[西条〜中野東][中野東〜広島・土橋]


○ 「山陽道No13」見聞録(西条〜広島・土橋)・(距離 35.7km(今回)/ 417.9km(累計))

  2.中野東〜広島・土橋・(16.0km) 2012.12.10. 11:40〜16:55 曇り時々晴れ


西国・山陽道全行程.Map

「中野東〜広島・土橋、行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

ぐっすり眠り、5時半頃から朝風呂に行く。O君、N君も来て、ゆっくりと入り、今日の計画を話す。O君が広島市電の中で、被爆電車が 1日1〜2便走るので、交通局に問い合わせてくれていた。その電車に乗ろうと。

ホテル・ドーミイン

旧日本銀行広島支店

6時30分から朝食を食べ、7時過ぎに平和大通りに面したホテル・ドーミインをチェックアウトする。
平和大通りの角には「白神社」が鎮座する。今日の 行程の安全を願い、参拝した後、袋町駅に向かう。駅は昨夜「ひろしま夜神楽」を観劇した旧日本銀行広島支店の前で、改めて石造りの 建物を確認する。よく原爆被害から免れたものだと。
停留所で、原爆投下時に走っていた電車で、現存する651号or652号電車を待つ。
広島市電は廃止になった全国各都市の市電を購入して走っている。昔、通学でも使っていた大阪市電の懐かしい車体も時々走っているのは 嬉しい。
やがて、652号車が来たので乗車するが、ラッシュで満員だ。内部は木製で、当時の面影を残している。運転手の後ろには、被爆電車の説明が 掲示されているが、人影で確認出来ない。 満員の乗客はこの電車が、被爆電車だと知っているのだろうかと思いながら、鷹野橋駅まで乗り、被爆電車から降りる。O君の提案が なければ、乗ることのできない電車だった。
大阪市電が走って来たので、記念に撮影する。高校時代はこの市電で通学したのだと話しながら、大阪市電のプレートもパチリと。

被爆電車652号車

被爆電車の内部

大阪市電 プレート


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

市電で元の方向に戻り、本通駅で降りて、地下鉄になっているアストラムラインに乗換えて、郊外の「不動院」に向かう。
雪のために少し遅れたが、モノレールの列車で地上に出ると雪景色が眩しい。
「不動院」には安国寺恵瓊や福島正則の墓があるとのことで、訪れることになり、不動院前で下車して、残雪が残る参道を進むと 立派な「楼門」が建っている。

不動院・楼門

現在の不動院の地に、最初に寺院が建てられた時期は明らかではありませんが、金堂内に安置されている薬師如来坐像などから、 平安時代の終わり頃には、すでに寺が存在していたと考えられています。
その後南北朝時代には、足利氏が全国に置いた安国寺の ひとつとされ、守護武田氏の保護のもとで栄えましたが、武田氏の滅亡とともに衰えます。
これを再興したのが恵瓊であり、 毛利氏の使僧として活躍し、豊臣秀吉からも厚い信任を得ていた彼は、その力を背景に安国寺の建て直しを行い、中央の大社寺にも ひけをとらない大寺としました。
恵瓊亡きあとの安国寺には、福島正則の祈祷師であった宥珍が入り、この時に寺の名を不動院としたと 伝えられています。
不動院には、国宝である金堂など数多くの文化財が所在しています。(ひろしまナビゲーターHPより)

国宝の「金堂」は改修中で、覆われて見えなかったが、「不動堂」「鐘楼」を見学し、裏山にある墓地に向かう。 墓地の片隅に「豊臣秀吉公遺髪の墓」「中興開山恵瓊の墓」「「広島城主・福島正則公の墓」が祀られている。毛利氏の使僧として有名な 恵瓊の話や、福島正則が何故広島に墓があるのか・・・等々歴史について話し合う。
墓地からは雪景色の不動院の全景が望まれ、滑るのに注意しながら楼門に戻る。

不動堂 鐘楼

恵瓊の墓 豊臣秀吉遺髪

福島正則公の墓


再び、モノレールに乗り、県庁前駅まで戻り、徒歩で「原爆ドーム」に向かう。学生時代に訪れて以来、50年近く振りの訪問だが、昨日の袋小学校の 見学で、気分は重く、少し憂鬱だ。目の前に「原爆ドーム」が現れる。

原爆ドーム

原爆ドームは、大正4年(1915年)に建てられ、広島県美術展覧会も催されていました。設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏で、構造は一部鉄骨 を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。
全体は3階建で、正面中央部分に5階建の階段室、その上に銅板の楕円形ドームが載せられていました。この大胆なヨーロッパ風の建物は 川面に映えるモダンな美しさは広島名所の一つに数えられていました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは、広島県産業奨励館から南東約160m、高度約 600mの ところです。
爆風の圧力は1平方mあたり35ton、風速は440mという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、 天井から火を吹いて全焼。爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死 しています。
平成7年(1995年)6月に国の史跡に指定され、平成8年(1996年)12月、世界文化遺産へ登録されました。
現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーマア・ヒロシマの象徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴える シンボルになっています。(ひろしまナビゲーターHPより)

