[松崎〜羽犬塚][羽犬塚〜小原]


○ 「薩摩街道No3」見聞録(松崎〜小原)・(距離 55.0km(今回)/ 163.5km(累計))

  2.「薩摩街道」(羽犬塚〜小原・27.7km) 2013.04.20. 7:10〜16:40 曇り後雨


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「羽犬塚〜小原・行程MAP」

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昨夜は早く眠ってしまったので、夜中に目覚め、ウトウトし、5時前から起き出す。テレビの天気予報では15時位から雨が降り出すと。出発前の予報では 大丈夫だったが、寒冷前線の南下が早まったようだ。
今回の紀行の最終地点は、当初、「南関宿」とし、バスで大牟田に行き、西鉄で久留米に戻る行程とし、バスの時刻等、調査していた。 そして、次回は、久留米から同じルートで、南関まで戻り、続きを歩こうと。 しかし、南関から歩き始めるのが、10時30分位になるのが、問題だと思っていた。
次回以降は、熊本から深夜バスで帰阪すると考え、色々と検討していると、高速バスを活用すれば、効率的であることが判明した。「南関宿」から 「山鹿宿」に向かう途中に九州自動車道の小原バス停があり、そこから久留米方面に向かえば良しとし、次回は熊本行の深夜路線バスで、最初の 降車地・植木インターから高速バスに乗換え、小原バス停に戻る方法がbetterと。値段も限定だが、3900円と安く、8時40分にはスタート出来るのだ。

ホテル・明治館

諏訪神社

よって、今回の紀行の最終地点は、「南関宿」から「山鹿宿」に向かう途中、約3km先の小原バス停とする。雨が降らねば良いと・・・・・!?
7時前にロビーに行き、7時前から朝食(無料)を急いで食べて、7時15分、本日の紀行をスタートする。
旧街道に戻る途中に鎮座する「諏訪神社」に参拝し、今日の安全を願う。
昨日の最終地点から、旧街道を進むと、左に「薩摩街道」の道標と「一里塚跡」の石碑が立ち、山ノ井交叉点を渡った福岡県筑後県税事務所の前に 、「羽犬の像」が飾られている。さすが、羽犬の町だ。
国道を渡り、静かな県道は早朝で土曜日なので、人通りもなく、サツキの花が咲いている旧街道を進む。途中に「薩摩街道」の道標と、種田山頭火 の歌碑が立っている。

薩摩街道と一里塚跡の碑

羽犬の像

静かな旧街道 山頭火歌碑


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

真っ直ぐな旧街道を二本松橋を渡って右折する角に「旧坊津街道(薩摩街道)」の立派な石の道標が立っている。すぐ左折し、進むと国道と近付く 旧街道のの角に「北上妻郡 南下妻郡」と刻まれた古い石碑が立ち、「上妻(こうづま)・下妻(しもつま)郡境の碑」と説明板がある。 国道に向かう手前左の駐車場横に「従是 東上妻郡 西下妻郡 分境」の石碑が立ち、郡境を示している。字は違うが、下妻と云う地名がこんな所に あるのだと知り、親しみを感じながら旧街道に戻る。
旧街道は田園地帯が見渡せるようになり、少し先の交叉点の右には「三体の地蔵尊」が祀られている。空の雲が厚くなり、暗くなって来たので、 雨の予感がする。
国道に並行に進むと左に見慣れた「旧坊津街道(薩摩街道)」の道標と大きな石燈籠が立っている。やがて、尾島上町の信号で、国道209号線と 合流する。

上妻・下妻郡境碑@ 郡境碑A

三体の地蔵尊

道標と大きな石燈籠


しばらく、国道歩きになるが車の往来も少なく、快調に進むと左に「天満神社」の鳥居が立っている。更に進むと祠が祀られ、「薩摩街道」の道標と 「史跡一之塚源平古戦場跡」の石碑が立っている。ここにも、源平の古戦場の史跡があるのだ。境内を囲むように観音像が祀られているのも 印象的だ。
国道沿いに「恵比寿様」が石の祠で祀られている光景が数ヶ所あり、この辺りも「恵比寿様」信仰が篤いのが良く分かる。尾島交叉点から右の 旧街道に入る入口にも、「地蔵尊」が祀られ、年配の男性が拝んでおられた。

