○「山陽道No15」見聞録(広島・土橋〜玖波)・(距離 31.2km/ 449.1km) 2.廿日市〜玖波・(18.3km) 2013.11.14. 8:40〜16:10 晴れ時々曇り
久し振りの紀行による心地よい疲れに加え、神楽鑑賞・乾杯・入浴により、ぐっすりと眠り、5時過ぎに目覚めた。少し風邪気味なので、 朝風呂は止めることにし、ベツトの中で、今日の行程を確認する。
外は冷たく、風が強いが、天気予報では、寒いのは早朝だけで、晴天になる のは嬉しい。 Sさんが「原爆ドーム」を 知らないので、平和公園の中を通って、「原爆ドーム」に向かう。前回、訪れた場所だが、早朝の雰囲気は凛としたものを感じる。早朝から、 修学旅行生や外人観光客も訪れている。 8時40分、広電に乗り、昨日の最終地点・廿日市まで向かう。車内には、修学旅行の大阪の小学生団体が乗っており、楽しく話しながら進む。 (敬老精神に富んだ子供たちに席を譲ってもらう) 8時40分、廿日市駅に着き、本日の紀行をスタートする。 歴史に造詣の深いN君の提案で、、旧街道に戻らず、厳島の合戦で毛利元就に攻められて自刃した陶晴賢の墓がある「洞雲寺」に向かう ことにする。
1487年、当時桜尾城主で厳島神社の神主でもあった藤原氏の菩提寺として創建されました。 尼子氏と大内氏の勢力争いにより藤原氏最後の代の興藤が滅び、この地は大内氏のものとなりましたが、その大内氏から重臣であった陶氏に 移り、さらに厳島合戦で陶氏に勝利した毛利氏側へと変化しました。 厳島合戦に敗れた陶氏は桜尾城で首実検のうえ、この寺に埋葬されています。また、毛利元就の重臣桂元澄夫妻、元就の4男毛利元清の 宝篋印塔もこの寺にあります。(ひろしま観光ナビHPより) 広い境内の本堂左の墓地に、桜尾城で大内氏に攻められて自刃した藤原興藤と厳島の合戦で毛利元就に 攻められて自刃した陶晴賢の墓が祀られている。当時の激戦と歴史を思い起こしながら手を合わせる。 本堂の右にある山の上に、毛利元就の四男・元清の墓と桂太郎の先祖で毛利元就の重臣桂元澄夫妻の墓が祀られている。当時の歴史が凝縮した 墓地なのだと思いながら、山の上から立派な本堂の屋根を眺める。
9時25分、「洞雲寺」から前回の終了地点まで戻り、本日の「山陽道」紀行をスタートする。 旧街道には「廿日市宿」を表すような枡形があり、昔の宿場の趣が残るが、建屋は新しいものばかりだ。枡形を右に曲がり、県道との交叉点右 には、「廿日市町屋浪漫」の看板がある店屋が連なっている。道なりに進むと右に「常念寺」が建ち、緩やかな左折し右折する枡形になって て、電柱の陰に昔のポンプが残っているのを発見し、当時の水汲みの様子を話し合う。
静かな旧街道には、「うだつ」のある立派な家もあり、当時の繁栄ぶりを残しているようだ。道なりに進むと右に「福佐売神社」が鎮座し、 その先の可愛川に当たり、少し下った所に架かる橋渡り、元の位置まで戻る。 左に曲がりながら、広電の踏切を渡り、線路沿いに進むと左に広電の平良駅があり、そのまま直進する。少し先の二股を右の細い坂道を上って 行く。見晴らしが良くなった道はJR山陽本線の高架橋に続き、高架橋で渡った後、線路沿いに進むと県道の高架道の下を抜ける。県道の 高架土手に小さな「地蔵尊」が祀られ、左に曲がって行くと、県道沿いにコンビニがあるのを発見し、昼食用のおにぎりを買い求める。(10:00)
昼食を調達し、のど飴も買って、咽喉の痛みに備える。道なりに進むと左にJR宮内串戸駅を確認し、直進すると広い道に突き当たり、左に 流れる御手洗川があり、川沿いの交通量の多い道を進む。
