○ 「薩摩街道No1」見聞録(下関〜直方)・(距離 51.3km/ 51.3km) 2.「長崎街道」小倉〜直方・(27.0km) 2013.01.30 7:30〜17:00 曇り時々晴れ
昨夜は早く眠ったので、4時過ぎに目覚める。九州の夜明けは遅いので、ウトウトしながら6時前には起き出し、今日の行程のチェックをする。 6時30分から朝食なので、少し前にパソコンで地図の再チェック。 朝食は和洋選択が出来、品数も満足できるものだ。身支度を整え、7時前にチェックアウトだが、手続きはなし。コスト低減の努力が分かる。 小倉駅に向かい、バスで昨日の終了地点・清水町まで行く。 7時30分、本日の紀行をスタートする。国道3号線を少し進んだ真鶴2丁目の信号を左折し、旧街道に入る。 「法輪寺」の山門を確認し、道なりに進むと左に「水かけ地蔵尊」が祀られている。ここは昔から長崎街道を歩く人たちの憩いの場所と なっていたそうだ。この清水は神功皇后の伝説によって皇后水と呼ばれ、聖武天皇の守護仏を安置したことにより観音霊水と呼ばれ、 更には弘法大師の巡国の際、改めて旅人の憩いの水と されたことから弘法の水とも云われたと。この地は今でも清水(きよみず)と呼ばれているのだ。 「水かけ地蔵」に水をかけて、今日の行程の無事を願い、その横に立つ「旧長崎街道跡」の大きな石碑に、「長崎街道」を 歩き始めたと改めて感じる。 静かな旧街道の左に「大満寺」の中国風の山門を眺めて進む。
左には丘が広がり、緩やかな坂道のアップダウンを楽しみながら進む。泉谷小学校の子供達と挨拶を交わしながら、道なりに進むとレンガ造りの 「九州鉄道茶屋町橋梁」が建っている。昔の鉄道の廃線跡だそうだが、見事なアーチだ。良く残っているものだと思いながら、少し道を 間違えながら進む。
高見中央公園があり、シニアの方がゲートボールを楽しんでいるのを見ながら、公園の周りを廻るように進むが、間違いで、真っ直ぐに 進むべきだったのだ。 間違って公園を左に見て、高級住宅地を進むと「高見神社」にぶつかり、おかしいと気付き、散歩をしている夫人に「国境石」が この辺りにないかと尋ねると次の道の奥にあると。公園の手前を真っ直ぐ進み、一筋右の道を進めは良かったのだ。 教えられた道を戻ると高級住宅街の一角が広場となり、「従是西筑前国」の大きな「国境石」の碑が立っている。立派な碑だ。案内板によると 古くは東西に筑前国と豊前国に別れ、江戸時代には福岡藩と小倉藩により数多くの境界石が建てられていて、13基が残っている。 この三条の国境石は天保5年(1834年)に建て替えられたこの境界石は福岡藩最大のものだと。 ロスタイムが多く、少し疲れたので、ここで一息入れる。(8:50-9:00)
ここで大きなミスを犯す。「国境石」の先に「荒生田一里塚碑」があるのを見落としてしまったのだ。後で気付くがパスしてしまう。 元の「高見神社」の横まで戻り、旧街道を進む。 住宅街の石垣の前に「長崎街道」と記された道標が立っている。今回の紀行で、初めて見る道標だ。 坂道を下って行くと再び国道296号線に合流し、広い国道歩きとなる。しばらく進み、国道3号線に合流すると高速道路の高架下に 象の絵も描かれた「長崎街道」の表示があり、案内板も立っている。高速道路下が旧街道と見立てているのだろう。右横にはスペースワールドの 施設も見られ、八幡駅に近付いていることが分かる。 国道3号線に合流し、西本町1丁目の交叉点を左折して進むとその角にレンガ造りの「旧百三十銀行八幡支店」が建っている。
拡幅された旧街道を進むと八幡図書館に至る。その中庭に「国境石」が二基保存されている。
豊前国の碑は以前は先程の「国境石」のあった三条にあったとされているが、筑前国の碑はどこにあったか明確ではないと。 この辺りの国境がどの様になっていたのか分からないが、13もの「国境石」が存在しているのだから、複雑なものだったのだろうと 想像する。