天満神社

史跡一之塚源平古戦場跡

恵比寿様の祠 地蔵尊


国道から静かな旧街道に入り、大川橋の手前に「薩摩街道」の道標が立ち、少し進むと拡幅された広い道に当たる。左には広い公園が広がり、 戸惑いながら公園に沿った新しい道を進むと左に旧街道らしい道があるので、その道に入って行く。 静かな旧街道には「日本第一秋津島浪右衛門の墓」の碑が立っている。元禄十年(1697)生まれの地元出身力士が、江戸で活躍し、 名人とも天下第一とも云われたそうだ。少し先の右に「帰舟庵」と表示する広場があり、静かな旧街道を進む。
左の顕彰碑の前にも「旧坊津街道(薩摩街道)」の道標があり、左前方に九州新幹線の船小屋駅が見え、新しい道を渡り、新幹線の高架下を抜け、 JRの踏切を渡って、広々とした田園風景とビニールハウスを眺めながら一息入れる。(8:20-8:25)

薩摩街道」の道標

秋津島浪右衛門の墓 帰舟庵

九州新幹線の船小屋駅 旧街道


広い道の左には、広域公園が広がり、体育館には学生がたくさん集まっている。広い土地を持つ地方都市の施設の充実ぶりが良く分かる。 少し先の交叉点の手前に行基が祀られていると思われる祠が建ち、中をのぞくが、良く分からない。横の行基橋を渡り、真っ直ぐ進むと左に 「聖母宮」の鳥居が立ち、本殿が鎮座する。
少し先の本郷交叉点を右折し、静かな旧街道を進むと左右に「祖霊廟」や「地蔵の祠」が祀られている。
ビニールハウスがあり、何が植わっているのかと のぞくと里芋のような根の張り方だ。作業をしている方が居られたので、尋ねると「グリーンカラー」と云う花で、花を見せていただいた。野菜だけでなく 花の栽培もやっているのだ。
道なりに進み、中山大藤の交叉点の手前にも「地蔵堂」が祀られている。旧街道の雰囲気が残るゆったりとした道だった。

行基橋と祠

聖母宮

地蔵堂 グリーンカラー


先程から「中山大藤祭り」の幟が旧街道沿いに立っていた。その中山大藤に来たので、周りを見渡すと右横先にイベント開場があるようなので、休憩を 兼ねて立ち寄ることにする。
交叉点を渡った左角に、赤い鳥居と祠が祀られ、「二里」と刻まれた石が立ち、説明板が設けられている。関が原の合戦で石田三成を捕えた 田中吉政は、筑後の柳川城に入り、支城の久留米城とを結ぶ幹線道路整備を行ない、一里毎に標石が置置いたと。これは二里目の標石なのだ。
「藤祭り」のイベント会場に向かうが、まだ時間が早いので、準備作業に忙しくしておられる露店が多い。奥に進むと見事な藤棚に藤の花が満開に 咲き誇ってる。ただ、青空でないので、藤色が映えないのが残念だ。
この藤は樹齢270年、2株、10本の幹から伸び、藤棚は500uに及ぶそうだ。露店で弁当も売っているいるが、雨模様なので、弁当を食べる場所が あるのかどうか分からないので、買うのを控えて、ここで一息入れる。(9:00-9:10)
イベント会場は「熊野大社」まで通じていて、神社に参拝し、鳥居をくぐって旧街道に戻る。

二里石

中山大藤祭り 藤の株

熊野大社の鳥居


旧街道沿いには小さな祠が数ヶ所祀られている。その先には、本殿が矢根に覆われた珍しい形の「天満神社」が鎮座している。初めて見るような 神社の形だ。
三軒屋交叉点を横切って進むと左に「玉依姫命を祀る祠」が鎮座している。大小取り混ぜての神社や祠が祀られ、所々には立派な旧家が残っ ている旧街道の雰囲気を楽しみながら次の「瀬高宿」に向かう。

