[直方〜天道][天道〜松崎]


○ 「薩摩街道No2」見聞録(直方〜松崎)・(距離 57.2km(今回)/ 108.5km(累計))

  2.「長崎街道」(天道〜松崎・32.9km) 2013.02.21. 7:45〜17:50 晴れ時々曇り


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「天道〜松崎・行程MAP」

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5時前に目覚めた。一昨夜の夜行バスの睡眠不足や昨日の歩行の疲れで、ぐっすりと眠れた。

センチュリーホテル

立ち上がっても足腰の痛みはなく、昨日の入浴・シップの効果が出たようで一安心だ。今日の行程を検討する。昨日の中にJR上穂波駅まで進む予定が、 2駅手前で終えてしまったので、「薩摩街道」まで進めるか否かは歩きながら考えようと。
朝食は7時からなので、その前に近くのコンビニに昼食用のおにぎりを買いに行く。先達の話では、食堂もなく弁当が必要だとのことで、買っておいた 次第だ。7時から和定食の食事を食べ、センチュリーホテルを後にし、JR新飯塚駅から昨日の終了駅である天道駅に向かう。
7時45分、JR天道駅をスタートする。昨日の旧街道は直ぐに県道と合流し、車の往来の少ない道を進むと右に「天道宮」の鳥居が立ち、由緒を読むと 天慶4年(941)藤原純友の乱のとき、源満仲が勅命を受けて戦いこれを撃破したがそのときこの神社がすでに存在していたと。1000年以上前から この地区は開けていたのだ。
県道沿いには、白壁・うだつのある醤油屋さんの風情のある建物も残っている。その先には「恵比寿神社」が鎮座し、天道の集落の古さを 感じる。県道は川に当たり、その角に「一里塚と瀬戸の渡し」の標識が立っている。説明によると、この辺りに「長崎街道」と「秋月街道」の 追分や一里塚があるらしい。

天道宮の鳥居

白壁・うだつの醤油屋 恵比寿神社

一里塚と瀬戸の渡しの標識


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

標識の所から県道を左に入り、JRの踏切を渡り、川沿いに静かな道を進むと「瀬戸の渡し」の矢印が立っているので、河原に降りると 「瀬戸の渡し」の碑が立っている。当時は徒歩で渡ったそうだが、対岸に渡れないので、迂回して進まざるを得ない。 山間の道から視界が開け、畑の中を通り、右側に曲がって国道200号線の寿命交叉点まで戻る。先程の「瀬戸の渡し」まで戻らねばならないので、 JRの高架橋を越え、右に行くのだが、時間短縮で、「瀬戸の渡し」の対岸は省略して、左へ歩を進める。
細い旧街道は気持ち良く、少し先の「天開稲荷大明神」の赤い鳥居が立ち、暑くなって来たのでシャッを脱ぎ、一息入れる。(8:25-8:30)
旧街道沿いには茅葺きの家屋が建ち、「長崎街道」の雰囲気を満喫する。道なりに進むと再びJRの線路と出会い、そこには「長崎街道」の説明板が 立っている。