病院の横を通り、広い道を横切って進み「前田の一里塚跡」を探すが、分からず徘徊する。尋ねるにも人が誰もいず、進んでいると 公園があり、その隅に「前田の一里塚跡碑」が立っている。 説明板によると「長崎街道」の一里塚は門司大里を起点として赤坂・長浜、金田・原町・荒生田を経てこの前田の一里塚に至ると云う。 先程の「荒生田一里塚跡」は見落としたが、その他もチェック出来ていない。一里塚跡を確認するのは難しいのだと再認識する。 公園を少し進むと国道3号線に再び合流して、国道歩きが始まる。 紅梅1丁目の交叉点を右折して、JR鹿児島本線の踏切を渡ると「長崎街道」初めての「黒崎宿」が迎えてくれる。 「長崎街道(小倉・清水町〜黒崎宿)」の「紀行スライドショー」 「黒崎宿」は小さな広場の木製の常夜燈と案内板で迎えてくれる。
福岡藩では唯一、上方への渡海船(乗合貨客船)が発着する港を持つ宿場町で、対馬と五島を除く九州西半の大名や多くの旅人が この宿場を利用しました。 江戸時代後半には、東構口から西構口までの約900mの町筋には、これら諸藩の御用達や定宿、藩主の別館としての御茶屋(本陣)や町茶屋 (脇本陣)が設けられていました。また、人馬継所、関番所、郡家、代官所などが完備され、一般の旅籠屋や商店も軒を並べていました。 (北九州市観光協会HPより) 広場には石の「常夜燈」も立ち、横の旧街道は整備され「黒崎宿」の趣きを残している。旧街道の石畳には「長崎街道」と刻印された 標識が埋まっており、少し進んだ左に「黒崎宿東構口址」の石碑が建っている。案内板によれば、構口とは番所のことで、天和元年 (1615年)黒崎城を廃し城の南側にあった堀を埋めて構口を開き、番所を設けたのが始まりで黒崎の宿場を通過するには必ず東と西にある 講口で検査を受けた。東の構口田町には4人、西の構口熊手3人の役人がつめていたそうだ。
真っ直ぐな黒崎宿の旧街道を進み、直角に左折し、JRの踏切を渡り、国道3号線を越え、1つ目の筋を右折する角に「黒崎宿人馬継所址の碑」が 立っている。ここからは黒崎商店街となるが、シャッターで閉じられた店が多く、寂しい旧街道だ。 商店街を進むと立派な「正覚寺」が建ち、所々に「長崎街道・筑前六宿開通400年」の幟がが立っている。筑前六宿とは、黒埼・木屋瀬 ・飯塚・内野・山家・原田宿で、開通をそれぞれの宿場で祝ったのであろう。 また、商店の壁一面に「黒崎宿の絵図」が描かれ、宿場をPRしている努力も見られ、その先の交叉点の広場では案内板やモニュメントが飾られ、 宿場を盛り上げているが、少し寂しい雰囲気だ。
広い道を渡り、アーケードのある商店街に向かう。アーケード入口にも「長崎街道」を通った偉人の絵が描かれ、宿場だったことを示しているが、 商店街は人通りも少なくさびしい限りだ。 商店街の真ん中辺りに、道路の守り神や商売の神様と云われる「興玉神」が祀られ、年配のご婦人が手を合わせていた。また、 石畳の道標が、絵図に変わり、「長崎街道」の珍しい光景を表している。 商店街を抜けた広い道脇に「黒崎宿西構口址」の石碑と案内板が立っている。東構口からここまでが、「黒崎宿」だったのだろう。 広い道を渡り、進むと小さな川があり「乱橋」が架かり、「筑前六宿」の石碑が立っている。
「乱橋」から左に曲がり、石畳の道を進むと広い道に当たり、その向こうに「曲里(まがり)の松並木」が広がる。