小さな祠

天満神社 玉依姫命の祠

旧街道の街並み



「薩摩街道(羽犬塚〜小原)@」の「紀行スライドショー」

瀬高宿の街並み

国道443号線と交わる御茶屋前交叉点に当たる。「瀬高宿」の「御茶屋」が信号手前右角の空地がとのことで、確認するが、何の痕跡も 見つからない。
国道を渡って少し進むと枡形になり、左に曲がると落ち着いた「瀬高宿」の街並みが続く。
中世以来、矢部川河口から有明海を介して対外交渉の基地となり、近世薩摩街道と呼ばれた南九州へ通ずる交通の要衝であった瀬高は、 柳川藩の物資集積の中枢として上庄を中心とした町屋が形成され、商工業の著しい発展が見られる。
現在でも、「酒造の町」として著名で あるが、かつては、鋳物・製瓦・和紙・製蝋等々藩内・近隣の需要を満たす諸職人の生産工房が軒を連ねていた。(みやま市歴史資料館HPより)

立派な木造の家、白壁の家が続く街並みを楽しみながら進むと右に彫刻が立派な屋根を持つ祠が建ち、その先の小道の奥には、鐘楼門が見事な 「来迎寺」が建っている。宿場の史跡は見当たらないが、寺院等は昔の面影を残す宿場町だと感心する。

瀬高宿・御茶屋跡

彫刻が立派な祠

来迎寺の鐘楼門


左には「祇園宮(八坂神社)」が鎮座し、境内の建物の中に「瀬高祇園大提灯」が飾られているが、ブラインドが下されており、一部しか見ることが 出来なかった。
少し進むと、両側の立派な白壁の建物が「菊美人酒造」で、北原白秋の姉の嫁ぎ先だと。向かっていると、休日なので観光バスが停まり、たくさんの 観光客が店に入って行く。一緒に入り、説明を聞くが、時間がかかりそうなので、女将さんにお奨めのお酒を聞き、季節限定の「菊美人・生酒」を 買い求め次に進む。(帰って飲むと、なかなか美味しいお酒だった)
  真っ直ぐに進んでいるとボツボツと雨が降り出した。矢部川に当たる川沿いに「恵比寿様」が祀られている。小さな屋根があったので、傘を取り出し 雨対策を行う。(10:20)

祇園宮(八坂神社)

菊美人酒造

恵比寿様


雨の中を国道443号線に合流して瀬高橋を渡り、一つ先の辻を右折する。すぐ突き当りになり、左に曲がる角に蒲鉾屋があり、何故こんな所に あるのだろうと店の中をのぞくと、お奨めのちくわがあるので、蒲鉾と一緒に買い求める。親父さんが何処まで行くのかと尋ねられたので、 「薩摩街道」を南関まで行くと。親父さんも地元の街道歩きの世話人をしておられたようで、気を付けてと激励される。
少し進んだ左の新町公民館の前に「伊能忠敬測量基点之地」の石碑が立つ。その先には「恵比寿様」の祠が祀られたり、「地蔵尊」が祀られたりと 旧街道の趣きが続く。雨は段々と激しくなる。
国道209号線を横切り、川沿いの道を進むとJR鹿児島本線にぶつかり、踏切に迂回するとJR瀬高駅が見える。踏切を渡り、元の道に戻ると道角に 「二里石」と黒く刻まれた石碑が立っている。先程の中山大藤交叉点にあった「二里石」は「矢部街道」で、これは「薩摩街道」の「二里石」だと。

伊能忠敬測量基点之地の石碑

恵比寿様の祠

薩摩街道の二里石 JR瀬高駅


旧街道は国道443号線と小さい水路に並行して進む。細い道には「石仏」や「お地蔵様」の石の祠が祀られ、やがて、国道に合流する。雨が激しくなり、 道が水浸しになって来る。
少しの間、国道を歩き、吉井交叉点の右手前に「満福寺」が建ち、その前の小道が旧道なので、左折して進む。

