[日本橋〜越谷][越谷〜幸手][幸手〜古河]


○ 「日光街道No1」見聞録(日本橋〜古河)・(距離 66.7km(今回)/ 66.7km(累計))

  2.「日光街道」越谷〜幸手・(24.5km) 2015.05.27 7:30〜15:20 晴れ


日光街道マップ
(幸手観光協会より)
日光街道・奥州街道(宇都宮〜白河)宿場一覧
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「越谷〜幸手・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。

ぐっすりと眠り、夜中に目覚めることもなく、5時前まで眠る。関東の日の出は早く、窓の外は明るくなっている。朝食が7時からなので、その前に 「越谷宿」を散策しようと準備する。
地図を片手にホテルを出ると夜明け直後の空気は冷たい位で気持ち良い。昨日、県道から分岐した地点まで戻り、まだ、人も車も通っていない 旧街道を散策する。 古い家屋も残っており、風情のある「越谷宿」だと思いながら、気持ち良く巡る。名前も分からない旧家屋を巡っていると洋館建ての 横田診療所も建ち、細い路地に沿って黒塀が続く旧家も残っている。少し先の塀に「越谷宿」の標識が掛けられているのが、宿場名を残す 史跡(?)だろう。

横田診療所 古い建屋

長い黒塀

越谷宿標識 古い商家


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

静かな旧街道の右に「市神社」が鎮座しているを確認し、元荒川に当たり、その堤の上の道を右に進む。木立が茂り、気持ち良い道を進むと 右に「越ヶ谷御殿跡」の碑が立っている。この辺りは、徳川家康が鷹狩りをした所で、将軍秀忠が建てた広大な御殿があった跡だと。
少し進んだ左には「板碑」が立ち、大きな一字の梵字と建長元年(1249)の銘がある。

市神社

越ヶ谷御殿跡の碑

板碑


元荒川のつつみを進み、宮前橋を渡って「久伊豆(ひさいず)神社」に参拝する。

久伊豆神社

宮前橋を渡ると藁縄が巻かれた珍しい鳥居が立ち、真っ直ぐに石畳の参道が本殿に向かっている。
当社は、大国主命・言代主命(大国様・恵美須様)の二柱を主祭神とし、五柱を奉斎しています。
創建年代は平安時代中期と推測され、 江戸時代には鷹狩りの折に越谷に宿をとっていた徳川の将軍が参拝されたと言われています。 社紋「立葵」はその際に徳川将軍家より奉納されたと伝えられるものです。明治の御維新の後は当地の総鎮守として、 方災除け・八方除けの御神徳で知られています。
(越谷市Pより抜粋)

100m以上はあると思われる参道には、ウォーキングをしている方が多く、挨拶をしながら石畳を進む。
木々に囲まれた気持ち良い参道を楽しみながら本堂に向かい、旅の安全を願い拝礼する。
拝殿の両側に、面白い「狛犬」が祀られている。 なんと、前足を荒縄でぐるぐるに縛られているではないか。 家出や悪所通いをする者に対して家族の者が「足止め」といって狛犬の足を 結ぶと必ず帰ってくるという云い伝えによるものだと。面白い風習だ。
早朝の神社に参拝し、心新たに、長い参道を戻る。朝食時間にも丁度良い時間になったので、勘を頼りに、来た道ではない近道を探しながら ホテルに戻る。