その前に、立派な瓦屋根の「専念寺」が建ち、境内には旅人の休憩所となるお茶屋があったそうだ。屋根の瓦の彫刻も見事なものだ。 少しくたびれたので、「専念寺」の前の道端で、コンロでお湯を沸かして、コーヒーブレイクとする。 N君が得意のハーモニカ演奏をしてくれ、しばし安らぐ。 信号で停まった車の方が、思いもかけないハーモニカ演奏に拍手をいただき、楽しく過ごす。(10:35-10:55) 一息入れた後、気分新たに、県道30号線を横切り、御手洗川沿いに上って行く。砂原大橋を渡り、道なりに進むと先程の県道に当たる。 旧街道は、この県道を縫うように左右に渡りながら進むことになる。良くあるパターンで要領が分かると、旧街道の分岐点が分かり、入って行くと 県道に戻る繰り返しを4回行う。 最後に県道から入った旧街道の右には「佐原田権現社」の格調のある社が鎮座する。さすが、旧街道だと思いながら県道に向かう。県道の 緩やかな坂を上って行くと左に野村病院があり、少し上って行くと、畑口橋交叉点に至る。 ここが「津和野岐れ」と云われ、右に曲がって 行くのが「津和野街道」だと。「山陽道」は、左折するして進むが、その右角に「南無阿弥陀仏」と書かれた「夜泣き石」と呼ばれる 石塔が立っている。
県道から離れ「四郎峠」に向かって上って行く。
歩道のない道を前から来る車に、注意を促すためタオルを振りながら、上って行く。 高速道路の高架下は、真っ暗で対向車に気付いてもらえるよう、タオルを必死で降りながらの歩行だ。 やがて、「四郎峠」にさしかかると右に小さな「宮内・大野 村境」の碑が立っている。 「四郎峠」の名前は、大野村に「大野五郎の伝説」があり、推古天皇から太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人兄弟が勅を受け、五組に 別れて田畑を開き、農業を営んだと。 この五人の兄弟を「大野五郎」と呼び、兄弟それぞれが開墾したり住んだ場所の地名が残っている。 「四郎峠」の名は、中山に住んだ四郎に由来していると。(大野町誌コピー抜粋) 「四郎峠」は下り坂となり、下って行くと、変則四叉路の角に「疣(いぼ)観音堂」が祀られ、横には、「今川貞世歌碑」が立っている。 今川貞世(了俊)が足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がる時の歌だと。 「四郎峠」のアップダウンで疲れたので一息入れる。昼食の時間だが、もう少し先で食べることにする(12:00)
「山陽道・廿日市〜玖波@」の「紀行スライドショー」 変則四叉路の左の道を直進すると、静かな舗装された田舎道が続く。やっと、旧街道の趣が感じなられる道を、暖かい陽を浴びながら 進むと左の茂みに隠れるように「史跡一里塚跡」の碑が立ち、「塚の松跡」と記された案内板が立っている。「中山一里塚跡」で 一里塚の松も植えられていたようだ。 穏やかな旧街道を淡々と進むと「十郎原農園」の案内板が立ち、その先右には「十郎原」の案内板が立っている。前述した 「大野五郎の伝説」の五兄弟のうち末弟・十郎が開墾した所だと。大野五兄弟は広範囲な場所を開墾していたのだと改めて認識する。
小さな川があり、緑色の橋を渡って進むと右に「稲荷神社」が鎮座し、右に山、左に民家の細い地道を気持ち良く歩む。 やはり、地道は気持ち良い。うねうねと曲がりくねった細道には、所々に「歴史の散歩道」の矢印が表示されている。 江戸時代に戻ったような細い山沿いの地道を 楽しみながら進むと右上に「三槍(みやり)社」が鎮座する。社に上る坂にある家には、水車を設置した庭園が設けられている。優雅な 気持ちで、「三槍社」に参拝する。
気持ちの良い「歴史の散歩道」を景観を楽しみながら快調に歩む。
