[小原〜山鹿][山鹿〜熊本][熊本〜宇土]


○ 「薩摩街道No4」見聞録(山鹿〜熊本)・(距離 59.0km(今回)/ 222.5km(累計))

  2.「薩摩街道」(山鹿〜熊本・29.2km) 2013.05.29. 6:00〜17:30 曇り時々晴れ


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「山鹿〜熊本・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。
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昨夜はA君と楽しいひと時を過ごし、満足感一杯で目覚めた。6時に出発すると伝えていたが、A君はまだぐっすり眠っているので、 メモをドアに挟んで、出発する。

山鹿踊りのモニュメント

天気予報では、雨の心配はなく、逆に晴れて暑くなりそうだ。この季節、紀行に最適な天気は期待出来ない。女将さんに先に出発すると 伝えて、熊本への「豊前街道」に向かう。
旅館末広の道路の向かい側には「山鹿踊り」のモニュメントが飾られている。その優雅な姿は石造でも十分分かる優美なものだ。 その横には、立派な「さくら湯」と云う日帰り温泉施設があり、6時から朝湯を開いているようだ。朝湯を楽しむ地元の方が、何人も 風呂桶を持って来られる。挨拶をすると風呂に入って行けば・・・と。
その奥に、山鹿温泉が突然枯れてしまい、温泉復活の祈祷のため「薬師堂」が祀られ、祈祷を続けると湯が噴出したと。 その近くに「宮本武蔵の像」が立っている。細川忠利が山鹿温泉を大変気に入り、新築した御茶屋に宮本武蔵を招待したとのことだ。
まだ人通りがない「山鹿宿」の街並みを菊池川方向に進むと左に「火除け地蔵」が祀られている。近くに、白壁の立派な蔵があり、 金光家の土蔵で、昭和46年の大火に見舞われるも、隣接する「火除け地蔵」のご利益で消失を逃れたと。

薬師堂

宮本武蔵の像

火除け地蔵 土蔵


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

静かな街並みの右に 「豊前街道」の標識と「江戸時代山鹿宿を支えた江上家」の案内板が立っている。江上家には、豊臣秀吉が 九州平定の時や細川忠利が初めて熊本城に入った時に泊まったと。
少し進むと左に「光専寺」が建っている。立派なお寺で、「西南の役・山鹿口の戦」の薩軍野戦病院跡だったと。この辺りの街並みは 落ち着いて旧街道の宿場の趣が満ち溢れている。早朝の人通りのない「山鹿宿」を満喫する。

豊前街道の標識と江上家の案内板

光専寺

山鹿宿の街並み


街並みを楽しみながら進むと「千代の園酒造所」の蔵と煙突と杉玉が迎えてくれる。熊本の有名な地酒だそうで、昨夜、A君としっかりと 呑んだ銘酒だ。店の正面は雰囲気があり、良いお酒を呑んだと満足する。
その先、菊池川に突き当たり、山鹿宿の南の構口の「惣門」が復元され、堂々と立っている。菊池川に沿って国道3号線の山鹿大橋に 向かうと橋桁には「山鹿踊り」のモニュメントが飾られているのは嬉しい。
朝食を食べるため、国道沿いの「すき家」に向かい、朝定食を食べる。(6:40-6:50)
山鹿大橋に戻っている途中に、A君から電話があり、お礼を云い、秋の同窓会での再会をと。嬉しい一夜だった。

千代の園酒造所 杉玉

惣門

山鹿踊りのモニュメント


「山鹿宿」の紀行を終え、山鹿大橋で菊池川を渡る国道に「門司から162km」の標識が立っている。国道でも162kmなので、歩いた距離は もっとだと思いながら、川を渡り、左折して「惣門」の延長線上の旧街道に入って行く。
静かな旧街道を進むと左の民家の下に「一里木(六里木)」の白い木碑が倒れている。意外な状況で「六里木」を見つけたが、このままでは 朽ちるのではと。
やがて、旧街道は国道3号に合流するが、その手前左に「南嶋菅原神社」が鎮座する。国道を横切り、右斜め前方の県道55号に入る。 静かな道を進むと右に「郡境碑」が立っている。「是ヨリ北山鹿郡」と記されている。少し進んだバス停の横には文字が読めない 「豊前街道」の道標が立っている。