瀬戸の渡し

茅葺きの家屋 天開稲荷大明神

長崎街道の説明板


踏切を渡り、直ぐ右の旧街道を進む。一筋向こうには国道が通っているが、旧街道が残っているのは嬉しい。

豆田天満宮

旧街道の街並み

少し進むと「豆田天満宮」が鎮座し、 静かな旧街道の街並みを楽しみながら進む。方々に、紅梅・白梅が咲き誇り、春爛漫の感じだ。
道なりに進むと出雲交叉点で、国道200号線と合流し、しばらくは国道歩きとなるが、歩道があるので安心だ。
少し進んだ長尾交叉点から右折して 進むのだが、何かの先入観で左の坂道に曲がってしまい、おかしいと坂の上で思案する。車が来たので、尋ねると飯塚市の職員の方で、反対方向に 来ていることを指摘され、礼を云って交叉点に戻る。何故、左に曲がったのだろう?10分余りロスしてしまう。
長尾交叉点を右折して畑の中の道を進み、突き当たりを左に曲がると「長尾老松神社」が鎮座し、静かな街並みを進むと立派な飯塚市役所筑穂支所の 庁舎を見て進む。四つ角に「阿恵老松神社」が鎮座し、本殿に参拝する。境内には「猿田彦の碑」等、分からない碑が祀られている。この辺りは 「老松神社」が多いのだと。
「阿恵老松神社」の前を曲がるとJR上穂波駅で、昨日ここまで来ようと思っていた所だ。スタートから約2時間かかっているので、昨日は順調だったら 歩けた距離だと思いながら、神社の前の石段で一息入れる。(9:30-9:40)
歩き始めると白壁・うだつのある阿恵の街並みが迎えてくれる。

長尾老松神社

阿恵老松神社 猿田彦の碑

阿恵の街並み


道なりに進むと田舎道の正面にこれから向かう「冷水峠」の山並みが望まれ、JR踏切を渡った所に「愛宕之池水神」の祠が祀られ、旅人の喉を 潤していたのだろうと思い、横の「愛宕神社」の鳥居を確認して進む。
山側の藪の中に「猿田彦大神の道標」が立っている。旧街道の史跡が点在しているのだ。緩やかな坂道になり、上り切った所に「横山峠」の標識が 立っている。とても峠とは云えない勾配だが、昔はそれなりに厳しかったのだろうと。「横山峠」を越えて「内野宿」に入って行く。

冷水峠の山並み

愛宕之池水神 猿田彦大神の道標

横山峠



「長崎街道(天道〜内野宿)」の「紀行スライドショー」


細い山沿いの道を進む。左下には国道が走っているが、旧街道は穏やかに「内野宿」に続いている。
「内野最後の街道松」の標識が立っているが、今は松林はなく、旧街道を進むと「内野宿案内板」が立ち、絵図で宿場の様子をガイドしてくれる。 観光客に優しい宿場だと思いながら、「東構口」から「内野宿」に入る。

内野宿・本陣跡 説明

長崎街道・筑前六宿の一つ内野宿は、その建設について福岡藩記録に「慶長十七年(1612)毛利但馬被命内野被建」とある。 毛利但馬は日本一の槍を飲みとった黒田武士で有名な母里但馬で黒田藩の命で代官として内野宿建設にあたった。但馬が大隈城主となった後、 内野太郎左衛門がその任にあたった。
内野宿は江戸時代そのままに道が残り僅かに宿場の面影をとどめている。
西構口(山家宿側)から東構口(飯塚宿側)まで約600mあり、そのほぼ中央で逆T字に本陣(御茶屋)へ道は向かっている。本陣の脇を通って道は 太宰府へと続いていた。飯塚宿へ三里七丁、山家宿へ二里二十丁。山家宿との間に難所中の難所「冷水峠」がある。大名の参勤交代、 オランダ商館長、長崎奉行、幕府高官等の往来など交通煩雑で宿場として非常に栄えていた。シーボルト、ケンベルの江戸参府記や伊能忠敬、吉田松陰等の 日記にその記録が残っている。福岡藩歴代の藩主は度々内野宿を本拠にして狩りをしていたという。
内野宿については百数十戸が消失するという大火が何度となくあり、古い資料がほとんど残っていない。 (内野宿HPより)

静かな宿場町を進むと大火で焼けたと云われているが、所々に旧家が残っている。「麹屋」の白壁の建屋を眺め、「人馬継所跡(角屋)」の標識を 確認し、本陣への曲がり角に到達する。 角には「えびす様」のにこやかな像が祀られ、ほのぼのとした気分になる。

東構口

麹屋 人馬継所跡(角屋)