青空の下、「原爆ドーム」が建っている。昔、見たよりも崩落の程度が大きくなっているようだ。静かに眺め、心の中で手を合わせる。 近くのベンチで、一息入れながら感傷に耽る。
元安川と本川が分かれる所に相生橋が架かってる。原爆はこの橋を狙ったそうだが、離れた所に落ちたのだと。相生橋を渡って 「平和記念公園」に向かう途中に、昔の相生橋跡の碑が立っている。
「平和記念公園」に進むと観光客が多く、ガイドの説明を熱心に聞いている。昔の建物のレリーフが立ち、川向こうに「原爆ドーム」が 見えるポイントで、説明が続いている。レリーフの立派な洋館が廃墟となったことが良く分かる。ひどいものだ。 横には「平和の鐘」が建ち、代わる代わる鐘を突いている。観光客がいなくなった後に、静かに鐘を突く。心に沁み渡る音色だ。
公園を進み、「原爆死没者慰霊碑」で慰霊碑の中から「原爆ドーム」を望みながら、手を合わせる。何時もテレビで見る式典の場所だと 思いながら、「広島平和記念資料館」の見学に向かう。中に入ると重苦しい雰囲気に包まれ、とても記述する気分になれない。ただ、 外国人の見学者も多く、熱心に英語の説明を読んでいるのは救いだった。(10:30)

相生橋跡

原爆ドーム 平和の鐘

原爆死没者慰霊碑



「広島見学」の「紀行スライドショー」

暗い気持ちで「広島平和記念資料館」を出て、市電で広島駅に向かう。さあ、気持ちを切り替えて、「山陽道」紀行に戻ろうと。広島駅で 列車の時間待ちの間に、立ち食い蕎麦を食べ、11時17分発の列車で、中野東に向かう。
11時40分、中野東駅から本日の「山陽道」紀行をスタートする。
静かな街並みを歩き始めると先程までの感傷的な気持ちも吹っ切れ、何時ものように旧街道筋を楽しみながら歩む。少し先に「愛宕神社」の 鳥居が立ち、旧街道だと認識する。JR沿いの道を進むと右の民家の塀の脇に「鳥上の一里塚跡」の碑が立っている。

静かな街並み

愛宕神社

鳥上の一里塚跡


その先、右の高台に矢口神社があるがパスして進むと右に立派な「専念寺」が建っている。道なりに進むと左にJR安芸中野駅を見て進む。 旧街道は山陽本線の京田第三踏切を渡り、瀬野川に沿って西に進む。
瀬野川沿いの堤の道には「出迎えの松」と呼ばれる松並木が続いている。「旧山陽道中野砂走り出迎えの松」碑と 「中野砂走の出迎えの松」の案内板が立ち、河原は広くて散策している人もいる。 「出迎えの松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を、家来や村の有志たちがこの松の辺りまで出迎えたことに由来すると。

専念寺

中野砂走の出迎えの松 説明

中野砂走り出迎えの松の碑


きれいな遊歩道と分かれて堤を下って進む。少し進んだ畑賀川に架かる砂走橋を渡る時、「旧山陽道蓮華寺登口跡」の碑を見つけ 道なりに進むと山陽新幹線の高架に至り、高架下をくぐる。直ぐ先の山陽本線の踏切を渡って進む。
線路沿いに進むと左に立派な「常夜燈」が立ち、右に「春日神社」の参道が続く。参拝はパスして、道なりに進むと右の丘の上に 「海田町ふるさと館」が建っている。見学しようと向かうが、月曜日は休館日のようで、閉まっている。会館の裏には「古墳公園」が あるが、ここもパスして前に進む。

蓮華寺登口跡の碑

春日神社の参道 常夜燈

海田町ふるさと館 古墳公園


海田市に近付き、立派な街並みが続く。適当に蛇行していて、旧街道の雰囲気を感じながら進むと家の建て方がジグザグになっている。 斜めの土地割りで、荷車が付け易くなっているとか、商家が多いので、大名行列が通った後、身を隠して商売がし易いようにとかの理由が あると。
この辺りは「海田市宿」で、古い家が立ち並んでいるのを見ると家の間に「うだつ」のような仕切りがある。防火意識が強いのだろう。 少し先の左に海田町役場が建ち「旧山陽道(西国街道)」の案内板が立っている。「中世以前の山陽道は北側甲越えを府中に抜ける 道筋で、海岸沿いに海田市を経由する道路はまだ十分整備されていなかった。その後江戸時代に入り、宿駅としての海田市の発展が 始まったと。

