○ 「中山道No10」見聞録(中津川宿〜野尻宿)・(距離 32.0km/ 230.7km/ 303.3km)
10−1.(45)中津川宿〜(44)落合宿・(3.9km) 2009.07.24 9:30〜10:50 曇り
春のうちに「美濃路」を終えようと考えていたが、「中津川宿」までしか行けなかった。 夏の「青春18きっぷ」が発売され、 具体的な計画を検討する。中津川からはJRを離れて山間部に向い、「美濃路」最後の「落合宿」を通り、「木曽路」に入り「馬篭宿」 「妻籠宿」を経由して、JR南木曽駅の「三留野(みどの)宿」まで行かねばならない。 小生の脚力からすれば、ぎりぎり行けるかも知れないが、多少厳しいので、「妻籠宿」で泊まる方向で検討する。 日程が決まり、宿泊の予約をするが、「妻籠宿」中心部の民宿は全て満員で断られる。夏休みになったのでと思っていたが、当日 「妻籠宿」のお祭りがあり、観光客と親戚等の宿泊で満室だと。やっと「妻籠宿」の東のはずれにある民宿が予約出来、一安心。 前日の天気予報では小雨模様で雨の「木曽路」紀行になると覚悟していた。
夏の夜明けは早く、薄明るくなり、散歩姿の方とも出会う。 高槻駅には「18キッパー」の姿も見られ、京都で乗り換え、米原まではぐっすりと眠る。途中、目覚めると稲が大きくなり、緑の絨毯が 広がっている。春は麦畑だったのに。 米原乗換も問題なく、車窓から、雲がたなびく伊吹山を間近に見ることが出来る。このまま晴れていれば良いと願いながら、再び ぐっすりと眠り、名古屋の手前で目覚める。 3分間しか接続時間がないので、中央本線・中津川行快速に飛び乗る。
今まで通った「美濃路」を車窓から眺めながら、中津川駅に近付くと川の中では鮎釣りをしている。夏の風物詩だ。 9時21分に中津川駅に到着する。約4時間30分の乗車時間だ。 駅の立食いソバ屋で、たまごソバを注文する。関西と違った真黒な 出汁に、関東圏に来たことを認識する。 学生時代、初めて信州へスキーに行った時、駅ソバを食べ、この真っ黒な出汁を見て驚いた。カルチャーショックだったことを思い出す。関西と関東の 味覚の違いを初めて知った瞬間だった。 腹ごしらえが出来、「中津川宿」の後半部分に進む。駅前広場には「木曽五木」が植えられている。この材木が木曽地方の繁栄の 源だったのだ。「木曽五木」とは檜(ヒノキ)・翌檜(アスナロ)・高野槙・ネズコ・サワラを云うらしい。高野槙以外は全て檜科だと。 前回、中津川駅に向かった交差点の道標に従って、左折し「中山道」を東に進む。
なかなか立派な高札場で、「中津川宿」の発展度合いが分かる気がする。 急な坂を上り、道路を歩道橋で渡る。歩道橋の上からは、今通って来た「中津川宿」の「中山道」が真っ直ぐな道として望まれる。
今日初めての「馬頭観音」だが、今回はどれだけ出会うか、楽しみだ。 旭丘公園の横を通って、平坦になった道を進む。曇り空だが、薄日が射し、蒸し暑さが増して、早くも汗が滲んで来る。 「尾州藩白木改番所跡」の 碑が立っている。今まで、何度も見た碑だが、いよいよ本場の「木曽五木」の管理が厳しかったのだろう。 「常夜灯」が立ち、可愛い「男女道祖神」が祀られている。この光景は「中山道」そのものだと。しばらく進むと国道19号線と 地下道でくぐる。その地下道の壁面には、地元の子供達が描いた壁画(?)が飾られている。「中山道」を保存しようとする 心意気が感じられる嬉しい道だ。
平坦な道を進むと「常夜灯」があり、上の丘に「子野地蔵堂」が建ち、横には「子野石仏群」が祀られている。丘の上に上り、 頭を垂れる。所々に「石仏群」が見られるが、意味があるのだろう。当時はここに大きな枝垂れ桜が植えられ、旅人の憩いの場に なっていたと。 少し進んだ所には「南無阿弥陀仏」と刻まれた大きな碑が立ち、「神明神社」「覚明神社」を過ぎると、今回初めての一里塚である 「子野一里塚跡」の碑が寂しく立っている。やはり、塚に木が植わっていないと。
この辺りの旧街道は、アスファルトの中に白と黄色の石が混ぜられていて、分かり易くなっている。