江戸後期の狂歌師大田南畝(蜀山人)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りて、又坂を下りゆけば、 左に黒崎の内海見ゆ。」とその紀行文(小春紀行)にこの松並木あたりの描写をしています。 江戸時代末期のこの付近の往還図には、松の並木が100本以上も描かれています。また、昭和20年頃までは長崎街道には 多くの松が残っていましたが、今はわずかにこのあたりが昔日の長崎街道の面影をとどめています。 (マツ再生プロジェクトHPより) 入口には大きな「曲里の松並木」の石碑が立ち、階段の上には注連縄も飾られていて、ずっと見事な松並木が続いているようだ。 朝からの舗装道路歩きで、疲れたのでここで一息入れる。(11:00-11:10) 少しの休息で疲れも癒えたので、九州に入って初めての地道を歩く。松葉が落ちていて気持ち良い。やはり、舗装道路の歩行に比べ、 足腰には優しい。途中に説明板があり、松林の規模は、幅20-30m、長さ310mだと。 気持ち良く松林を楽しみながら進んでいると松の幹にムシロを被せる作業をしている方と出会い話す。害虫が冬の間にムシロの間に来るのは 聞いていたので、確認する。かみきり虫の幼虫が集まるが、松喰い虫は殺虫剤で防ぐしかないとのことで、幹に穴を開けて薬剤を注入して おられた。この数の松を結えるのは大変な作業だと。
松林を抜けると右に「幸神(さいのかみ)」が鎮座する。「幸神」は村境に建てられ、村に侵入する悪霊や病の進入を防ぐとのことだ。 この旧街道は舗装だが歩道部分はレンガ色のカラー歩道で、所々に「長崎街道」のマークが埋められている。優しい思いやりだ。 少し進んだ左の石垣の横に「幸神一里塚」が立っている。「前田の一里塚」から4km歩いたのだと認識する。 旧街道を進んでいると、前から同好の方と思われる男性があるいて来られた。挨拶をして、何処から来られたのかと聞くと長崎から 歩いていて、今日は直方から門司まで行くとのことだ。健脚ですねと話し、頑張りましょうと分かれる。初めて街道歩きの方と遭遇で 嬉しくなる。 国道211号線と合流して、再び国道歩きとなる。左に大きな池を見ながら進むと高速道路の高架が見え、その手前にラーメン屋があるので、 他に食事処がなさそうなので少し早いが昼食とする。(11:40-12:10)
腹ごしらえも整い、後半戦をスタートする。高速道路の高架下を抜けると左に入るカラー舗装された旧街道が始まる。この辺りは「長崎街道」 保存の気風が高いようで、カラー舗装や道標の埋め込みがあるのは嬉しい。
また、言い伝えとして、 江戸時代、長崎の熊部新冶郎という人が所用で京都に向かうときここで休息し、松の枝にお金の入った荷物を掛けたことを忘れて立ち 去ってしまった。翌年新冶郎が帰郷の時再び立ち寄ってみると荷物はそのまま残っていた。新冶郎は神のお陰と感謝し石鳥居を寄進した ことからこの松の木を「金懸けの松」と呼ばれるようになったと。 直ぐに国道と合流し、少し先に新しい鳥居が建つ。「源平史跡・やから様」と云われる祠が祀られている。 壇ノ浦で破れた平氏一門の乳飲み子をかかえた女御と乳母の3人がここまで逃げのびてきた。これを追ってきた源氏の侍数人が付近を 探し始めた。女達は竹やぶに息を殺して隠れていたが乳飲み子が泣き出してしまい追っ手に見つかったので、 もはやこれまでと自害してしまった。この土地の人々がこのことを悲しんでここに祠を建てたと。 「やから」という言葉はこの地方で夜泣きやむずかることをいうそうだ。源平の史跡は方々に残っているようだ。 少し先に、藤の棚に覆われた「地蔵菩薩」の祠が祀られている。国道歩きから、右の旧街道に入り、再び国道に戻り進み、高速道路の下を 抜ける単調な歩行が続く。 その先右に、街道から背を向けた案内板が立っているのを見つけ、廻り込んでチェックすると「小嶺一里塚跡」の碑だ。先程の「幸神一里塚」 からもう4kmも歩いたのだ。
国道歩きが続く。旧街道と行き来しながらの舗装道路の歩行は、徐々に疲労感が強まる。 しばらく進んだ小嶺台2丁目の信号に案内板が立ち、右側のカラー舗装の旧街道に入る。緩やかな坂道を上って行くと「立場茶屋銀杏屋」が 建っている。