立派な街並み

斜めの土地割り

家の間の仕切り


「海田市宿」を進むと左の民家の横に「御茶屋跡(本陣)」の案内板が立っている。その面影はないが、町の規模からして、立派なもの だっだろうと想像する。
右に「恵比須神社」が鎮座し、前に「海田恵比寿神社由来記」の詳しい案内板が立っている。要約すると海田は、古くから交通の要衝で、 市が開かれ海田市と呼ばれ発展し、市と海に面していることから恵比寿信仰が生じてきた。参勤交代制の確立の時に 海田市は西条四日市と広島城下を結ぶ宿駅人馬継立所となったと。
左の海田公民館の敷地に「脇本陣跡」の案内板が立っているが、何も残っていない。少し進んだ左に立派な「千葉家住宅」が建つ。 千葉家は、幕府の公用文書や荷物を継送する天下送り役を務めていた地元の有力者だそうで、立派なお屋敷だ。

御茶屋跡(本陣)

恵比須神社 説明

千葉家住宅


少し進んだ右に「明顕寺」が建っている。境内に幕末に長州遠征で亡くなった「越後高田藩士34名の墓」が祀られているとのことで、 境内に入るが墓地が分からで、尋ねると住職が出て来られ、案内していただく。

明顕寺

「山陽道」を歩いていると話すと、前の道は近代の山陽道で、その昔は、直ぐ前まで海で、古代の山陽道は寺の山側に通っていたと。 原爆投下の時は、寺の屋根の瓦の半分は焼け落ち、前の道には被爆し、逃げて来た人が溢れ、寺の本堂が、救護施設になったそうだ。 朝、「広島平和記念資料館」で生々しい事実を見ていたので、お話を聞き、この地まで影響が出ていたのに驚いた。
住職の案内で墓地に向かい「越後高田藩士34名の墓」の説明を聞く。第二次長州征伐(1866年)は広島県と山口県の県境の小瀬川の戦いで、 越後・高田藩は長州軍に敗れ、討ち死にし、宿泊していた明顕寺に祀られたそうだ。このような歴史があったことは知らなかった。
境内の隅には立派な梵鐘がある。この銅製梵鐘は、享保年間(1716-1735)に地元の鋳物師が寄贈したもので、戦時中の金属供出にも文化的 価値が高いとして免れた鐘楼だと。
住職に丁寧に説明していただき、海田の立地、歴史、原爆の状況等、理解出来、お礼を云って退出する。門前は日溜まりになっていたので、 石段に腰を降ろして一息入れる。(13:15-13:20)

明顕寺の屋根

越後高田藩士34名の墓

梵鐘 説明



「山陽道・中野東〜広島・土橋A」の「紀行スライドショー」

「明顕寺」の前に立派な旧家が建つ。連子格子に虫籠窓の情緒ある旧家で、「海田市宿」の繁栄ぶりが分かる。
街並みの中に、先程見た以上にはっきりジグザクになった家並みを発見する。本当にジグザグだ。変わった街並みを楽しみながら進むと 十字路の右角に「旧山陽道海田市の一里塚跡」碑が立っている。

情緒ある旧家

ジグザクになった家並み

旧山陽道海田市の一里塚跡


神社が多いようだが、パスして道なりに進むと二股に当たり、右に向かう。緩やかな坂道を進むと右に立派な「常夜燈」が立っている。 右から来る細い道が「古代山陽道」だろう。先程「明顕寺」の住職が話していた、山側の道がここで合流したのだろうと話す。
この道の交通量は半端ではない。狭い道を上り・下りの車が交差し、歩き難いこと甚だしい。これが「船越峠」なのだと思いながら 緩やかな狭い上り道を上り切ると広い道に当たる。
広い幹線道路を下り、府中永田バス停の手前を左に入って行くと左に「船越地蔵」が祀られている。道なりに進むと再び幹線道路に合流し、 新幹線の高架下を進むと永田交叉点に当たり、横切って左斜めの道を進むと川の手前に「恵比須神社」が鎮座する。境内には、朝の雪の 塊が残っている。

常夜燈

船越峠 船越地蔵

恵比須神社


「恵比須神社」の所から左の道に入って行く。広島市の中心部に進んで行くので、段々と人家が多くなり、人の流れも多くなって来る。 道なりに進み、府中大橋を渡り、左の廣隆寺を見て、広い道を進むとJR芸備線の高架下をくぐる。 少し先の信号を右に入って行き、突き当たりを左に行く。右に行くと才蔵寺があるようだ。
密集した街並みの中を進むと左に「三本松」が植わっている。街道に植えられた松の名残で、豊臣秀吉が名護屋からの帰りに広島に 立ち寄り並木松を植えさせたと。街中に松が残っているのは、地元の熱意だろう。
少し進むと右に「我羅我羅橋」と書かれた案内板が立っている。古川に架けられた橋で、がら竹を束にして作った竹橋だったそうで、 橋を渡るときガラガラと音がしたためだと。
広い道に当たり、横断して延長線上の細い道に入ると「愛宕神社」が鎮座する。

