○ 「中山道No9」見聞録(大井宿〜中津川宿)・(距離 9.8km/ 198.7km/ 335.3km)
9−1.(46)大井宿〜(45)中津川宿・(9.8km) 2009.04.08 9:20〜14:00 晴れ
前回は、1泊2日の日程で、「美濃路」の自然豊かな旧街道を歩き、新緑の峠道・石畳・点在する史跡を満喫した。 「青春18きっぷ」を活用しているため、春の予定はこれで終わり、次の行程は夏の「青春18きっぷ」で実施する予定だったが、 計画していたプランが流れ、「青春18きっぷ」が余ったので、急遽実施することになった。 今回も早めに帰宅しなければならないので、日帰りで「大井宿」から「中津川宿」、上手く行けば「落合宿」まで行き、 「美濃路」を踏破出来ればと計画した。 前回と同じ様に、高槻発5:00の1番列車に乗るべく、4時20分頃出発する。薄明るくなって来ている道を自転車で駅に行き、 ガラガラの列車で京都へ。 京都で乗換え、米原で金山行の快速電車に乗る。前回までは途中の大垣や岐阜で乗換えたが、今回からは そのまま名古屋まで行き、中央本線に乗り換えるのだ。 米原から座り、ウトウトとしていると通勤客で満員になる。名古屋着が8時04分、名古屋発の中津川行は8時07分と3分の余裕 しかないので、ホーム移動を急ぐが、思っていたより混雑がなく、余裕を持って乗ることが出来た。 中央本線の快速電車の車両は素晴らしく、特急車両を流用しているようだ。居住性の良い座席で、初めての中央本線での紀行が スタートする。 車窓からの桜は満開で、駅・堤防の周辺には桜がたくさん植わっている。青空と満開の桜を眺めながら恵那駅に到着する。(9:10) 前回は「中山道広重美術館」を見学して帰ったので、「大井宿」のメインは見学していない。史跡も残っているとのことなので、 期待して第一歩を踏み出す。
地図に従って、「中山道広重美術館」に行くまでの道を左折し、旧街道を進むと「大井橋」が架かっている。 その欄干には 安藤広重等に描かれた「中山道69次・浮世絵」が掲げられている。さすが、美術館が設けられている恵那市の心意気か。 橋を渡った所にある和菓子屋さんの前には木製の「大井宿・常夜灯」が設置され、宿場に入ったと実感出来る。 直ぐに枡形になった道を左折し進む。この宿場の枡形はメリハリが利いていて分かり易い。少し進むとまた右に曲がり、再び右に曲がり、 「大井橋」から直進する現在設けられた道に合流する形になっている。 枡形に沿って曲がって進むと、「弘法大師」像が祀られ、古い家屋の横に「白木番所跡」の説明板が立っている。 ここは尾張藩に属していて、木曽の材木の管理を中心に行っていたと。
「市神神社」の鳥居の前を再び右に曲がると、古い街並みが現れる。江戸時代の「大井村庄屋古屋家」で、立派な建屋だ。 防火意識が強く、卯建(うだつ)を付け、塀・柱等も土壁で覆ってあるそうだ。 枡形は「大井橋」からの道に当たる角には旅館「いち川」が建ち、曲がって進むと旅籠「角屋」跡の説明板が立っている。 その写真は明治初年撮影のもので、貴重なものだろう。 ここからの「大井宿の街並み」を眺めると、人影もなく落ち着いた雰囲気を満喫する。
街並みの中には「明治天皇行在所跡」の建屋や「脇本陣高木家・下問屋場跡」の古い建屋と説明板が立つ。 「大井宿」の史跡は残っているものは当時の状況で保存し、焼失したものは説明板で残す、この行政の姿勢は 嬉しいものだ。 向い側には本陣家から分家した「宿役人の家」が建ち、ここで宿場の中枢の業務を行っていたのだろうと。 街並みを進むと「ひし屋資料館」が建つ。開館されていたが、帰りの時間に制約があるので、残念ながら入場を 諦めて次に進む。
次の枡形の角に「大井宿・本陣」の正門が当時の姿で堂々と建っている。