少し先、右に草原の広場があり、「大野次郎宅跡」と記された案内板が立っている。「大野五郎伝説」の長兄・次郎宅があった場所なのだ。 細い道を進むと右の石段の上に「新宮神社」が鎮座する。案内板によると大野次郎を祀った神社で、地元の人は「新宮さん」と云って 親しんでいると。 山沿いの旧街道からの展望も楽しい。目の前の山々は宮島で、間に海が横たわるのは見えないが、美しい。 更に進んで行くと古代山陽道の「高庭駅家(うまや)跡・濃唹(のう)駅家跡」の碑が立っている。案内板によると、駅家とは、古代官道を 公用で通行する人が馬を乗り継ぐ場所。古代山陽道は、都と筑紫の大宰府とを結ぶ大路だったので、20匹の駅馬(はゆま)が用意されて いたと。碑の後にはお堂が祀られている。
視界の開けた道から林間の地道になり、より気分良く進むと「高畑東貝塚跡」「高畑貝塚跡」の案内板が立ち、この辺りまで、海があったのだと 想いながら進む。 更に進むと右に「高畑ため池」が迎えてくれる。林の中で、はっきりと見えないが、案内板によると大野では最も古い灌漑用ため池だと。 静かな旧街道の右に「陣場」の案内板が立つ。慶応二年(1866)長州征伐のとき幕府軍が検問所を設けていた所で、 前方の平地は古代は海の入江だったと。 新幹線と広島岩国道路の間を進む。新幹線の高架下を抜けると大野ICに通じる広い道に当たり、その角に「名勝・妹背(いもせ)の滝」の道標が立ち、 旧街道から離れて右の「大頭(おおがしら)神社」に向かう。
新幹線と高速道路の高架下を抜け、「大頭神社」の参道を進む。
同神社は、国常立尊、 大山祇尊、厳島神社の最初の神職佐伯鞍職の三神を合祀し、平清盛が安芸の守であった時代から毛利家・福島家・浅野家の時代まで 、社領米を与えられていた名社である。 かつては、「烏食祭」「四烏の別れ」などという由緒ある神事も伝承されていたほど。 大頭神社から続く遊歩道は、妹背の滝、さらには経小屋山へと続いており、 木々に囲まれ、境内の中心を毛保川が流れる趣があり風情漂う景観は心を落ち着かせてくれる。(はつかいち体験観光なびHPより) 鳥居をくぐり、参道を進むとせせらぎの音が聞こえ、静かな境内に入る。趣のある朱色の橋を渡ると荘厳な本殿が鎮座し、ここまで来たことに 感謝を込めて参拝する。 本殿の右に流れるせせらぎ(毛保川)に沿って上って行くと「妹背(いもせ)の滝」の「雌滝(めんだき)」が高い崖の上から流れ落ちている。 水量は多くないが、落差50mの細長い繊細な滝だ。 更に、毛保川を上って行くと大きな滝の音が聞こえ、滝幅も広い落差30mの「雄滝(おんだき)」が見えてくる。水量も豊かで、滝壺の近くは 砂地の広場となり、マイナスイオンが溢れている感じだ。 勇壮な滝を見ながら、遅くなった昼食とする。ここまで、我慢して歩いたのは良かったと。(13:20-13:40)
「山陽道・廿日市〜玖波A」の「紀行スライドショー」 遅くなった昼食を食べ、元気を取り戻して、旧街道に戻る。 大野IC入口の少し先にある店の横の細い道を入って行くと小川に当たり、川沿いに大野中学校を右に見ながら進む。広い道に当たり、右折すると 大野西小学校の校舎沿いに進むことになる。 小学校の端の交叉点の右角に「右宮島廣島道・左宮内 妹背瀧道」と記された古い道標が立っている。 道なりに進むと左にJR大野浦駅が見え、駅前の広場に「史跡一里塚」の碑と「今川貞世歌碑」が立っている。今川貞世は「四郎峠」を越えた 所にも歌碑が立っていた方だ。(14:10) 駅前の道を直進し、細て道を道なりに進む。やがて、広い道に突き当たる左角に「本覚院」が建っているのを確認し、広い道を緩やかに 上って行く。少し先に左に入る細い道に入り、高台から下を望むと宮島と瀬戸内海が見え、景観を楽しむ。 「向原の石畳の案内板」が立ち、平成3年に旧西国街道の石畳発掘調査をしたあと、保存のため仮舗装してあるのだと。仮舗装の道を、宮島を 望みながら進む。