藁縄が巻かれた鳥居

長い石畳の参道

荒縄で前足を縛られた狛犬


早朝の散策で、「越谷宿」の街並みや少し離れた史跡も訪れることができたのは、今日の行程に大きく貢献したと満足し、部屋に戻って 出発の準備をする。

朝食

真夏日になる予報なので、熱中症対策が必要だ。
7時になり、朝食会場に向かう。数人の方が居られたが、無料の朝食も満足できるものだ。しっかりと食べていると、昨日出会った三人の方が 来られご挨拶。昨日は、南越谷駅近くで飲み、21時前にチェックインしたそうだ。
今日は、南越谷まで戻って歩き始め、幸手まで進み、このホテルまで戻って、明日は幸手から進むと。健脚なので、途中で追いつかれるかも 知れませんねと話し、一足先に出発する。
早朝の散策で、「越谷宿」の一部や周辺の史跡を確認したので、旧街道を元荒川まで、真っ直ぐに進む。
早朝と違って、陽射しが強くなり暑さが増してくる。元荒川を大沢橋を渡って少し進むとモダンなパン屋があり、そこが「越谷宿・本陣跡」 らしいが、標識もなく、通過せざるを得ない。その先、北越谷駅近くに脇本陣があったようだが、マンションが立ち並び、その面影は 残っていない、
東武線の高架に沿って進み、ガードを抜けると堤防があり、その先左の森は「宮内庁埼玉鴨場」だと。幕府の鴨場を引き継いだもので、 門が閉ざされていて、中をみることはできない。
陽射しがきつくなり、陰を探しながら歩くと左奥に「香取神社」が鎮座している道角に、コンビニがあるったので、冷たい飲み物を仕入れる。 水分補給は必要だ。(8:15)

元荒川

越谷宿・本陣跡

宮内庁埼玉鴨場


一息入れて出発する。淡々と進むと東武線の踏切を渡り、緩やかに左に曲がって行くと国道4号線の高架に当たり、その下を進む。 この辺りは「下間久里」と云う地名で、「下間」と検索するとこの地名が一番初めに出て来たので覚えている。その時は、ここを通るとは 全く思っていなかった。
単調な道を黙々と進むと国道4号線に合流し、より単調な国道歩きとなる。しかし、暑いのには参ってしまう。広い国道には、陰もなく、歩道の 照り返しも厳しい。「旧山陽道」紀行時の岡山・吉備路付近の暑さ・熱さを思い出す。少し先に、スーパーマーケットがあったので、涼を求めて 一息入れる。(9:10-9:20)
こんなに国道歩きが続くとは思わず、史跡も残っていない、陽射しの強い国道を進むと国道沿いに「地蔵堂」が祀られ、初めて史跡に出会った と思い進むと備後北 交叉点の右手前に「備後一里塚跡」の碑が立っている。
再び、国道歩きとなるが、暑くてたまらず、スーパーを見付けて立ち寄り、冷菓を買い、保冷用の氷をビニール袋に入れて、首筋を冷やす。休憩所で 又もや一息入れる。(10:25-10:35)

国道4号線歩き

地蔵堂

備後一里塚跡


「日光街道(越谷〜幸手@)」の「紀行スライドショー」

帽子の中に氷袋を入れて歩き出すと交叉点に、朝食の時に挨拶した三人の方が居られるではないか。話しかけると、南越谷まで戻り、 歩き始めたと。1時間も早く、越谷を出発したのに追いつかれたのだ。改めて、健脚振りに驚く。
まだ国道歩きは終わらない。途中、三人はコンビニによられたので、東武野田線の高架下を単独で抜けて進むと三叉路に分かれている一宮交叉点に 到達する。
左の通りが旧街道で、直ぐ右に建つ「東陽寺」に立ち寄る。 本堂の階段下に、河合曽良旅日記の一部「廿七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と刻まれた石碑が立っている。石碑には、旅姿の芭蕉と 曽良の絵も彫られている。二人はここ東陽寺に泊まったとか。(小渕の観音院に泊まったとも)
左の旧街道は、見事に整備された街並みになっており、「粕壁宿」の面影は感じられない。しかし、右に白壁の立派な「田村家」が建ち、 その前に大きな道標が立っている。「西南いハつき(岩槻) 北日光 東江戸」と彫られた立派なも石碑で、史跡を見付け、ほっとする。

東陽寺 曽良旅日記の碑

粕壁宿の街並み

田村家の前の大きな道標


粕壁宿案内板

きれいに整備された旧街道を進むと交叉点の向こうの広場に「粕壁宿案内板」が立っている。この辺りに「問屋場」があったようだが、何も 残っていない。
今から約7000年前春日部は海でしたが、鎌倉時代の領主春日部重行を中心とした春日部氏が台頭。これが現在の「春日部」の語源と なっています。
江戸時代になると春日部は日光街道第四の宿場として栄えます。 文字も「粕壁宿」という字が使われました。また、この時代は古利根川を江戸を結ぶ航路として重要な役割を果たして春日部も 米麦の集積地だったために街道もかなりの賑わいを見せました。
明治元年粕壁宿は武蔵県に属し、明治22年埼玉県南埼玉群粕壁町となり、昭和29年春日部市が誕生しました。(春日部市Pより抜粋)