えびす様 本陣への曲がり角


「内野宿・本陣」に向かう。JRの踏切を渡り、落ち着いた街並みを楽しみながら、緩やかな坂道を上ると畑の広場の中に「本陣(御茶屋)跡」の案内板が 迎えてくれる。何も残っていないが、広い敷地で当時の姿を思い起こす。
左下の畑の中に立派な「大いちょう」の姿が見える。今は枝だけの殺風景な銀杏だが、樹齢400年、幹廻り7.6m、高さ34.1mの見事なもので、秋の 雄姿の写真は黄色く輝いている。
「大いちょう」に向かって、畦道を進むと「大いちょう」の下には「小路の薬師堂(福部神社)」「猿田彦太神の石碑」が祀られ、静かな雰囲気だ。 ここで、「内野宿」の空気を味わいながら一息入れる。(10:40-10:50)

本陣への街並み

大いちょう

猿田彦太神の石碑 薬師堂


「えびす様」の角まで戻り、旧街道を進む。直ぐ左に旅籠跡を改装した「内野宿展示館」が建ち、地元の方が忙しく動いている。「雛祭り」の準備をしているそうだが、 内部を見学する。雛祭りの準備で混乱しているので、大阪から歩いていると話し、退出する。
隣には地主で質屋だった「小倉屋」の立派な建屋を見て、その向かいの脇本陣だった「長崎屋」を訪ねるとここも雛祭りの準備で忙しい。管理人の 方が親切に説明していただき、「冷水峠」に向かう「長崎街道」のより古い旧街道を見付けたと地図を持ってきていただき、説明してもらう。 その道を進むことを約束して、お礼を云って退出する。素敵な旧家が残り、宿場を愛する人達との出会いだった。(10:50-11:00)

内野宿展示館

小倉屋

長崎屋


宿場の街並みを味わいながら進むと、左に酒屋だった「伊藤家」の落ち着いた建屋を過ぎると「西構口」の標識が立ち、「内野宿」を出る。 なかなか趣きがあり、旧家も残る宿場だったと満足して進む。
直ぐ右に「老松神社」が鎮座し、西の守り神となっているようだ。その先、国道と合流する手前に「内野関屋・大門跡」の標識がたち、宿場の 出口を示している。
本来の旧街道は、ここから右の細い道を進み「冷水峠」に向かうが、先程教えてもらった新しく発見した道を進むことにする。

伊藤家 街並み

西構口

老松神社 大門跡


まだ先達の方も歩いたことのない旧街道に向かうのだと気持ちが弾む。いただいた地図を頼りに「内野関屋・大門跡」から国道200号線を渡り、直ぐ 川を渡ると右に川沿いの道が続く。
嬉しいことに地道で膝に優しい。川沿いには猪除けの金網が張られていて、快調に緩やかな坂を上って行く。

旧街道の地道

進み過ぎた道

地図上では、再び川を渡り、従来の旧街道に合流することになっている。
猪除けの金網は途切れることなく続いているので、快調に上って行くと国道の下をくぐり、急坂になる。
少し不安になるが、何処かで橋が あるはずだと進む。しかし、道の方向が「冷水峠」と反対なるので、おかしいと思い戻ることにする。
同じ道を戻って行くと橋があるので、あれだと、金網を開けようとするが、しっかりと留められているのだ開けられない。 諦めて、元の「内野関屋・大門跡」まで戻らざるを得ない。
スタート地点に戻り、地図に書いてある「長崎屋」さんに電話をすると、教えていただいた方が出られ、地道で気持ち良かったが、金網で行けなかった ことを報告し、一息入れる。約45分のロスだったが、間違ったが、新しい(?)道を歩けて良かったと。(11:55)

「長崎街道(内野宿〜冷水峠)」の「紀行スライドショー」

従来の旧街道を「冷水峠」に向かう。国道沿いに、高架下をくぐったり、並行に進んだりと道なりに進む。
国道と並んで「大根地神社鳥居」が立っているので、難航したが、やっと「冷水峠」の上り口に到達したのだ。昼時も過ぎたので、 ここでコンビニで買ったおにぎりの昼食を取る。(12:25-12:40)