再び、広い道に当たり、横切った所に「古代山陽道の史跡」の案内板が立っている。広い道から下へ続く細い坂道を下り、左に向かうと 「古代山陽道」地道が続き、その先に石畳の細い道が短い距離だが、残っているのが分かる。 石畳が終わり、地道を右に進むと貯水槽があり、先程の「今川貞世の歌碑」が立っている。今川貞世はこの辺りで、たくさんの歌を詠み、 地元の方に親しまれていたのだろうかと思う次第だ。 細くなった地道を気持ち良く進むと広島岩国道路に当たり、道沿いの道を進む。 高架の壁に「残念社(西国街道)」の案内版が立っているので、その案内板に従って進むこととなる。
高速沿いに進み、高架下を抜けようとすると、トランペットの音色が聞こえる。高架下で男性が稽古をしておられるのだ。声をかけて、「残念さんへ」の 案内板を目印に、細い山道をくねくねと上って行く。所々、紅葉もあり、雑木林の風情を楽しみながら進む。気持ち良い地道だ。
しかし、道標がなければ、 とても踏み入れることが出来ない山道が「西国街道」なのには驚くが、こんな旧街道は嬉しい。 残念社(残念さん)は経小屋山の麓広島県廿日市市八坂地区にあり昔の西国海道(旧山陽道)上に位置します。 1866(慶応2)年、長州戦争の時、四十八坂一帯は東西の攻防の決戦場となっていた。 その頃、和睦に走っていた幕府軍使者、丹後宮津藩士依田伴蔵を長州軍が戦闘員と見誤って狙撃してしまった、軍使は「残念」と叫んで 倒れた。 長州軍は遺憾の意を表し、その死を悼み祠を建て奉ったのが名前の由来といわれている。 (広島県観光協会HP他より) この坂道を「四十八坂」と呼ばれていたそうで、頂上はまだかと、うねうねと曲がる坂道を上って行く。 大きな治水ダムがあり、さらに進むと右に「残念社」が鎮座する。山の中の神社にしては立派なものだ。説明板を読み、この「西国街道」が 幕末の長州戦争の戦場だっことを認識する。 山道に疲れたので、ここで一息入れる。(15:00-15:05)
更に坂道を上ると道の真ん中に大きな石があり、横に「吉田松蔭腰掛けの石」の案内板が立っている。吉田松陰が江戸に護送された時に 通ったと。この辺りは幕末の頃、重要な街道だったのだと改めて認識する。知らないことが多い「四十八坂」だ。 そのすぐ先に「依田神社」の赤い鳥居が立っている。先程「残念社」の残念さん=依田伴蔵の非業の死を悼み地元の有志が神社を建立し たものだ。近くに「三県一望の地」の案内板が立っているが、山口・島根・愛媛が見られるとは思えない山の中だ。近くに「従是大岩見透線境界」と 刻まれた道標が立っている。意味は分からないが、見晴らしの良い場所が、境界線になっていたのだろう。 ここからは下り坂となり、広くなった地道を軽快に下って行く。気持ちの良い「四十八坂」を堪能した。
下り坂を道なりに快調に下ると八坂墓苑の広いスペースに出て、広島岩国道路の山側を道路に沿って進む。少し先に「西国街道(歴史の散歩道)」 の大きな案内板が立ち、それに従って、そのまま西に向かう。 眼下には、広島岩国道路を通して、瀬戸内海の島々が望まれ、気持ちが良い。所々に「西国街道」の道標が立ち、誘導してくれる。やがて、 行き止まりになり、高速道路の高架下を左折して抜ける。 急坂の真下に瀬戸内海が開け、大竹・岩国の工業地帯の煙突が望める。 下って行くと左の鳴川保育園の横にも「西国街道(歴史の散歩道)」の案内板が立っている。