更に進むと落ち着いたお茶屋さんが、昔の風情を残して立っている位で、淡々と進む。旧街道は、右に曲がって行くが、直進して突き当たりの 「最勝院」に立ち寄る。
境内には、「春日部」の由来となった「春日部重行の墳墓」が墓地の奥に祀られている。足利尊氏の軍勢に敗れた春日部重行は京都で自刃し、  遺骨が持ち帰られ最勝院に葬られたと。
元の道に戻り、右に曲がって行くと古利根川の広い川に出て、新町橋を渡って「粕壁宿」を後にする。

お茶屋さん

最勝院 春日部重行の墳墓

古利根川


古利根川を渡り、次の信号を左折して少し進むと、右に「小渕一里塚跡」の碑と「庚申塔」が祀られている。日本橋から9番目の一里塚なので、 36km歩いたのだ。
少し進むとY字路となり、その角に「小渕の追分け」が立っている。「追分け道標」には「左日光道」と刻まれているので、左の道を選んで進むと 国道4号線に合流し、その先に広い春日部野田バイパスが通っている。そろそろ昼食時間なので、食事処を探すと回転寿司「くら寿司」があったので、 寿司と冷やしうどんを食べ、一息入れる。(11:55-12:15)

小渕一里塚跡の碑と庚申塔

小渕の追分け 道標

昼食


「日光街道(越谷〜幸手A)」の「紀行スライドショー」

昼食を食べ、身体も冷えたので、気分新たにバイパスを渡って「杉戸宿」に向かう。
国道4号線を少し進むと左に「観音院」が建ち、境内には「芭蕉句碑」の「毛(も)のいえば 唇さむし 秋の風」が立っている。ここも、 芭蕉と曽良が最初に泊まった場所だとも云われていると。
暑さの厳しい国道歩きを続けると杉戸町に入り、歩道に「北緯36度の地球儀」が立っている。初めは何かと思ったが、 地球儀が、世界の北緯36度の都市を示しているのだ。面白い企画だと一服の清涼剤を得たようだ。
しばらく進むと旧街道は、国道を離れて左に入って行く。少し先の左に「祠」が祀られ、「道標」が立っている。

観音院 芭蕉句碑

北緯36度の地球儀

祠と道標


旧街道は、再び国道4号線と合流し、単調な国道歩きが続く。今回は、国道歩きが多く、精神的にも疲労度は高い。
国道には、東京から40kmの標識も立ち、国道4号線で40km進んだことを示している。やがて、旧街道は、国道から左に入って行く。 直ぐ、公園があるので、いよいよ「杉戸宿」だと、一息入れる。(13:15-13:25)
整備された「杉戸宿」の街並みの中に、木製の常夜灯らしき看板が立つ商店もあり、その先の交叉点の旧家の屋根には「鍾馗様」が祀られている。 (写真はピンボケでNG)
その先には、江戸末期からの造り酒屋の「関口酒造」が建っている。古い建物が残っているのは嬉しい。更に進むと「神明神社」が鎮座し、 その先の銀行前に「明治天皇小休止址」の碑が立っている。

木製の常夜灯の商店

関口酒造 神明神社

明治天皇小休止址の碑


交叉点の標識が「本陣跡地前」とあるので、この辺りに本陣があるのだろうと探す。

杉戸宿本陣跡

道横の垣根に「道標」が立ち、「粕壁宿・・」と彫られているが読めない。
その先の空き地の奥に、立派な松と門構えを持つ旧家が見える。 案内板がないが、これが「本陣跡」と確信しする。
杉戸宿は、1616(元和2)年に人馬継立を命じられ、成立したと言われている。当初は上・中・下町のみであったと考えられている。 その後、河原組・新町が宿に組み入れられた。
日光街道は元々上杉戸方面を古利根川に沿って北上し和戸橋付近で御成道と合流するルートであったが、1647(正保4)年に現在のルートに付け 替わっている。また「日光道中分間延絵図」では、この新日光街道の杉戸から幸手に至る区間には柳が植えられていたことが確認できる。 (杉戸町Pより抜粋)