冷水峠の石畳

長崎街道の「冷水峠」は、現在の国道200号線よりさらに登った場所にあり、長崎街道で一番の難所と呼ばれた峠です。
江戸時代には参勤交代やオランダ商館長、長崎奉行、幕府高官等の往来など交通が頻繁に行われていました。 シーボルト、吉田松陰、伊能忠敬など、幾多の人々や、将軍徳川吉宗への献上象などもこの峠を通ったとされており、歴史を感じる事のできる場所です。 筑紫野市山家から冷水峠を越えて内野に至る区間は、「平成8年文化庁の歴史の道百選」に選定されました。  (飯塚市観光協会HPより)

緩やかな坂道を上って行く。国道の騒音も段々と少なくなり、JRのトンネルの入口を見ながら杉林が続く峠に向かう。杉の木には花粉を一杯蓄えた枝が 今にも飛び出そうと狙っている。
しばらく進むと石畳の道が始まり、勾配がきつくなって来るが、石畳を踏みしめて上って行く。「冷水峠」の石畳はなかなかのものだ。
「熊野古道・伊勢路・馬越峠」の石畳も良かったが、もう少し大きな 石畳で、この峠の方が歩き易いと思った。楽しみながら上って行く。

大根地神社鳥居

JRのトンネルの入口

冷水峠の石畳


石畳と少しひんやりとして来た空気を楽しみながら上って行く。思ったより高いので、途中で一息入れ、石畳・地道を上るとせせらぎの音が聞こえ、 横に「首なし地蔵」が祀られている。
横の説明によると民話があり、 昔、悪者がこの峠で旅人を殺害した。悪者はこのことを道ばたのお地蔵様に向かい、誰にも言うなという。お地蔵様は「ワシは言わぬがわれ言うな」 という。悪者は驚いてお地蔵様の首を叩き落として行方をくらました。その後何年かして二人の旅人がここを通りかかる。 谷川の水で喉をうるおし、お地蔵様を拝すると、首がないのに一人は驚くがもう一人の男はあの悪者であった。
悪者は、その首のないわけについて何年前かの自分の仕業を自慢げに白状した。話を聞いた男は、前にここで殺された旅人の 血縁であったので、仇打ちが行われたと。

せせらぎには「古い石橋」が架かり、当時、旅人が冷たい水で喉を潤したのだろう。夏であれば、顔を洗い、頭から水を被る水場だが、この時期はパスする。
少し上ると左に「一里塚」の碑が立っている。「冷水峠一里塚」と云うのだろう。今回の紀行で初めて出会った一里塚跡だ。

首なし地蔵の祠 首なし地蔵

古い石橋

冷水峠一里塚


石畳と地道を気持ち良く上ると頂上に到達する。「大根地神社鳥居」が立ち、本殿への参道を示している。
その横には御笠郡の郡境石が立ち「従是西御笠郡」と示され、反対側には穂波郡の郡境石が「従是東穂波郡」と示している。「冷水峠」の頂上が 御笠郡と穂波郡の境界になっているのだ。
「冷水峠」踏破の疲れを癒すべく、一息入れる。(13:20-13:30)

大根地神社鳥居 説明

御笠郡の郡境石

穂波郡の郡境石


「長崎街道」の最大難所と云われる「冷水峠」を越えて、舗装道路の下り坂を快調に進む。旧街道が国道200号線と合流する手前には「長崎街道」と 記された道標が立ち、その前には「大根地神社」の狛犬いや狛狐(?)が祀られている。
ここからの国道歩きが、「冷水峠」以上の難所となる。大型トラックがひっきりなしに上下から走り、歩道の無い白線内の歩道を身を縮めながら下って 行かねばならない。カーブでは10台位、トラックの通過を待たないと危ない状態が続く。やっと「長崎街道」の道標を見付け、旧街道に入るが、再び 国道と合流が何箇所か続き、やっと道標に従って畦道に入る。
少し畦道を進むと金網の中に「長崎街道」の道標が見える。「冷水峠」の上りと同じでどうしょうかと思い、金網を開けようとすると開いた。 施錠せず、通れるようになっているので、助かった次第だ。畦道を伝って進む。旧街道には祠や石仏が祀られ、国道歩きから解放されたと 思っていると再び国道と合流し、やがて、冷水トンネルの出口が見える所から、国道と離れることが出来た。