有名な庭の銀杏の木からの命名で、大名たちの「御小休所」でした。 宿泊はできませんでした が、伊能忠敬らもここで昼食を取った記録が残されています。 座敷は、「書院造」となっていて、他の部屋より三寸ほど高く造られています。 この天井は110cmほどの中二階の造りになっていて、座敷の天井裏は「土」で塗り固められていて、もしもの事を想定して 造られたものと推定されます。 現在あるものは、文化2年(1805)に建築されたもので、一般の農家でありながら書院造にされた「上段の間」が母屋と一緒に 一棟で建てられている極めて珍しいものです。 (北九州市観光協会HPより) 当時の趣きを残す立派な建物が残っているのに驚き、記帳をして中に入る。 奥の座敷で、老女主人と女性が一生懸命大きな雛人形を作っておられる。立ち雛と座り雛ともに、人の大きさ以上だ。小生に気付き、 早速お茶を出していただき、雛祭り用に造っているのだと。毎年、盛大な雛祭りをされているようだ。 室内と大きな銀杏が植わっている庭を見学する。当時の道具・生活ぶりが分かるのは嬉しい。 お茶をいただき、ゆっくりと見学させてもらい、お土産として自家製の梅干しを買って退出する。(14:10-14:30)
現在は石の階段になっているが、急な下り階段で、反対に上りだと大変だと思った。峠ではないが、「長崎街道」初めての難所を下り切ると 坂の下に「興玉神」と記された石碑が祀られている。しかし、これが難所なら、「長崎街道」は厳しくないなぁと思いながら次に向かう。 旧街道は田園地帯に入り、気持ち良い道を進むと再び池田小学校入口交叉点で国道211号線に合流しする。国道を右に進むと向い側に 「香徳寺」が建っているのを確認し、少し進んだ馬場山の信号から右の道に入って行く。 右に「大日堂」の社が祀られ、舗装道路の県道を進む。高速道路の高架下を抜けて、しばらく進むと「茶屋の原の一里塚跡」で、この辺りは 一里塚の保存がしっかりとなされている。
周囲に畑が広がる開放的な旧街道を進む。単調な歩行を続けると筑豊電鉄の踏切を渡り、高速道路の高架下の公園のベンチで一息入れる。 (14:40-14:50) 「長崎街道(黒崎宿〜小屋瀬宿)」の「紀行スライドショー」 静かな街並みを楽しみながら「小屋瀬宿」に入って行く。
宿場は東構口から西構口まで約1.1kmの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に 建てられていました。これは、「矢止め」と呼ばれ、敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために 配慮されたものと言われています。 宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所などの施設と共に14,5軒の旅籠がありました。 木屋瀬宿には、シーボルトやケッペル、測量学者の伊能忠敬だけでなく、白象が泊まったという記録もあります。古い町並みは、今も江戸時代の 風情を漂わせています。(北九州市観光協会HPより) 静かな街並みを進むと「東構口跡」の木碑や案内道標が立ち、宿場の中に進む。 少し先の小道を右に入ると突き当たりに「永源寺」の山門が建ち、横を曲がった所に「小屋瀬宿・本陣門」が移設されている。趣きのある 立派な門の堤防寄りには「大銀杏」が茂っている。黄葉の時だと見事だろうと思いながら、元の通りに戻る。
宿場の街並みは落ち着いた雰囲気で、うだつもあり、繁栄していたことが良く分かる。「く」字型に枡型になった道の左角には 「問屋場跡(野口家)」が建っている。