旧街道は、瀬戸内海を見下ろしながら、道なりに右に向かう。そのまま、西に直進していくと、民家が建ち、道がなくなるように見えるが、 民家の横の細い道を抜ける。細い道は左の丘に向かって上って行き、「鳴川の石畳」が現れる。 石畳の途中、左に「史跡西国街道跡」の案内板が立っている。案内板には、街道がが画期的に整備されたのは、寛永年間(1633-1635)の 勤交代制度の確立が契機だと。また、この坂を登った「鉾ノ峠」には一里塚があり、「唐船浜」「馬ためし峠」を越えて「玖波宿」に入ると 示されている。「馬ためし峠」の名前は初めて聞くが、多分、険しくて馬も難儀した峠だったのだろう。 ここからの「鉾ノ峠」は雑木林の中をかき分けて進む趣深い地道だ。細い道は、奥の方に続いているが、途中から道がなくなり、分からなく なった。方々探すが、分からず、道なき道を下に向かて藪こきをして降りると畑あり、作業をしておられた方に、国道2号線に出る道を尋ねると このまま下れば良いとのことで、踏切のない山陽本線の線路を越えて国道に出る。 道に迷ったが、雑木林の中の気持ち良い地道を楽しめたのは、何よりだった。
少しの間、瀬戸内海を左に国道を進み、国道から離れて右斜めの道に入る。道に迷った旧街道はこの辺りに降りて来るのかと探索するが、 それらしき道は見つからない。前には「玖波隧道」が現れ、それを抜けて行く。昔は、この上が「馬ためし峠」だったのかと思いながら ここを越えて行ったのであろうと。
大竹市の東部に位置する玖波地区は、山陽道の安芸国西端の宿場町であった。 国道がこの地区の旧街道を踏襲せず、一本山側に残されたために、玖波の町並は現在でも宿場時代の趣を留める結果となっている。 当宿には本陣も存在したが、牛馬、駕籠などの手配その他一切の駅務は近隣の村の人が請負っていた。これを助郷制と呼んでこの近辺 では盛んであった。 今の玖波の家並は、慶応2年(1866)の長州の役の折、本陣をはじめほとんどが焼き払われ、それ以後に復興されたものである。 従って江戸期のものはほとんど存在しないためもあり、家々は比較的2階の立上がりが高く、虫籠窓も見られない。しかし袖壁は多く残り、 造り酒屋、材木商の佇まいはなかなか風格を感じさせる。 また、辻には高札場の跡が残り、そこには当時の宿場の貴重な飲料水であった井戸「角屋釣井」がある。町並の中で訪問客に対して 設置されたものはここに立てられた宿場の説明板だけであった。(郷愁小道HPより) 「角屋釣井」が当時のまま残っているのを確認し、「玖波宿」を進むが、「本陣跡」は分からなかった。旧街道は右折して山側に進むが、 今回の紀行は、ここまでとして、JR玖波駅に向かう。
「山陽道・廿日市〜玖波B」の「紀行スライドショー」 JR玖波駅に向かう途中の酒屋で、缶ビールを買い、玖波駅に到着し、本日の紀行を終える。今日の歩行歩数は37300歩だった。(16:10)
宮島口から観光客が多く乗り、満員状態になる中、広島に到着し、Sさんが広島焼きを食べたことがないとのことで、O君の案内で、 「お好み焼き村」に向かい、5階建てのお好み焼き屋で、広島焼きわ味わう。 「さくら」に乗るN君、Sさんとはここで別れ、「こだま」組のO君と銭湯を探しながら、繁華街を歩き、見つけた銭湯で汗を流し、身体を マッサージし、癒す。本来予定した「こだま」が満席とのことで、1台後の列車に乗車するため、二人の共通の地名である「とくあん」と云う おでん屋に行き、一杯飲んで、広島駅に。 20時57分発の「こだま」に乗り、ぐっすりと眠り、23時19分に新大阪に到着し、O君と別れて日付変更線過ぎに帰宅する。 約1年振りの「山陽道」紀行を無事終えることが出来た。この一年、色々なことがあったが、この日を迎えることが出来、嬉しい 限りだ。 「山陽道」も広島を過ぎると、旧街道も多く残っており、特に今日は、峠越えの地道も多く、古人の気持ちを味わうことが出来、 大満足な紀行だった。年内は無理だが、来年も継続して、下関まで到達したいものだ。 (工事中)
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