街道から見る正門と松の風情は、かつての中山道大井宿をしのばせてくれる。正門は江戸初期の華麗な造りである。 (恵那市地域情報サイトより) やはり当時から残っている史跡は貫禄がある。戦後なのに火災にあって屋敷が焼失したのは残念だ。 旧街道は枡形に沿って進むが、本陣跡の裏側に史跡があるとのことで立ち寄る。 裏側の小道を中に進むと小さな社が建っている。「内城稲荷と源斎の根付け石」の説明板が立つ。稲荷神社なのだ。 更に進むと保育園の手前の高台に皇女和宮が愛用した「和宮泉」の井戸が残っている。 皇女和宮に関連する史跡が 「中山道」にはたくさん残っている。お付きの方も大変だったろうと想像したくなる。 「本陣跡」に戻り、枡形に沿って進むと正面に「延寿院」のお寺を右に曲がり枡形を抜ける。
少しづつ坂道になり、川を渡り上って行くと「五妙坂高札場」が復元されている。「高札場」を見ると旧街道を歩いている とのだと云う実感が沸く。 近くに祀られる「馬頭観音」に目礼して、旧街道らしい小道を更に上って行くと大きな「南無阿弥陀仏の碑」が立ち、その 先の明知鉄道の低い高架をくぐり抜ける。
満開の桜や桃、レンギョで色とりどりの旧街道の坂を上ると、小さな川が流れ、地元の婦人が水路に入って野菜を洗っている。ご挨拶して、横に立つ 説明板を読むと江戸時代に造られた灌漑用水「山本用水」だと。 坂道に沿ってたくさんの石仏・石塔が並んでいる。ここは大井宿のはずれで,村人たちが病魔が村に入らないようにと石仏・石塔を 建立したと。これら石仏・石塔の真ん中に位置する「痰切地蔵」(赤い頭巾と前掛け)は,風邪を治してくれるのでお参りの人が多い とか。 この「上宿石仏群」を眺めながら進むと階段があり、その脇に「上宿の馬頭観音」が祀られている。 この「大井宿」周辺も「馬頭観音」を始め、史跡が点在し、旧街道の趣きが感じられるのは嬉しい。 階段を上ると「菅原神社」の鳥居があり、下の中央自動車道の車の流れを見ながら袴道橋を渡る。
中央自動車道の高架を渡って坂を上ると小高い丘の上から恵那市の街が望める。青空の下、前回歩いた「十三峠」方向も 眺められ、足跡を確認する。 「大井鬼子母神」碑や「明治天皇行在所旧跡」碑が広い道路の角に立ち、旧街道への道を進む。 紅白に咲き誇る立派な梅の 木を見ながら坂を上ると「関戸一里塚跡」の碑が立っている。前回の紀行では、一里塚が塚として街道の両側に残っていたが、 ここでは石碑が残るのみと寂しい。
この辺りから「甚平坂」と呼ばれる所で、右側に長い階段があるので上ると「根津神社」で根津甚平の墓とも云われている 「関戸宝篋印塔」が祀られている。
さしもの怪鳥も甚平の武勇にはかなわず,ついに西へと逃げ出した。甚平は馬を駆りこれを追うが,ついに大井の東の坂で馬は 倒れてしまった。 甚平は,犬と鷹を引き連れてなおも怪鳥を追い,これを退治したが,ここで犬も力尽きてしまった。 里人たちが,甚平の馬と犬を埋葬したのが,馬塚と犬塚であり,それ以後この坂を甚平坂と呼ぶようになったという。 (恵那市地域情報サイト・他より) HP作成中に写真を整理していると「甚平坂」の下り道で「馬塚」の石碑を写していた。その時は「馬頭観音」と同じ様な碑かと 思っていたが、多分、この馬のお墓だったのだろう。 「甚平坂」を少し下った所に、見晴らしが良く、しだれ桜が満開の「甚平坂公園」がある。 公園には坂の説明板と大きな「石の壁画」が飾られている。これは「中山道広重美術館」で買ったと同じ図案の「大井宿」の 浮世絵で、安藤広重がここから見た雪の光景を浮世絵にしたものだと。 この公園からは急な下り坂があり、雪の山々が望めたのだろう。