一里木(六里木)の碑

南嶋菅原神社

郡境碑 道標


左に流れる小さな川を渡って右折し、畑が広がる道を進むと、前方に米野岳中学校が見えて来る。広い道が2本ある真ん中に山に向かう 細い道があり、白い道標らしきものが見える。通学する中学生は坂道で自転車も降りて押している。
道標を確認すると「豊前街道」「うらやま坂」と表示されているので、急な浦山坂を上って行く。
勾配はきついが、林間の道は竹林の道となり、気持ち良い。新しい竹の竹の皮が、幹に残っている珍しい光景もあり、汗を流しながら 上り切ると高台の上には、ビニールハウスがたくさん設けられ、中に西瓜が栽培されている。西瓜の名産地・植木に近付いたのだと実感する。 (7:25)

浦山坂への道(白い道標へ)

浦山坂 竹の皮

西瓜のビーニールハウス


曇り空だが、湿度が高く、タオルで鉢巻をし、首にもタオルを巻く、夏の歩行スタイルで高台を進むと広い道に合流する。前には「郷原八幡宮」が 鎮座し、立派な家が立ち並ぶ、郷原の集落を進む。
少し進むと右に「郷原簡易水道創設記念碑」と「聖観音菩薩」の祠が祀られている。
道なりに舗装道路を淡々と進むと三叉路に「上岩原」と示した矢印の道標がある。その矢印が微妙に右に向き、すぐ左の道を示している ように見える。誰もいないので、右に曲がり、直ぐの道を左に下って行く。不安を抱きながら進むが、やはりおかしい。農家の人が おられたので、「比丘尼坂」はと尋ねるとこの上だと。下った坂が「比丘尼坂」かと期待していたが、先程の道をまっすぐ進めば 良かったのだ。今日の1回目の間違いで、15分間ロスをし、元の曲がり角に戻る。(8:00)

郷原八幡宮

郷原の集落 聖観音菩薩

上岩原への矢印!!


気を取り直して進む。陽射しが出て来て、暑さが増してくる。
しばらく進むと左に「持松塚原古墳入口」の道標を確認し、緩やかな坂道に差し掛かる。これが「比丘尼坂」だろうと思い、標識を探すが 分からない。坂を上り切ると高台となり、ビニールハウスが立ち並ぶ。植木周辺は西瓜の生産地だ改めて認識する。凄いビニールハウスの数だ。
少し進んだ道の両側に小さな塚が盛られ、右に「元広の豊前街道里数木跡」の碑が立っている。「五里木跡」だ。その横の案内板 には、「山鹿街道」といって、参勤交代の道であり、、榎の大樹が植わっていたと記されている。(8:40)

比丘尼坂

ビニールハウス

元広の豊前街道里数木跡(五里木跡)


「薩摩街道(山鹿宿〜熊本)@」の「紀行スライドショー」

少し進んだ右には大きな「JAすいか選果場」があるが、人影はなく出荷作業を見ることが出来なかった。道は下り坂なり、集落に入ると 左に酒屋さんが建っている。初めて出会う店屋だ。自動販売機で、冷たいコーヒーを買い、咽喉を潤す。酒屋の奥さんが出て来られ、 色々と話す。旧街道であること、最近は住民が少なくなったこと、上の「善行寺」には行くようにと。

善行寺

一息入れて、道角に「恵比寿像」の祠が祀られてい路地を入って行くと「善行寺」が建っている。
石段を上り、落ち着いた山門を通って境内に進む。
善行寺は嘉永6年(1853)より11年間、細川藩御用達の休憩所でした。こちらは殿様がご休憩された記録が数多く残されています。
善行寺には九曜の紋が彫られた古めかしい玄関、そして「お成りの間」があります。参勤途上の細川藩の歴代の殿様がくつろがれ た屋敷で、広間は三段の段差がついています。一番奥の高い所がお殿様の指定席で、従者は一番下の間、部屋からは美しいお庭の緑が 見渡せます。
嘉永6年(1853)8月21日、江戸城大奥へのお輿入れのため鹿児島を発たれた篤姫様は、陸路城下から薩摩街道を西に向かい、出水で薩摩に 別れを告げ、八代の海を左に眺めつつ北上し、熊本から豊前街道を北北東へと駕籠を進められました。途中山鹿にもお立ち寄りになり、 善行寺にはその記録が残されています。 (山鹿市HPより)
静かな境内に立ち、篤姫が立ち寄った史跡だと想い耽る。元の道に戻る右上に、大きな祠があるが、何を祀っているのか分からない