三本松 JR芸備線の高架

我羅我羅橋

愛宕神社


真っ直ぐの道を進むとJR山陽本線・芸備線の踏切に至り、広島駅を右に見て、市内の真ん中に入って行く。 直ぐに猿猴川にあたり、近くのベンチで、一息入れる。(15:50-16:00)
O君が広島赴任時代の友人に、広島焼きの美味しい店を教えてもらうべく、電話で問い合わせてくれる。友人も彼が広島に居ることに 驚いているようで、懐かしげに話している。有名な店を教わったようだ。
「猿猴橋」を渡って賑やかな街中に進む。駅前通りを横切り、斜め向かいに続く道を進み、京橋川に架かる京橋を渡る。少し先を左に 曲がると、夜の繁華街の様子になり、ネオンが点き始めている。旧街道沿いにネオン街が連なっているのだ。
仏壇通りを右折するのだが、少し行き過ぎ、戻って仏壇通りを進む。中央通りを渡り、パルコの所を左折し、右折すると本通りだ。昨夜、 歩いた所だが、賑やかな商店街をキョロキョロしながら進む。人通りも多く、賑やかなのには驚く。

猿猴橋

繁華街

本通り


本通り商店街の西端から、今朝、見落とした原爆の爆心地である島医院に向かうと、修学旅行と思われる学生がたくさん見学に来ている。 横にはパネルの写真があり、当時の悲惨さを表している。
旧街道に戻り、広島平和公園に向かう元安橋の手前右の茂みの陰に「広島市道路元標」を見つけ、記念公園に入ると夕日に「原爆ドーム」 が輝いている。昨日からこの悲惨な史実を何度見て来たかと思いながら、広島平和公園を抜ける。
少し薄暗くなった「本川橋」を渡り、市街地を進むと市電の土橋駅に当たる。O君が調べてくれた銭湯・土橋湯が近くにあるので、本日の 紀行はここで終了することにする。今日の歩行歩数は34700歩だった。(16:55)

原爆の爆心地 パネル

広島市道路元標

原爆ドーム 本川橋


そんなに汗はかいていないが、冷たい中での歩行で、体は冷たくなっているので、銭湯で温まり、今日の疲れを癒す。気持ち良い。
O君が友人に教えてもらった広島焼きの店に市電に乗り、泊まっていたホテルの近くまで行き、歩いて探す。地蔵通りの「貴家」が分かり、 行列が出来ていないのは有難く、入店すると3席だけ空いていた。

貴家 広島焼き

イルミネーション

牡蠣の鉄板焼きを頼み、ビールで乾杯する。
午前中の広島観光、午後の「山陽道」紀行と盛り沢山の企画だった。案内してくれたO君に感謝し、目の前で焼いてくれる広島焼きを 食べる。美味しい。芋焼酎も頼み、楽しく懇談する。その中に、お客が増え、行列が出来ているようだ。
O君の友人から電話があり、昔の居酒屋はなくなったが、新しく懇意にしている店にいるとのことで、我々も同行する。平和大通りを 戻るとイルミネーションが美しい。2日間、平和大通りのイルミネーションを観賞出来、広島の地理も大分分かった。

「山陽道・中野東〜広島・土橋A」の「紀行スライドショー」

O君が広島に単身赴任していた時、会社外の人との交流が多かったことは聞いていたが、予告なしの訪問に、待っていてくれる友人に 彼の単身赴任生活が充実したものだったことが分かる。教えられた居酒屋に行くと、友人のSさんが待っていて下さり、挨拶した後、 乾杯する。
しばらくするとSさん婦人も来られ、家族ぐるみで付き合いのあったことに驚き、広島名物料理を楽しむ。Sさんご夫妻は楽しい方で、 当時の話、「山陽道」の話、広島の見所等々、楽しい時間を過ごす。帰りのバスの時間が来たので、お別れするが、少しの会費だけで、 ご馳走になった。素敵な店で、美味しい料理を食べ、楽しい時間を過ごせたことに感謝・感謝だ。
見送りを受け、タクシーで広島駅に行き、23時15分発の夜行バスで乗車する。2階建てバスで1階は女性専用のようで、我々は2階に乗車し、 直ぐに眠ってしまう。
12/11、6時05分に大阪駅に到着し、次回の紀行は、別途検討することにし、解散する。
往復夜行バスで少しくたびれたが、「山陽道」紀行、広島見物と充実した2日間だった。


[西条〜中野東][中野東〜広島・土橋]







    
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