この周辺に、脇本陣があるようだが、それらしき旧家は残っていない。その先に古い趣のある旧家が残っている。
ここが脇本陣の一つだった のではないかと思いながら歩を進める。
旧街道は、緩やかに右に曲がって行くが、その角にも旧家が残っている。その先左に「宝性院」が建っている。
旧街道の趣が残る立派な家が残る道を進むとやがて国道4号線に合流する。

道標

脇本陣らしき旧家

緩やかな曲がり角


国道歩き

田園風景

再び、国道歩きが始まる。午後の陽射しは、陰のない国道に照り付け、暑さと単調さに参ってしまう。
国道の道脇に「茨島一里塚」があるとのことで、注意して進んだが、発見することができなかった。
やはり、注意力が散漫になっていた のだろう。単調な国道歩きが続く。
やがて、上高野小学校入口の信号から、左の旧街道に入り、やっと国道歩きから解放される。
少し先で、東武日光線の踏切を渡ると 田園風景が広がり、気分的にほっとする。この辺りから、富士山が見られるとのことで、期待したが遠くは曇っていてダメだった。
気持ち良い田園風景を見ながら進むと首都圏中央連絡自動車道の高架下を抜ける。更に進むと日本橋から本郷・川口・岩槻を通ってきた 「日光御成道」との追分に到達する。道角の案内板によると、「日光御成道」は、徳川家光の時代に整備された将軍が東照宮に参詣する際「おなり」 になった道筋だと。
追分を右折して「幸手(さって)宿」に向かう。少し先の右奥に、源頼朝が奥州征伐の時、戦勝祈願して開基した「神宮寺」が建っている。 源氏の史跡も時々見られるようになって来たと思いながら進む。
東武日光線の踏切を越え、志手橋」を渡ると、「神明神社」が右奥に鎮座し、境内には「たにし不動」と呼ばれる お不動様が祀られている。 この辺りには、高札場があったそうだ。

日光御成道との追分

神宮寺

神明神社


いよいよ「幸手宿」に入ったと気持ちを新たに進むと交叉点の左に「明治天皇行在所跡」の碑が立っている。その先には古い建屋も建ち、 宿場に入ったのだと認識する。
その向かいに、今夜泊まる「旅館・あさよろず」が建っているのに驚く。宿場の入口にあったのだ。まだ時間は早いが、今日は国道歩きが続き、 その暑さと単調さに疲れたので、チェックインすることにする。宿のご主人と話すと「朝萬(あさよろず)」は1819年(文政2年)創業の旅籠だったようで、 創業200年近くなると。宿は昔の旅籠に泊まれたらgoodと考えていたので、大満足だ。(15:20)

明治天皇行在所跡の碑

幸手宿の旧家

旅館・あさよろず


「日光街道(越谷〜幸手B)」の「紀行スライドショー」

和室の部屋に通され、早速、大浴場に行き、広い湯船で足腰をマッサージする。少し張っているが、痛みもなく大丈夫だ。
部屋に戻り、ご主人からもらった「幸手宿マップ」を眺めながら、作戦を練る。今日と同じように、早朝に「幸手宿」を散策し、朝食後、 「古河宿」まで進もうと計画する。
駅前に夕食処がありそうなので、行ってみるが、店は少なく、焼き鳥屋でビールで乾杯する。美味しい!!
庶民的な店で、シニアの方が多く、隣の人と話しながら楽しく呑み、食べる。疲れも取れ、旅館に帰り、直ぐに眠ってしまう。 今日の歩行歩数は50000歩だった。平坦な道だったので、思ったより歩いたのだ。しかし、国道歩きは、単調で暑かった!!

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