「大井宿〜中津川宿@」の「紀行スライドショー」 急な坂を下って行くと「庚申塔」が立つ。この辺りは庚申講が盛んであったと。今までの道中で「庚申」の名前は余り聞かなかったと 思うので、新たな学習だった。 青空の下、少し熱くなって来た舗装道路を東に向かう。昨年夏の紀行では、太陽が目に沁みたが、今の季節では気持ち良い。 無人の野菜販売所もあり、のどかな光景だ。 泥川を渡り進むと道角に「中山道碑」と「常夜灯」が立っているのを見て進むと「広久手坂」と記された石碑を見るが、 坂の感覚はない。またもや「馬頭観音」が祀られている。お花も供えられ、地元の方にも親しまれているのだ。 しかし、本当にたくさん祀られている。 下り方向に「中山道」と彫られた石碑が立ち、小さく「是より大井」と記されている。ここが、恵那市と中津川市との境界線の ようで、近くの木陰で一息入れる。(10:40)
英気を蓄え、中津川市を進む。この辺りも茶店があったのであろう「茶屋跡」の石碑や「石仏」が祀られ、往時の賑わいを感じる。 緩やかな下り坂からは遥か向こうに中津川市街らしき町が見渡せるが、まだ距離は遠い。道脇の桜は満開でこの季節の紀行しか味わえない 風情を満喫しながら、歩行を楽しむ。 「秋葉街道」との分岐点には、道の両側に「秋葉灯篭」と呼ばれる常夜灯が堂々と立つ。 その横には「茄子川小休所・篠原家」の古い建屋が立つ。当時は「大井宿」と「中津川宿」の間で本陣・脇本陣として利用されたと。 皇女和宮や明治天皇が小休止された建物が保存されているのは貴重だ。 並びに和菓子屋さんが店を構えているのは、この茄子川の集落は賑わったのであろうと想像出来る証拠と思われた。
平坦な道を進んでいると「尾州白木改番所跡」の石碑が立つ。木曽木材の輸送等への監視場として、所々に設置されているのは 木曽材木の重要性が認識できる史跡だ。 静かな茄子川集落の旧街道を東へ進むと「茄子川村高札場跡」の石碑が立っている。茄子川村が、宿場間の中間位置として 重要な位置付けであったことが、改めて認識できた。 しばらく進むと「坂本観音堂」が祀られている。この辺りに「馬頭観音」が祀られていたそうで、地元・旅人の信仰が厚かった ようだ。
少し進むとJR美濃坂本駅に通じる県道の高架下に至り、抜けると道に沿って「石碑群」が並んでいる。 写真を撮っていると東から 少し年配の旅人が歩いて来られ、しばらく話す。今日初めて出会った同好の士で、中津川から歩いて来られたと。 東から飛び飛びに「中山道」を歩いておられるそうで、今日は恵那まで進む予定だと。元気に進みましょうとお別れする。 直ぐに「坂本立場跡」の石碑が立つ。街道筋で馬の往来も多かったのだろう。 坂を上り、集落から離れた舗装道路を進むと民家の横に石の洞に祀られた「三津屋の馬頭観音」が静かに迎えてくれる。この辺りは 史跡が点在しているので、歩きながら注意しておかないと見落としてしまう。 広い道との交叉点に立派な地下道がある。車も通らず、人っ子一人いないのに、何故地下道?雪が深いのか、税金の無駄なのか・・・と 不思議に思いながら、地下道は通らず、交叉点を堂々と渡る。 道脇の荒れ地の中に、今日二つ目の「三ツ家一里塚跡」の碑が立つ。この辺りは「三津屋」なのだが、一里塚は「三ツ家」となっている。 ここも本来の塚がないのは寂しい。
畑の中の道を進むと「将監塚」の説明板が立つ。美濃代官であった岡田将監の墓とか。単調な道を暑くなって来た陽射しを浴びて 「中平神明神社」の説明板を見て東に向かう。 広場に祠があり、「弘法大師」が祀られている「弘法堂」を通り、荒れた土地と遥か向こうの山並みを眺めながら進むと 広い県道と合流する。その角に「旧道分岐点の道標」が 立つ。県道の向こう側にはJR中央本線が走っている開けた地だが、人家もない。久し振りに車が通る道に出た。