恵比寿像

善行寺・山門

大きな祠


静かな集落の道を進むと右に「←豊前街道 広町」と書かれた道標が立っている。この道標がなければ直進していたところだ。左の 細い道を進むと左右にビニールハウスが立ち並ぶ西瓜畑となる。
突き当たりのT字路を右折し、直ぐ左折すると坂道になり、右の草むらの中に「豊前街道」「乙貝坂 かつての難所である」の道標が 立っている。舗装されているが、勾配はきつく、足に力を入れながら下ると県道の高架下を抜け、田圃が広がる平地に下りる。
道なりに、左に、右にと曲がり、さらに左に曲がる右に朽ちかけた「豊前街道」の道標が立つ。

←豊前街道の道標

乙貝坂の道標

乙貝坂 道標


千田川の橋を渡り進むと県道119号線に当たり、横切って直進すると上り坂になる。
峠の上り口には「豊前街道(三十六のお茶屋跡)」の道標が立ち、地道の坂道になる。舗装道路歩きに飽きていたので、地道の坂道は きついが、嬉しい。木々の道には倒木もあり、その先にはきれいな竹藪の道が続く。
峠を上り切ると民家が建ち、左に「豊前街道(三十六のお茶屋跡)」の案内板が立つ。ここ三十六から千田川へ下る道は、両側が 切り通しの道となっており、加藤清正が軍事的配慮から作った凹道(おうどう)と呼ばれると。この付近付近にお茶屋があったとも 書かれている。
右足の靴の中に、石が入ったのか歩くと痛い。靴を脱ぎ、靴下も脱ぐが、石は見つからない。足の裏を見ると中指の下に小さなマメが 出来ている。今まで、マメが出来たことがないので、驚く。前回の紀行時、雨の中で靴が破れ、水浸しになった。 「中山道」「伊勢本街道」等の紀行を歩き通した愛用の靴も、底が擦り切れ、上が破れたので、今回から新しい靴にしたので、マメが 出来たのだろう。マメまの上に絆創膏を貼り、紀行を続ける。(9:25-9:30)

豊前街道(三十六のお茶屋跡)の道標

木々の道 竹藪の道

豊前街道(三十六のお茶屋跡)の案内板


少し進むと左に二つの祠が祀られ、その前に一対の灯籠が立っている。雰囲気のある祠だ。
狭い道を進むとビリールハウスの農地となり、その先は広々とした造成地が広がる。今までの旧街道は姿を消し、広い舗装道路が続いている。 道が二股になっているところは右に曲がるが不安なので、家の植木を手入れしている方に、「薩摩街道」かと尋ねるとそうだと応えて もらい、安心して進む。真っ直ぐな道の両側はビニールハウスが立ち並び、西瓜だろうと中をのぞくと、なす・ピーマンも植えられている。
少し進んだ左のビニールハウスの横に「天然記念物 一本榎跡」の標識を確認し、さらに進むと九州自動車道の跨道橋になり、下を通る 車を眺める。

雰囲気のある祠

造成地の舗装道路 ビリールハウスの道

九州自動車道 一本榎跡


跨道橋を渡り、直ぐ左折し、高速道路沿いに進むと「一里木跡(四里木跡)」の標識が立っている。熊本まで、後16kmだと思いながら、 路上に腰を下ろし、一息入れる。(10:05)
この辺りもビニールハウスが立ち並び、西瓜や野菜を作っている。作業されている方に、道を尋ねると、ビニールハウスを回るように右に進めば良いと。 教えられた道を進むと下り坂になり、林の中を通り、田圃となる。