大根地神社の狛狐(?) 下り道

金網の中の道標 祠と石仏

冷水トンネルの出口


「長崎街道(冷水峠〜山家宿)」の「紀行スライドショー」

国道の下に通る舗装道路を下って行く。道標がないので、道なりに下って行くと老夫婦が上って来られたので街道歩きですかと尋ねると「長崎街道」を 歩いていると。今日は飯塚まで行く予定だと。頑張りましょうと声を掛け合ってお別れする。長崎から歩かれている方とは2人目だ。
道標があるが、道が川で途切れている所もあったか、道なりに下って行くと国道200号線のバイパスを過ぎ、R200となるが、バイパスを通る車が大半で、 交通量が少なく、歩道も出来たので安心して淡々と進む。 大宰府に向かう国道76号線との交叉点を過ぎ、うんざりするほど長い国道歩きは緩やかに右に曲がって行き、JRの踏切を渡り「山家宿」に入って 行く。

山家宿・御茶屋本陣跡

筑紫野市山家に遺構を残す山家宿は、筑前六駅のひとつ。長崎街道・日田街道・薩摩街道が交差する交通の要衝として幕府の長崎奉行をはじめ、 九州各藩の大名らが通った場所です。
山家宿の入口・構口には、石垣と土塀が残されています。昔は筑前六駅にのみあったのですが、 現在では北九州市木屋瀬宿とこちらの山家宿だけわずかに現存しています。特に、山家の西溝口は道の両側とも石垣の上に土塀、瓦をふいた 昔のままの姿を伝えているのが貴重です。(筑紫野市観光協会HP他)

「東構口」は見付けられなかったが、「山家(やまえ)宿」の街並みを進むと「えびす様」の線彫り石像が祀られている。注連縄が張られ、しっかりと 祀られているようだ。その先に広場があり「山家宿大庄屋役宅跡」の説明板が立っている。
静かな宿場町を進むと「山家宿問屋跡」の碑が立っている。国道200号線は真っ直ぐ通じているが、旧街道はその先から枡形になり、右に直角に 曲がっている。枡形を曲がっ少し先の植え込みの中に「山家宿中茶屋跡」の碑が立つ。「中茶屋」の名称は初めて出会ったと思う。脇本陣なのだろうか?

えびす様の石像

山家宿大庄屋役宅跡

山家宿問屋跡 山家宿中茶屋跡


緩やかな坂を上ると右に先程とは違った線彫の「恵比寿様」像が祀られている。同じ宿場で2つもの「えびす様」像があるのは何故だろう。 その先に「山家宿・御茶屋本陣跡」の碑が立ち、ここが本陣だと示しているが、火事のためか建物は残っていない。
その前には「山家宿下代屋敷跡」の碑が石段の下に立っている。ここから枡形を左に曲がると石垣の上に土塀、瓦をふいた昔の風情が残る 「西構口」が迎えてくれる。道が広くなったので、全体を写すと分からないが、なかなか立派なものだ。横には石造りの説明板が立っている。 「山家宿」は小さいが、枡形もしっかりと整備された宿場たと思いながら振り返りパチリと。(15:10)

線彫の恵比寿様

山家宿下代屋敷跡

西構口(反対から) 説明


「山家宿」を踏破し、「長崎街道」から「薩摩街道」に分岐して行くかの思案処となる。

文殊菩薩祠

山家宿番所跡

JR山家駅を逃すと次の交通機関は甘木鉄道松崎駅まで 約11kmなので、微妙な距離だ。昨日の足の痛みは全くないので、3時間弱歩かねばならないが、「長崎街道」から「薩摩街道」に突入することに する。
「薩摩街道」との分岐手を目指して旧街道を進むと紅梅の下、「文殊菩薩祠」がきれいに祀られている。緩やかに下って行くと国道200号線と 合流する所に「「長崎街道」の道標と「山家宿番所跡」の碑が立っている。そこから右の道が「長崎街道」で「原田宿」に通じているのだ。 「薩摩街道」は国道を渡り、JRの踏切を渡って行くのだが、追分の碑がないかと探すが分からず、「山家宿番所跡」の碑の前の石に座り、 一息入れる。(15:25)