細い旧街道

お地蔵様の石祠

満福寺


この旧街道も「恵比寿像」や「地蔵堂」が点在し、なめこ壁の旧家が建つ、雰囲気のある道だ。雨の中の歩行なので、余計に風情があり、誰も通らない 道を進む。 小さな川を渡った所に大きな「地蔵堂」があり、屋根が広いので、ここで一息入れ、リックカバーを付け、雨対策を万全にする。天気予報が大丈夫 だったので、レインウェアは持ってこなかったのが悔やまれる。(10:45-10:50)
小川沿いに進み。国道775号線を渡り、うねうねと左右に曲がりながら進むと小さな石の祠に「地蔵尊」が祀られている。一度、九州新幹線の 高架下をくぐり、直ぐの道を川沿いに、再び高架下を抜けて進むと国道443号線に当たり、左折して、もう一度、新幹線の高架下に至る。

石祠が点在する旧街道

地蔵堂 地蔵尊

九州新幹線高架


再び、国道歩きが続く。横には麦畑が雨に煙っていてきれいだが、靴の中に段々と水が沁みて来る。しばらく行った先の大根川を渡り、左折して 堤防沿いの桜並木の旧街道を進み、次の橋で右折すると左に有名な方なのだろう碑が立っている。
旧街道は山川町清水の集落に入り、広い道を渡ると竹林の静かな坂道になり、筍を探すが見つからない。下り道の広場にたくさんの筍が頭を 出している。春、真っ只中だと感じながら、雨の道を進む。
坂を下って国道443号線に合流する手前に立派な洋館が建ち、その下の広場に「石塔群」が祀られている。ここからの国道歩きは本当に厳しい。 歩道がないので、車が通ると水しぶきがまともに被ってしまうのだ。

大根川を左折

清水の竹林

石塔群


過酷な国道歩きが続き、うんざりしながら、何処かに食堂がないかと探しながら進む。
尾野交叉点の左手前の「地蔵堂」の横に「三里」と刻まれた 石碑が立っている。筑後藩主田中忠政が、一里塚や追分石・三里石・四里石を設置したと。
先達の人の中には、旧街道がここから左折して、国道に並行に進み、再び、国道に合流すると示されていたが、雨の中、国道から離れると食堂を 見付けられなくなるため、国道歩きを続ける。 尾野交叉点を渡ると、左に「天満宮」と「祇園宮」が並んで鎮座する珍しい2つの鳥居を見て進むと、国道脇の騒々しい中、「石祠」が祀られている。 その先にAコーブ山川があり、その向かい側に食堂が2軒あるので、急いで立ち寄る。雨で靴下はびしょ濡れで靴を脱いで、座敷に上がり、日替わり定食 を頼み一息入れる。580円の定食は魚でなかなか豪華なもので満足しいただく。(12:00-12:25)

地蔵堂と三里石

天満宮と祇園宮 石祠

日替わり定食


原町宿の街並み

食堂の向かいの大きな「みかんのモニュメント」の横に「野町五輪塔群」が祀られ「山川町指定文化財平家の塔」の碑が立っている。この地方の合戦で 亡くなった平家の落武者の霊を里人が祀ったものだと。ここにも平家の史跡が残っているのだ。
再び、雨の中の国道歩きが始まる。山川中学校前信号過ぎ、少し進んだ所に「日当川地蔵堂」が祀られている。国道沿いに原町郵便局が建っている。 この辺りが、「原町宿」らしいが、史跡は残っておらず、雨に煙る国道が伸びているだけだ。
右に曲がる旧街道があるのだが、見落としてしまったようで、仕方なくそのまま国道の右側を進んでいると、反対側に「地蔵堂」が建ち、数基の お地蔵様が祀られているのが見えるが、国道の横断も車の往来が激しく断念する。
右に「要川公園」の石碑があり、説明文が記されている。この辺りが、源平最後の激戦地ととのことで、九州へと落ちのびてきた平家は、 この地で源氏の追討に会い、激戦の末、破れたのだと。今まで歩いて来た源平の史跡は、この激戦地に由来するのだと納得する。
旧街道の入口を見失ったが、途中から「要川公園」に入り、静かな道を進み、ほっとする間もなく、再び、国道に合流する。