ここから中津川IC近くまでは県道を歩くことになる。車の流れは激しくないので、安全面は大丈夫そうだが、県道歩きは嫌だ。 歩道のない県道を進むと東巣橋の手前の家の陰に「東巣橋馬頭観音」が祀られている。本当に多いのに驚く。 道の反対側には「千旦林村高札場跡」の石碑が立つ。 ここで、西に向かわれている旅人と出会い、話す。東京から順番に歩いておられ、馬篭宿に泊まって、朝から歩いて来られたそうだ。 中津川IC付近は拡幅されて迷い易いから注意してとのアドバイスをいただき別れる。 「坂本神社・常夜灯」と桜が満開の参道を見て進むと「六地蔵石幢」が立つ。 大林寺への入口に当たり、水害除けや旅人の道中安全を 祈ってお地蔵様で、六面に六体の地蔵が刻まれている、この地方では数少ないお地蔵様だと。 県道を進むと中津川ICが見え、国道19号線と合流する手前で旧街道に入る。 先達のサイトでIC付近には食堂があるとの情報を 得ていたので、この辺りで昼食を食べようと探すと「大将」を見付け、昼食にする。 朝が早かったので、お腹も空き、餃子定食を平らげる。本当はビールも飲みたい所だが、「熊野古道」紀行時から、途中でのアルコールは 飲まない主義なので踏襲する。(11:55-12:20)
「大井宿〜中津川宿A」の「紀行スライドショー」 昼食でエネルギーを蓄え、元の旧街道に戻る。中津川ICを横目で見ながら、JR中央本線沿いの道を進む。 旧街道はR19と合流して、しばらく国道を進む。この辺りは拡幅されているので、先程出会った方が迷わないようにとの アドバイスを思い出し、方向を確認しながら進む。途中に「中山道」の矢印があったので、それに従って進むと下に道があり 何か道標が立っている。道路を渡り、階段を下りて道標を確認するが、方向が分からない。 R19のガードをくぐったりと旧街道を探すが、分からず、元の階段の所に戻り、再び階段を上って考える。階段から上った前に コンビニがある。ガイドブック等にもそれが示されていたのを思い出し、探ると「小石塚の立場跡」の石碑が立っているので、 これが「中山道」だと確信する。 結果的には、拡幅や道路の変更があったのであろうが、階段を下ったり、歩道橋を渡ったりして進む必要がなく、西からも東からも JR中央本線に沿って進めば良いようだ。 迷った結果、「中津川宿」への方向が確認できた。コンビニの前に立つ「小石塚の立場跡」の石碑を通り、曲がりくねった坂を下る。
曲がりくねった坂を下り、静かな道をしばらく進むと祠に石像が祀られ、石碑が並ぶ「会所沢の石仏群」が道脇の木陰に立つ。 石仏群にも時々出会うが、何か意味があるのだろうかと考える。
平坦な道を淡々と歩いていると青空の下、 満開の桜が迎えてくれる。 桜の木が小高い丘の上に植えられていて、横に「上宿一里塚」の碑が立つ。一里塚だったのだ。 一里塚の上に桜の木が植えられ、その桜が満開!。絶好の季節に訪れたことに心躍る。 今日出会った一里塚は全て石碑だけだったので、街道の片側だけだが、嬉しく思い、満開の桜を眺めながら一息入れる。 少し進んだ道脇の丘の上に珍しい「双頭一身道祖神」が祀られている。 美濃路には道祖神は数少ない。しかも双頭一身の像形はこの付近でも類を見ない。 道祖神は道路の悪霊を防いで行人を守護する神で、 この像は中山道から苗木道(飛騨道)への分岐点に建てられている。 この碑は文化13年(1816)3月、藤四郎ほかによる建立である。道祖神は男女相愛の柔和な表情や抱擁などの像形から、現在は愛の神と しての信仰が深い。(中津川観光なび!より) 珍しい道祖神に魅入る。考えてみても、今までに見たことがないだろうと。