石櫃の追分

薩摩街道の表示


いよいよ「薩摩街道」への第一歩を進む。
国道を渡り、JR踏切を越えて進むと広々とした筑紫平野の畑が続く。今までとは風景が違う感じだ。春霞みがかかり、陽が少しつつ傾き始めた 畑には麦が大きくなって来ている。麦畑が多いのは意外だった。
旧街道を示すように名も知れない「お堂」が祀られ、地元の有名人の立派な墓も祀られている道を進むと中牟田集落に入り、小学生が下校して来る。 こんにちはと丁寧に挨拶してくれるのは嬉しい。中牟田小学校の近くに「薩摩街道」の追分の道標があるはずなので、探すと「追分碑」が立ち、 横に説明板があり、「右・肥後薩摩道」「左・豊後、秋月、甘木道」と記されている。初めて「薩摩街道」の標識に出会ったのだ。(15:50)

畑の中の薩摩街道 お堂

中牟田集落の旧街道

薩摩街道の追分 説明


「追分碑」の指示通り、右に進むと国道をいしびつ交叉点で渡り、真っ直ぐな畑の中の道を進む。のどかな畑に姿は見えないが雲雀の鳴き声が 聞こえる。足の調子も問題なく順調に歩を進める。広い県道を左折し、直ぐに右折して、麦畑の中を進む。
川の手前の県道を右折して進むとビニールハウスがたくさん建ち、中ではレタスが栽培されているのを見ながら、川を渡り、川沿いに右に曲がると 「水神社」が鎮座する。ここで一息入れる。(16:25-16:30)
少し進むと筑前、筑後の立派な「国境石」が立っている。当時の久留米藩と福岡藩の国境を示す境界で、現在でも筑紫野市と小郡市との市境と なっているのだ。

麦畑の旧街道

水神社

筑前・筑後の国境石


道なりに夕日が傾き始めた旧街道を進むと大きな池があり、水鳥が羽根を休めている。道端には石仏が祀られているのを眺めて進む。 春霞みで夕日がぼんやりとしている中、淡々と歩を進めるがカメラの調子がおかしくなり、電池を替えても・・・・・。 止むを得ず、先に進み、立石小学校の横を通り、大分自動車道の高架下を抜けて、甘木鉄道の踏切を渡り、「松崎宿」の入口を確認して 甘木鉄道松崎駅に到着する。(17:50)

池と水鳥

石仏

春霞みと夕日


「長崎街道(山家宿〜松崎駅)」の「紀行スライドショー」

昨日の足の調子から、当初の予定だあった松崎駅までの歩行は無理と思っていたが、無事到達することが出来た。今日の歩行は57.2kmと難所の 「冷水峠」越えも考えると良く歩いた。歩数は54000歩だった。
甘木鉄道の松崎駅から小郡駅で西鉄に乗換え、18時30分過ぎに、西鉄久留米駅に到着する。今夜の夜行バスは、20時40分・西鉄久留米駅集合なので、 銭湯に行き、食事をするには少し厳しい。以前、JR久留米駅には下りたことがあったが、寂しい感じだった。西鉄久留米駅周辺は賑やかで、 バスの集合場所を探し、銭湯は諦め、居酒屋で「薩摩街道」に突入したことに乾杯する。
2日間で57km歩いたのは初めてではないかと自己満足し、芋焼酎の睡眠薬を飲み、深夜バスに乗車する。今回は「4列のびのびシート」で足が伸ばせるのは 嬉しい。博多・小倉を経由して、途中2度のトイレ休憩をし、7時過ぎに大阪駅に到着する。帰宅し、風呂に入り、朝食を食べる。

下関から2回の紀行で、「長崎街道」から「薩摩街道」に入ることが出来た。まだ福岡県で、次回には熊本県に入ることが出来るだろう。鹿児島までは まだまだ難所もあるだろうが、一歩一歩進んで行きたいものだ。

[直方〜天道][天道〜松崎]


(工事中)




    
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