野町五輪塔群

日当川地蔵堂 地蔵堂

要川公園 静かな旧街道



「薩摩街道(羽犬塚〜小原)A」の「紀行スライドショー」

再び、雨の中の国道歩きとなる。山川南部小学校を過ぎで、進んだ所に「かさ地蔵」が祀られ、横には「田尻因幡守種貞の供養塔」が立っている。 田尻氏はこの地方の代々続く豪族で、秀吉の朝鮮出兵時に戦死し、「かさ地蔵」は、その供養のために祀られたと。源平合戦、朝鮮出兵と歴史的な 戦の史跡がこの九州の中心部に近い所に残っているのだと感心する。
左に九州自動車道を見ながら進み、その高架下をくぐる。ここで、雨宿りを兼ねて、一息入れる。靴の中はビシャビシャで、長袖のシャッも湿って来ているが、 寒さは感じない。(13:20)
高架下を出た左側に「四里石」が立っている。筑後藩主田中忠政が設置した道標だ。

かさ地蔵 供養塔

九州自動車道

四里石


国道歩きが続くが、次の旧街道との分岐点は見逃すことが出来ないので、慎重に傘を差し、前を見ながら進む。

松風の関

やがて、国道の右側に「松風の関」の説明板が立っている。ここから右の旧街道に入って行くのだ。
説明の概略は、 古代からの筑後の国と肥後の国を結ぶ唯一の街道が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も嶮しい天然の要害の地であった。
平家物語にも記されている大津山の関が、現在の松風の関を指すと。当時、既に関所として菊池氏によって守られ、七世紀に作られた古代官道に 関所を置いたことが判明したと。
戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしたが、江戸初期に田中吉政が、筑後国の領主として柳河域に入ると、ここ松風の関 から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っていると。

歴史的にも重要な地理上のポイントであるようだ。
「松風の関」の説明板から旧街道に進むが、車の轍の所は水溜りとなり、真ん中の草の道は濡れていて、何処を歩いても靴は水浸しとなる。 小川を渡り、右横を走る九州自動車道に沿って進むと上り坂となり、杉木立の草道となるが、水浸しは変わらない。木立の間に「地蔵堂」が ひっそりと祀られている。「地蔵堂」の前で一息入れるが、時刻をカウントする余裕がなかった。
坂道の頂きに「松風の関」の碑が立ち、碑を見付けて、ホッとする。

松風の関への分岐 説明

轍の道 木立の道

地蔵堂


九州高速道路を左に見ながら進むと「八女96トンネル」があり、高架下をくぐって、高速道路沿いに進む。

八女96トンネル

雨が激しくなって来た農道を右に折れ、左に折れると丘の手前に、当時の筑後と肥後の国境を示す「湯谷柳川領境界石」が道の両側に立っている。
当時の筑後の国から肥後の国に到達したのだと、雨の中で感動する。
説明文によると、 江戸時代に筑後柳川領と肥後熊本領の国境を示すために建てられたものである。左の古い方は、江戸時代初期に建てられたものと思われ、 三つに折れて中段と下段だけが残っており、「 (従是西)北筑後国立花(左近将監)領内 柳河札辻ヨリ是迄四里二十町余」(括弧内は、推定)と刻まれている。
右の新しい方は、 古い方が折れたため江戸時代末期に取り替えられたものと思われ、「従是西北筑後国柳河領従柳河札辻四里二十町余」と刻まれている。

その横には「豊前街道」の碑が立っている。
肥後の国では「薩摩街道」を熊本城以北は「豊前街道」と呼ばれ、熊本札の辻から十一里八丁二十間あり、一里毎に木製の標柱が一里塚のように 設置されているのだと。
「豊前街道」の碑には、「右豊前(小倉)へ」「左南関御茶屋跡」と示されている。いよいよ、熊本県だと雨の中、傘を差しながら、 気を引き締める。(14:00)