放牛地蔵

小さな川を渡り、少し行くとため池があり、「山本地区圃場整備記念碑」が立ち、ため池の向こうに「放牛地蔵」が祀られている。 「放牛地蔵」は「中山道」でよく見られた「馬頭観音」のようなものかと思っていたが、放牛と云う僧が作ったお地蔵様だと。
この地蔵は、僧の放牛により、江戸時代中期に作られた石地蔵。熊本の鍛冶屋町に 貧しい親子がいた。貞享三年(1686)正月、折悪しく酒代もなく、怒った父はかまどにあった燃えさしの薪を投げつけたところ、 通りかかった武士の眉間にあたった。父はその場で無礼討ちとなったといわれる。
息子は自分の不幸のせいと嘆き 、出家して放牛と名を改め、三十余年の修行の後、享保七年(1722)から十年間に百体の石仏を建立して父の菩提を弔う悲願 を立てた。この地蔵は「七十四体目」で、豊前街道に当たる植木町には二体残っている。 (植木の文化財HPより)
「放牛地蔵」を間近で眺めると気品のある落ち着いた石仏だ。これから先の「薩摩街道」でも、出会えるのだろうと期待しながら、 坂道を上り、県道に向かう。(10:35)

一里木跡(四里木跡)

林から田圃道へ

放牛地蔵


県道3号線に当たり、左に進むのだが、右角にに案内板を見つけたので、見に行くと「内空閑城跡」と書かれている。 室町から戦国時代にかけて内村を中心に山本郡一帯を支配した内空閑氏の居城だったと。

蜜蜂の箱

山の麓までの道

旧街道に戻り、左の緩やかな坂道を上って行く。空は晴れて暑くなり、足のマメも段々と痛くなってくる。
坂の上の高台には、ビニールハウスが 立ち並ぶ、見慣れた光景が続く。この辺りの高台は、日当たりも良く、西瓜や野菜の促成栽培に適しているのだろう。
高台から下る道横に、養蜂の蜜蜂の箱がたくさん置かれている。どんな花の蜜を吸うのだろうと想像しながら田舎道を進む。向こうの 山の麓までの真っ直ぐな道を進むと山際に、自転車専用道路があり、そこでリュックサックを降ろして、靴を脱ぎ、一息入れる。 マメが段々と違和感を感じるようになって来た。(10:40-10:50)

味取新町宿辺り

坂道を上る角に道標が立っているのを確認し、坂を上り切ると県道に到達し、前にはJA熊本の植木総合流通センターが建っている。道横に 設置された自動販売機で、冷たいジュースを飲み、一息入れる。暑さが厳しくなって来たので、水分補給の欲求が強い。

種田山頭火の石像

舗装道路の木陰を縫いながら下ると国道3号線に当たってしまった。
左角に「瑞泉寺」の入口に「種田山頭火の石像」が建ち、 「味取観音」が祀られている。ここで、道が分からなくなり、地図を確認すると、手前のT字路を右に行かねばならないことが分かり、 戻る。
T字路を右折すると右に「味取町について」の案内板が立っている。この辺りが「味取新町宿」と思われる。
参勤交代の時の茶屋が豪商松屋(堀家)に置かれたと記されているが、史跡は見当たらない。静かな集落を進むと急な坂道となり、県道に 合流する。
合流地点には「ほたて坂入口」の道標が立っている。国道3号線の下を並行に進んでいるのだと認識する。(11:40)

坂の下の道標

ほたて坂

ほたて坂入口の道標


県道を進むと県道3号線と合流する角に「立派な石祠」が祀られている。やはり舗装道路の歩行は下からの熱で、疲れが増してくる。 その先、植木町一木の信号で、今までその下を歩いていた国道3号線と合流する。「三里木跡」があるはずだし、そろそろ昼食場所も 探さねばと、進んでいると右のドラックストア手前に「里数木(三里木がこの付近にあった)跡」白い標柱が立っている。後、熊本城まで9kmだと 思いながら、食堂を探すとラーメン屋があったので、飛び込み、冷房の冷気にホッとする。冷麺と餃子を頼み立て続けに冷たい水を飲み、 一息入れる。(12:05-12:30)