地図の高低差でも表れている様に、途中で一息入れなければ進めないきつい坂道だ。 道の横に流れる用水路に山から注ぎ込む水を見つけて、タオルを濡らし鉢巻にし、もう1本は首に掛けるいつものスタイルにする。 ここが「与坂」と呼ばれる坂道だと。道脇には、まだ紫陽花が咲き乱れ、この辺りの気温が低いことが分かる。歩き出してから まだ1時間も経っていないのに、この厳しさは何だろうと先の行程を危惧する。 「弘法大師36番札所」のい祠が祀られ、その先に「与坂立場跡」の碑が立っている。ここで一息入れ、凍らして来たお茶を飲む。 (10:20)
三五沢の宿場境から、急坂を登ると与坂に至る。与坂には立場茶屋「越前屋」があり、名物三文餅を売っていた。 また与坂徳利も有名であった。 この与坂には、木曽谷の桧などの停止木や留木の通過に目を光らせた白木改番所があった。ここに番所が設けられたのは 延享2年(1745)であり、その後番所は中津川宿上金に移された。(中津川市観光協会HPより) 街道からは緑の田圃が広がり、遠くの山が望まれる。しかし、暑い。 下り坂を進むと再び国道19号線にの車の音が聞こえ、その下を くぐって進むと「落合五郎屋形跡(おがらん様)」の鳥居が立ち、社が祀られている神社と出会う。落合五郎は木曽義仲の武将として 活躍したそうで、里人から「おがらん様」と慕われたそうだ。木曽義仲の名前が出て来たのは初めてだが、ここは木曽の真っ只中 なので、当然だろうと、今後が楽しみだ。 今度はR19の上に架かる高架橋を渡り、やっと「美濃路」最後の「落合宿」に到達する。
いよいよ「美濃路」の最終行程に到達した。 昨年(2008年)6月に、「近江の国」(滋賀県)から「寝物語の里」の小さな溝を越えて「美濃の国」(岐阜県)に入り、「美濃16宿」と 云われる15の宿場を踏破して、最後の「落合宿」に到達したのだ。 緩やかな白・黄色の石が混じった舗装道路を進むと道角に「善昌寺」が建ち、横には立派な松が堂々とそびえている。
落合宿は東から横町・上町・中町・下町と続き、町の長さは約390m、家数75軒、人口370人。旅籠屋14軒の小さい宿場であった。 宿内の中央には用水が流れ、町の中程に本陣・脇本陣が向かい合っていた。 本陣は井口家で千村方、脇本陣は塚田家で山村方 の庄屋をし、なお問屋も兼ねていた。落合宿は文化元年と12年の2度にわたる大火に見舞われ、宿駅の経営は困難をきわめた。 (中津川市観光協会HPより) 古い石の「道標」がある角を曲がるといよいよ「落合宿」に入るが、古い建屋は見られない。 何度かの火災で焼失したのは残念だが、宿場町の雰囲気が残っている。 道脇の広場に小屋があり、その中に大きな釜が置かれている。「落合宿・助け合い大釜」と名付けられ、寒天の原料を煮詰める ための釜で、現在では茸汁を作ったりと近隣や旅人に振る舞うと云う、落合の人々の優しさを継続していると。 立派な門が建つ「落合宿・本陣」が構えている。他の史跡がない中での本陣跡が存在しているのは嬉しい。 現在の建物は、文化年間落合宿の大火により類焼し、その後建築されたもので、門は加賀藩の前田侯により火事見舞いとして 贈られたものと伝えられている。内部は善昌寺への抜け穴等があり、様々な工夫がされている。 (中津川市観光協会HPより) 本陣の向かいには「落合宿・脇本陣跡」の石碑が立っている。
宿場の道を進むと左側に大きく曲がっている。「上の枡形」と呼ばれ、その角には「上町の常夜灯」や「井戸」が建っている。 火災の原因になったとも書かれており、その横には防火用の井戸が設けられているのは昔の人の知恵なのだろう。 枡形を抜けて視界が広がる。向こうに中央自動車道の赤い長い橋(落合川橋)が山と山の間を結んでいる。宿場の外れには「高札場跡」の 碑が立ち、「落合宿」を抜ける。
これで「美濃路16宿」の紀行を終えた。 「寝物語の里」で「美濃の国」に入り、「今須・関ヶ原・垂井・赤坂・美江寺・河渡・加納・鵜沼・太田・伏見・御嵩・ 細久手・大湫・大井・中津川・落合」の各宿場を巡った。 各市町村によって、「中山道」への熱さが違うのは面白いが、残念な面もある。通して歩いているとそれらの優劣が 良く分かる。 「美濃路」は自然も豊かで、旧街道の雰囲気も多く残していた。いよいよ「木曽路」へ突入する。楽しみが一杯だ。 「中津川宿〜落合宿」の「紀行スライドショー」
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