湯谷柳川領境界石 説明

豊前街道の碑


「豊前街道」の碑の指示通りに左の道に進む。
ここからが、今回の紀行での、1回目の間違いが始まる。気分新たに、肥後の国の道を下って行くが、どうもおかしいと気付くが、民家もなく、誰も 歩いていない。車も時々通るが、手を振っても停まってくれない。
近くに「十一里木」の標識があるはずだが、見当たらず、間違った可能性が高い。横に逸れる道もなかったように思え、坂を下って広い道に出る。 店があったので、尋ねようと声をかけるが、誰も出て来ず、仕方がないので、途中まで戻り、別の道の坂の上に「地蔵堂」らしきものが建って いるので、旧街道では・・と進む。この道は行き止まりでアウト。
結果的に、方向が分からなくなり、帰宅して確認すると、高速道路を抜けるべき方向とは離れて行っていたのだ。
帰りのバスの時間もあるので、「十一里木」の標識を探すのを諦め、「南関宿」に行こうと、先程の広い道を渡り、進むが 民家もなく、半信半疑で進んでいると分岐点に南関への矢印が左に向いていたので、従って左の道を進むが不安だ。高速道路の高架橋 (実際は県道)が遥か上を 通っている下を抜けた所で、車とすれ違い、南関への道を確認すると先のトンネルをくぐると良いと。トンネルがあるとは思っていないが、云われた通り、 トンネルを抜けて下って行くと南関の町に出て、一安心だ。

   正確な旧街道は、「豊前街道」の碑から左の道に進み、左に少し狭い道があるらしく、その道を進むと、高速道路の高架下を抜け、国道443号線を 南下し、関東交叉点を右折し、再び、高速道路を抜けて「南関宿」に入るのだ。
南関の街並みに入るが、方向が定かでなく、史跡を探すと「城原官軍墓地入口」の碑が立ち、横には立派な西南の役で官軍の本営となった 「正勝寺」が建っている。あれっと思い、雨でぐしゃぐしゃになった地図を確認すると、「南関宿」の出口に当たる場所で、訳が分からなくなる。 道を間違え、大きく迂回して、次の「山鹿宿」の方向から「南関宿」に入って来たのだ。
気を取り直して、「南関宿」の史跡を巡ることにするが、バスの時刻も気になるので、雨の中、急ぎ足で進むと北原白秋の「素麺歌碑」の碑が 立っている。内容も確認する間もなく、次に進むと祠が祀られ、中をのぞくと「夫婦の恵比寿様」が祀られている。珍しい。

正勝寺 官軍墓地碑

白秋の素麺歌碑

夫婦の恵比寿様


旧街道の道筋通りに進んでいないが、取り敢えず「南関宿・御茶屋跡」に向かう。

南関御高札場跡と南関手永会所跡

南関公民館入口の門柱には、右に「南関御高札場跡」、左に「南関手永会所跡」と記され、横には大きな「豊前街道」の案内板が立ち、「南関宿」 の中心地であることを示しているようだ。
急ぎ足で周辺を探すと「南関町御茶屋跡」の幟が立つ建物があり、これが「御茶屋跡」と写真を写し、次に進む。先達の写真と見比べると少し 違うような気もするが・・・?
南関御茶屋は、嘉永五年(1852)ごろに完成したもので、藩主が参勤交替する時や、領内巡視の際に休憩・宿泊していたものです。
通常御茶屋と御客屋は別々に存在していますが、南関の場合はひとつの建物を御茶屋とも御客屋とも呼んでいたようです。 建物は、南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されており、屋根には細川家の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれています。 (南関町HPより)

時間を確認すると14時55分だ。約1時間さ迷っていたことになり、小原バス停は16時06分発なので、余り余裕がない。 小原方向に急ぎ足で進みながら史跡を確認して行く。「南関御番所跡」を見付け、進んで行くと「南ノ関宿構口跡」の碑が立ち、「南関宿」の出口 に到達する。雨の中、道に迷ったため、右往左往した「南関宿」散策だった。大反省だ。

豊前街道の案内板

御茶屋跡? 御番所跡

南ノ関宿構口跡


追分

バスの時刻まで1時間余り、後3km弱なので、急ぎ足で「南関宿」を後に、「山鹿宿」方向に向かう。
南関橋を渡ると「旧豊前街道」の矢印の道標が 立ち、右斜めの旧街道から緩やかな上り坂を進み、次は左と上って行く。坂道の上からは雨水が流れ、所々は川のようになっている。