立派な石祠

三里木跡

冷麺と餃子


「薩摩街道(山鹿宿〜熊本)A」の「紀行スライドショー」

昼食時に冷たい水をしっかり飲み、タオルを水で濡らし、鉢巻と首に巻き、万全の態勢で出発する。
狭い歩道のある国道の脇には、紫陽花が咲き誇っている。もう初夏の植木町だ。植木町総合支所前の信号から左の旧街道に入って行く。 少し進んだ左に「恵比寿神社」が鎮座し、さらに進むと「植木天満宮」が鎮座し、境内には梅の実が稔り、入口には「豊前街道」の 道標と「官薩両軍緒戦之地」の標識が立っている。ここで「西南の役」の緒戦が始まったのだろう。

国道の紫陽花

植木天満宮

官薩両軍緒戦之地 道標


「植木天満宮」に沿って、左の旧街道の坂を下って行くと、左に「佛巌寺」が建っている。その先右の高台に「第十四連隊旗手 河原林 雄太少尉戦死の地」碑が立っている。ここにも「西南の役」の史跡が残っているのだ。
右上に国道3号線が通っている下の道を進んでいるのだが、この道は切通しになっており、道の両側は崖の様になっている。これは 加藤清正が軍事上の道路として作った凹状の切通し道だと。
切通しの道を進むと右の高台に「放牛地蔵」が祀られている。昼食前に見た「放牛地蔵」は74体目だったが、この地蔵は36体目のお地蔵様 だと。父の菩提を弔うため107体の地蔵を建立されたので、これからも遭遇するだろう。
少し先には県警交通機動隊の基地があり、グラウンドでは、機動隊のバイクが訓練に励んでいる。四つ角の左角に「豊前街道」の道標が立ち 、左の「明徳官軍墓地」に向かい、整然と並んだ墓石に「西南の役」の史実を改めて感じる。

佛巌寺 少尉戦死の地

放牛地蔵 切通し道

明徳官軍墓地


元の道に戻り進むと国道3号線に合流する。
陽射しがきつくなり、国道歩きは苦痛になる。古閑小屋バス停の横に「不動明王」が三体祀られている。その先左への旧街道があり、 国道から離れ、静かな旧街道を進む、癒しの歩行となる。束の間で、再び、国道に合流する。
右の「菅原神社」を確認し、進むと「緒方小四郎屋敷跡」の標識が立っている。緒方小四郎は、旧川上村助役で、放浪の歌人宗不旱を たびたび自分の屋敷に留め歓待したと。
その先右に「豊前街道二里木跡」の標識が立っている。さあ、後8kmで熊本城だと、意気新たにし、進むと「門司から180km・八代まで 50km」の標識が立ち、門司からの距離、熊本城までの距離を確認する。国道3号線で160km、実際歩いたのは200kmはあるだろうと。 とある。

不動明王祠

菅原神社 緒方小四郎屋敷跡

豊前街道二里木跡 門司から180km


左に立派な白壁の家がと塀が目に入ってくる。国道沿いの白塀の前に「四方寄(よもぎ)六地蔵付庚申塔」が祀られ、案内板に従って 国道の反対側の「御馬下の角小屋」入口に向かう。

御馬下の角小屋

管理人さんが出て来ていただき、大阪から歩いて来たと話すと以前にも千葉の方がお見えになったと話し、案内してくださる。
豊前街道を往来する島津、細川などの大名が休憩所として使用したお茶屋で、庄屋であり質屋・酒屋を営んだ、元堀内家の住宅であった。 旧北部町が寄贈を受け、現在は熊本市が記念館として一般公開している。建物は、自宅兼店舗使用部分と藩主の休憩所に使われた座敷部分 (御成の間)の二つから成っている。堀内家の古文書によると座敷部分(御成の間)は文政10年(1827)と弘化4年(1847)に 増築されたことがわかる。自宅兼店舗部分はそれ以前に造られたことになり江戸末期の町屋を表していると同時に座敷の導入過程を 知る上で貴重である。 (熊本の文化財HPより)
座敷に入るとびっくりするほどリアルな武士が座っていて、当時の雰囲気を感じさせてくれる。内部は当時のまま保存され、涼しい室内で 暑さを癒しながら見学する。(14:15-14:30)
管理人さんに、気を付けてと見送られ、表に出ると正面には「阿蘇宮」が鎮座している。