その向かいには「御茶屋跡」「町茶屋跡」が「みちの郷土資料館」として、新しく保存されている。中に入り、当時の宿場の様子や 歴史等々を見学する。団体も見学しておられ、映画も一緒に観賞する。 宿場を伝える施設として、立派なもので「小屋瀬宿」の良き時代を残しているのは素晴らしい。 枡型の角には「町茶屋跡」が「長崎街道小屋瀬宿記念館」として建ち、その門前には木製の「里程標」が立っている。追分の宿として 各地への距離を示しているのであろう。 枡型を曲がって進む街道にも立派な家が立ち並ぶ。年貢米の管理を行っていた「船庄屋跡(梅本家)」やNHKラジオドラマ『向う三軒両隣り』等の 人気ドラマを生んだ放送作家、伊馬春部の生家でもある「旧高崎家住宅」、村全体を統括していた「村庄屋跡(松尾家)」と続いている。 その間には「護国院」が鎮座し、宿場全体を守っているような雰囲気だ。
少し進むと「西構口」の石垣が残っている。構口は各宿場で見て来たが、石垣が残っているのは珍しい。その横には「追分道標」が 立っている。本物は先程見学した「みちの郷土資料館」に保存されているのだが、確認したが写真を撮り忘れてしまった。 「従是右赤間道左飯塚道」と記され、「長崎街道」と「赤間道」の追分を示している。 「長崎街道」は直進し、遠賀川の堤防に進むのだが、「赤間道」の方向に向かい、「興玉神社」の横を通って、遠賀川の堤防に出る。 視界が開け、遠賀川の広い河川敷と川を眺め、堤を下り、渡し場跡を探すが分からず、諦める。
遠賀川の堤防を進み「長崎街道」に合流するが、堤防の道は交通量が激しいので、河原を歩くことにする。 草原の道は気持ち良く、暖かい陽射しを浴びながら遠賀川の河川敷を快調に進む。堤防の上は渋滞が続いている位の混雑で、避けて良かったと 思いながら、菜の花橋の下を抜け、少し進んだ所から堤防に上がり、直ぐ反対側の旧街道に下る。 突き当たりを右に曲がって進むと「旧長崎街道感田村」と記された小さな小屋があり、「祝長崎街道開通400年」の垂れ幕が張ってある。 旧街道だと安心して進むと筑豊鉄道感田駅の踏切を渡り、「阿高神社」の下に甕に書いた道標が「内野宿」まで29kmと示している。 再び遠賀川の堤防を歩き、日の出橋を渡って直方市に入る。夕日が傾き始めたので、次の宿場までは無理と考え、本日は直方駅までとし、 お店の人に銭湯がないかと尋ねるが、直方には無いと。 直方駅に到着して、本日の紀行を終える。迷った距離を除き、歩行は27km、歩数は46400歩だった。(17:00)
「長崎街道(小屋瀬宿〜直方駅)」の「紀行スライドショー」 暖かかったので、汗をかいた。事前に直方の銭湯を調べたが無く、尋ねたがダメだった。黒崎駅近くにあると調べていた銭湯に電話するが、 只今使われていませんと。廃業したのだろうか。止むを得ず、トイレで体を拭き、下着を替える。 JRに乗り、折尾駅で乗換え小倉に行き、案内所で銭湯の場所を尋ねると、駅近辺にはなく、モノレールに乗って行けばあると。早速、モノレール片野駅 すぐの「華の湯」を行き、ゆっくりと汗を流し、足腰をマッサージする。やはり、風呂に入るのが歩行後の醍醐味だ。
ビールで、初めての「長崎街道」紀行の祝杯をあげ、美味しい寿司をいただく。親父さんと話しながらゆっくりとした時間を過ごしたいが、 外には行列が出来、持ち帰り寿司の注文も多い。良い店を見つけたと礼を云って駅に向かう。 小倉駅で適当に時間を潰し、23時15分発の深夜バスに乗って、ぐっすりと眠って帰阪する。帰りもほぼ満席で、7時過ぎに大阪に到着し、 8時前に帰宅する。 往復4列の深夜バスで少し疲れたが、下関で「山陽道」の最終地点を確認し、次は友人達と訪れることを願い、関門海峡のトンネルを抜け、 九州の地に到達した。「門司往還」「長崎街道」は舗装道路・国道歩きの連続で疲れたが後半は史跡も多く、「長崎街道」に期待を 持たせてくれた。次からも期待したいものだ。
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