追分の道しるべ

坂道の左に「八塚の碑」が立っている。文禄の役の際、南関城代が息子と家人を八人の家来によって救われたため、その8人の霊を祀る ために築かれた塚だと。
更に上って行くと右に「姫塚」が立ち、城を逃れていた城主の娘が小原城が焼け落ちるのを見て自害した場所だと。
その先には「追分の道しるべ」が立ち、石仏が祀られている。追分には「右たかせ道 左やまか道」と刻まれている。右に行くのが高瀬往還、 豊前街道はここを左へ行かねばならない!!。

八塚の碑

雨の坂道

姫塚


ここから、本日の2回目の失敗が始まる。雨のせい、時間のせい、予習不足、何をともあれ、左に行かねばならないのを、そのまま真っ直ぐに進んで しまったのだ。「追分みちしるべ」を読めば分かるのに、急いで直進し、次にあるべき「豊前街道十里木跡」の標識が見つからない。探しながら 坂道を下ると広い道に出てしまった。まだ、間違ったことを気付かず、進むが分からないので、車を停め、高速の小原バス停への道を尋ねると考えて いるのと違う方向を教えられ、時間もないので急ぎ足で広い道を教えてもらった方向に進む。
歩いていると先程尋ねた車が戻って来られ、乗って行けと。老夫婦の車に乗せていただき、広い道を進み。高速の高架下を抜ける時に「豊前街道」の 道標を見付る。左に曲がって坂を下るとここに到着するのだ。
高架下を抜けて県道を通り、高速小原バス停まで送っていただく。親切な方に巡り合え、本当に助かった。鹿児島までの道中、 気を付けてと激励もいただく。感謝・感謝だ。

16時40分、車に乗せていただいたおかげで、無事、九州高速道路・小原バス停に到達出来た。誰もいない小さな停留所で、濡れた長袖シャツを 着替え、一息付く。

「薩摩街道(羽犬塚〜小原)B」の「紀行スライドショー」

熊本県に入ってからの紀行は最悪だったが、計画通り、バス停に到着出来た。結果オーライとしようと気を取り直し、お茶を飲み、お菓子を食べて 休憩していると定刻より10分早くバスがやって来たので、慌てて乗る。
バスの案内で、このバスは1本前のバスで、事故の関係で50分遅れているのだと。高速バスの車窓から今日歩いて来た旧街道を探しながら、思い出しながら 車窓から眺める。事前に調べていた宮ノ陣バス停で下車(1150円)し、西鉄甘木線・学校前駅に行き、西鉄に乗り、久留米駅まで進む。
駅前の居酒屋で晩酌セットを頼み、ビールで今日の散々たる紀行の反省をしながら小さく乾杯する。焼鳥が出て来て、ここでもキャベツが付いている。福岡の 焼鳥にはキャベツが付きものだと納得する。隣に座った年配の女性連れと話しながら、芋焼酎も飲み、冷えた身体を温めて、疲れを癒す。
20時50分発の深夜バスは窓際で、隣には佐賀に帰省して京都に戻る学生さんと色々と話しながら、博多経由で途中のトイレ休憩を挟み、7時過ぎに大阪に 到着し、8時頃帰宅する。

天候が心配だったが、後半は雨で悲壮な紀行となった。まだ風がなかったのが、幸いだったが、地図はぐしゃぐしゃとなり、全く方向感覚が狂って 2度も道を間違えたのは残念だ。熊本県に入って「豊前街道」を進むのだが、その「豊前街道十一里木跡」「豊前街道十里木跡」を確認出来ていない のは、情けない限りだ。「南関宿」も反対方向から入って、慌ただしく巡ったので、頭の中で整理が出来ていない。「薩摩街道」完歩までの間に、 今日の区間をリベンジしなけれならない。
しかし、何はともあれ、3回の紀行で、福岡県から熊本県に突入で来たことを喜びたい。次は、深夜バスで植木ICまで行き、今日乗った高速バスに 乗換えて、小山まで戻り、「豊前街道」を「山鹿宿」から熊本までは進みたいものだ。

[松崎〜羽犬塚][羽犬塚〜小原]


(工事中)




    
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