四方寄六地蔵付庚申塔

角小屋の武士

阿蘇宮


大窪2丁目交叉点で国道3号線から分かれ、直進して県道303号線に入って行く。

一里木跡

県道も車の往来が激しく、小さな「地蔵堂」が祀られていたり、切通しになっている左右が高台の道を進むと右に「一里木跡」の標識が 立っている。
いよいよ、熊本城まで一里=4kmの範囲に来たのだ。「豊前街道」のスタート地点(福岡県・熊本県境)から、道に迷って 「十一里木跡」「十里木跡」は確認できなかったが、それ以降の「里木跡」は全てタッチ出来たのは良かった。未確認の2つの「里木跡」は いつの時点にかリベンジするとしても、後4kmだと痛い足も奮い立たせる。(15:20)
山伏塚(やんぼしづか)前交叉点の少し先の右に「山伏塚」の石碑が立っている。高台に山伏塚があり、熊本城の完成後、祈祷をした 他国の山伏を城の秘密を知られたとの理由で、帰路に襲い殺したとの恐ろしい伝説がある。当時の城造りでは、よくあった話だと 納得する。
さらに進んだ左にカーブする右に「放牛地蔵」が祀られている。「五十四体」と記されているお地蔵様だ。これからも何体見られる のだろうと思いながら少し人通りが多くなった県道を進む。

県道303号線へ

山伏塚

放牛地蔵


県道を進むが、暑さでバテて来る。スーパーを見つけ、中に入り、店内を歩き回り、冷気で火照った体を冷やし、アイスキャンディーを買い求める。 真夏の「山陽道」紀行の時、友人達とコンビニ・スーパがある度に、アイスや氷を求めたことを思い出しながら、再び、暑い県道を進む。
右に「往生院」の立派な山門を見て進むと、お寺が点在している。この辺りは熊本城の寺町だったようだ。
県道に「熊本城」の絵が描かれた標識が現れ、いよいよ「熊本城」に近付いていることが分かる。熊本大学附属小学校・中学校が建ち、 下校時の学生が挨拶してくれる。左には「お地蔵様」が祀られ、人は多くなったが、旧街道の風情は残っている。
県道は緩やかに左右に曲がっている。「熊本城」に近付くにので、枡形になっているようだ。十字路の一角に「地蔵堂」らしき祠が 建っている。祠の壁には「清正のまちと街路づくり」の案内板があり、加藤清正が城造りとともに町造りにも 力を入れ、城の防衛にも活用していたことが示されている。名将・加藤清正は熊本人に愛されていることが良く分かる。

往生院

お地蔵様

地蔵堂?


県道である旧街道には、寺院が点在し、所々に旧家が残っている。右に建つ「池田屋醸造」は趣のある酒屋さんだ。街並みを楽しみながら 進むと、電柱には「京町は清正公さんのおひざもと!!」という標識が掛っている。熊本=加藤清正と慕われていることがここでも分かる 気がした。
京町一丁目の信号を右折してすぐ左折すると、「熊本城」の立派な石垣が見えて来る。いよいよ、「熊本城」に来たのだと、痛い足も 歩幅が広くなる。新堀橋を渡ると石垣が間近にそびえ、芝生に「特別史跡・熊本城」の碑が立っている。その先には古い石碑が立ち、 よく見ると「古京町縣道起點」と読める。

