道に戻る。 車の少ない国道を淡々と進む。バス停があり、名前を見ると「吉隠(よなばり)」だと。この文字も読めない。地名は難しいと改めて 感じ入る次第だ。 再び、旧道に入って進むと真っ黒い石の道標が立つ。「右いせ」と刻まれ、文化4年と記されている。旧街道の道標が旧道には残っている のだ。
再び国道165号線を進む。道の反対側には石仏を祀る祠が見られ、段々と坂道になり、西峠の交叉点に至る。 一見、四辻の交叉点に見えるが、地図では五辻の交叉点になっている。信号を渡り、確認するともう1本道があり、その先の石垣の枝に 白い「おいせまいり」の道標が吊るされていたので、一安心して進む。
しかし、次の道から間違ったルートを進んでしまった。後から見ると単純なミスだが、次の道を右に行き、国道を渡ってしまい、国道に沿った 道を左に行ってしまったのだ。 正式ルートは次の道を越えると自然に国道に合流し、国道を渡って、次の道を左に進むのだが・・・・。 住宅街に入ったが、期待した「おいせまいり」の道標が見当たらない。方向は間違っていないと諦め、進むと階段の道があり、下に降りるが、 まだ正式ルートではないようで、小学校の前を通って坂道を下ると古い家が立ち並ぶ細い道に出会い進むことにする。 旧街道らしい道に出たので、その道を戻ると道路を横断する「伊勢本街道」の看板が掲げられている。この道で間違いないと思い、旧旅籠の 「あぶらや」の場所を地元の方に尋ねると、我々が曲がって来た角の家がそうだと分かり、それ以前の史跡の探索は諦めて、戻ること にする。 看板の下には銭湯があるが、開店は17時からとのことで、入浴は出来ない。 夏場の紀行だと汗を流したい所だが、今日は汗もかいていないので大丈夫だ。 先程曲がって来た角に、本居宣長も泊まったと旅籠「あぶらや」が昔の趣きのままに建っている。 この辻は「札の辻」と呼ばれ、大きな道標が立っている。「右・伊勢本街道、左・阿保越への道」と刻まれている。風格もあり、堂々とした 道標だ。
「あぶらや」の前には洋館の建物が非対称のように建っている。江戸時代と大正時代が同居しているようだ。 道に迷ったため西峠から「あぶらや」までの史跡はパスしたが、「榛原宿」のメインの史跡を見学出来、一安心だ。
少し進んだ所に大きな「常夜燈」が立ち、近鉄大阪線の高架下を抜けて、榛原駅に向かう。 高架を抜け直ぐ右に進めば駅なのだが、反対側の角の家に道中笠や杖が飾られている。前に行くと「古民家・池田家住宅」の標識と 「伊勢本街道保存会事務局」の看板が掛かっている。 中に入るとご主人が出て来られ、挨拶をし、「おいせまいり」の道標に助けられているとのお礼を云い、榛原以降の地図がないかと 尋ねると「うだの難所を行く」の地図を頂いた。これからはバスの時刻や宿泊所を確保して進むようにと助言をいただき、感謝・感謝!! 地図は宇陀市・曽爾村・御杖村を通る「伊勢本街道」の詳細な地図で、榛原駅からの距離も記されており、今後の計画・実践に大いに 活用させてもらえるものだ。 駅に向かう商店街の中には、珍しい大衆演劇の看板も立ち、地方都市の面白さを感じられた。まだ時間が早いので、居酒屋は開いていず、 何処か打ち上げをする所がないかと探しながら駅に向かう。
「化粧坂〜榛原」の「紀行スライドショー」 居酒屋がないので、駅前のコンビニでビールとおでんを買って、駅の待合室で乾杯をすることにして、今日の紀行を終える。今日の歩行歩数は 33000歩、16.7kmだた。(15:30) 駅の待合室で、ビールで乾杯し、おでんを肴に先程買った新酒を楽しむ。距離的には短かったが、「上つ道」「山の辺の道」「初瀬街道」と 史跡を通じて、知らなかった歴史に接することが出来、充実した紀行だった。 しかし、ここで終わるのではなく、第1回目の紀行時、一緒に乾杯したM君を呼び出し、上六でもう一度乾杯する楽しいひと時を過ごした。 M君は名張に住んでいるので、何時の日か名張でも乾杯出来れば良いのになぁ・・と話して第4回目の「伊勢本街道」紀行を終える。
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