坂道にかかり「左・苗木坂、右・中山道」の道標に従って坂を下る。くの字型の坂道には満開の桜が咲き、足取りも軽く下る。 この坂は「小手ノ木坂」と石碑が立つ。 平坦な道を東に向かうと「中山道・駒場村道標」が「中津川宿」への方向を示している。駒場の集落の中を進むと「駒場村高札場跡」の 石碑が立ち、横には高札が3札掲げられている。 道の曲がり角には道標が立っているので、交叉したり、曲がっている道も間違えることなく進める。広い県道を渡り、 「南無阿弥陀仏」碑等の石碑が並ぶ道を進む。 駒場集落の街並みも落ち着いて雰囲気のある街道で、「中山道・駒場町」と書かれた木製の小さな常夜灯が軒先に設けられている。 町ぐるみで「中山道」を保存しようとする意欲が感じられ、歩いていても楽しい。
堤の桜が満開の中津川に架かる中津川橋を渡って、中津川市の中心街に向かう。 渡って少し進んだ交叉点を左に行くと「ミニ中山道」と云われる「中山道・六十九次」を紹介する遊歩道があったのだが、気付かずに 進んでしまいパスしてしまったのは残念だ。 「中津川宿・下町」の街道を進むと「蔵元・恵那山」の立派な建物が建つ。蔵があり、卯建(うだつ)をあげ、黒い格子に白壁と 美しい。枡形の曲がり角にある民家の屋根は卯建をあげるために屋根瓦を曲げて作っている。珍しい屋根や卯建に古い街並みを 見上げながら進む。枡形の角には「恵奈山道標」が立ちっている。
枡形を曲がった短い旧街道も卯建のある古い街並みが保存されている。格子に宿場の浮世絵を飾ったりと旧街道の雰囲気が色濃く残る 「中津川宿」だ。 再び、枡形を曲がり、小型の常夜灯が立つ商家や「中津川村庄屋跡」の古い建屋を眺め進むと「中津川宿本陣跡」の碑が立つ。 立派な本陣だったそうだが、消失したのは残念だ。 向い側に「中山道歴史資料館」があるので、入場して見学する。これからの行程の資料や地図を入手し、「中津川宿 脇本陣跡」の石碑を眺め進む。
街角には「可愛い常夜灯」が立ち、街道筋の雰囲気満点だ。 常夜灯が立つ四つ目川橋を渡ると「中津川宿往来庭」と名付けられた宿場の酒屋、庄屋、茶屋と卯建のある家を現代風にアレンジた休憩所がある。 中に入れないようなので、ザッと見て次に進む。 ガイドブックに書いてある「桂小五郎・隠家跡」を探して路地に入る。少し迷ったが、狭い路地の奥に説明板を 見つけ、建屋をパチリ。今まで桂小五郎が中津川に来ていたのは全く知らなかった。ここで長州藩は従来の公武合体から尊王攘夷へ 踏み切る「中津川会議」が行われたそうだ。新しい史実を知ることが出来た。 「中山道」を歩くと知らなかった史実に出会い驚く。芭蕉や皇女和宮は何度も出てくるが、桂小五郎や西行法師や隠れキリシタン等々、 面白い。
「大井宿〜中津川宿B」の「紀行スライドショー」 中津川駅に通じる広い道路に出た。「中津川宿」はまだ先まであるが、今日は「落合宿」まで行くのは諦めて、駅に向かう。 駅の観光案内所で、「木曽路」の地図と次以降のルート検討に役立てるためバスの時刻表をもらう。(14:00)
前回と同じ様に金山で乗換え、前回開拓した居酒屋で時間調整の乾杯をし、ゆっくりと眠りながら、大垣・米原で乗換えて きれいな夕日を眺めて、19時過ぎ高槻に到着する。 今日の歩行歩数は26000歩と少なかったが、春の陽射しと満開の桜を堪能した一日だった。 「美濃路」を踏破出来なかったが、残りはあと一つ「落合宿」だけになり、次は「木曽路」に入ることになる。 「美濃路」の後半は今までで最高の街道だった。史跡も多く、自然も豊かで充実した紀行だった。季節も最高で、満開の桜、新緑、 峠道、地道と満足出来る歩行だった。 今日の「上宿一里塚」に植わっている満開の桜はこの季節だけの貴重な光景で、大満足だった。 次は夏の「青春18きっぷ」を使って、「中津川宿」から「落合宿」まで行き、「美濃路」を踏破して「木曽路」に進みたい。 追記:このHPを作成中に、新型(豚)インフルエンザの国内感染が広がり、神戸・大阪を中心に130名以上になった。早い終息を願いたい。 また、民主党の代表が小沢氏から鳩山氏に代わり、数か月後に迫った衆議院選挙の動向が楽しみになった。 (工事中)
|