池田屋醸造 清正公さんのおひざもと

熊本城の石垣

特別史跡・熊本城の碑 縣道起點


整備された城内を進むと長い立派な石垣が続く。

百關ホ垣

石垣の曲線

これが有名な「百關ホ垣」なのだ。「熊本城」には、何度も訪れたが、いつも正面から天守閣の 方に向かうので、この辺りは初めてだ。高さは約五間、長さ百一間だと。「大阪城」の石垣も大きく立派だが、長さではこの「百關ホ垣」には 及ばないのではと思ったが?
石垣に沿って進むと、重なり合った石垣の曲線が美しい。今までの疲れが飛んで行くような爽快な気分で、城内の緑の道をゴールに向かって進む。
城内のルートをどのように進むかと考えたが、「二の丸広場」は訪れているので石垣に沿ってぐるっと廻ることにする。 道なりに進むとを少し間違ったようだが、道なりに進み、ゴールの「札の辻」に到達する。目的の「里程元標跡」を探すと木立の中に 「新一丁目門 札の辻跡」の石碑と「里程元標跡」の案内板が立っている。「豊前街道」到達だ!!(16:35)
「札の辻」の後ろには、美しい庭園が広がり、暑い中、子供たちが遊んでいる。案内板が立っているので確認すると「新一丁目御門跡」と示され、 西向きに築城された熊本城の正面登城口に当たっていたと。
この「札の辻」を起点として、豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数が測られ、一里毎に榎を植えて里数木と称していたと。「豊前街道」は ここから、福岡県境まで11里あり、今回、それを踏破し、「薩摩街道」に進むことになるのだ。リュックを放り出して、しばし、踏破した満足感に 浸り、一息入れる。(16:35-16:50)

札の辻跡

新一丁目御門跡


「薩摩街道(山鹿宿〜熊本)B」の「紀行スライドショー」

「豊前街道」から「薩摩街道」に進む。
「熊本城」の天守閣を眺めようとも思ったが、何度も行っているのと、足のマメが痛いので、そのまま進むことにした次第だ。熊本のホテルは 「薩摩街道」の長六橋近くの法華クラブなので、そこまでは行こうと重い腰を上げて進む。
少し迷いながら、突き当たりの一新幼稚園を探し、右折する。角には「御客屋・会輔堂跡」の案内板が立ち、藩の迎賓館で、坂本龍馬や勝海舟が 宿泊したこと、明治天皇が西郷隆盛らを従えて宿泊されたと。
直ぐ左折すると市電が通る広い道に出る。市電が走り、広島以来の市電を眺めながら、のんびりとした気持ちで進む。市電は左折して進むが、 旧街道は直進すると明八橋に至る。その途中には「新三丁名御門跡」の案内板が立ち、暮れ六つ(午後6時))に閉ざされる櫓門があり、日向街道 ・薩摩街道の要衝で、城下町の出入口であり、「明八橋」が新町と古町の境界となっていたと。
「明八橋」は眼鏡橋として、古いまま残っており、趣がある。

一新幼稚園

市電が通る道

明八橋 説明


新町が商人の町で「明八橋」を渡った古町は寺院や町屋が多くなる。橋を渡って進むと突き当たりには古い趣のある町屋が建ち、左折して 古町の街並みを楽しみながら進む。
通りは広いが、左右の建屋には古く趣のある家が多く建ち、昔の面影が残っている。左にはレンガ造りの防火壁を持つ「西村邸」は景観重要建造物に 認定されているそうだ。新しいビルの中に旧家が点在する街並みを進み、交叉点手前の道を右折して、白川方面に向かう。

古い趣のある町屋

西村邸

古町の街並み 旧家


白川の堤防に当たり、その先の「長六橋」を確認し、本日の宿泊地である法華クラブに向かう。 直ぐ近くなので、街道沿いの旅籠のような感じだ。 「豊前街道」を踏破し、「薩摩街道」への一歩を踏み出した満足感の下、チェックインする。歩行歩数は54700歩と5万歩を久しぶりに超えた。(17:20)

長六橋

このホテルは大浴場があるので、直ぐに風呂に行き、汗臭い体を洗い流し、湯船で足腰をマッサージする。マメの痛みで、筋肉の疲れ・痛みは少なく、 人間の体は不思議なものだと思う。一番辛いことがあると、その次の辛さは軽減されるのだ。
足の裏を見ると初めは小さかったマメは右中指の下に親指大の大きさに成長している。痛いはずだ。風呂上りに、湿布薬を足腰に塗り、明日への 備えをし、マメをつぶそうとするが、足の裏の皮は厚く、針がないと無理なので、このまま置いておくことにし、フロントで紹介してもらった近くの 居酒屋に向かう。
雰囲気のある居酒屋のカウンターで、ビールで乾杯する。美味しい!! やはり、熊本に来ると馬刺しだと注文し、親父の勧めで米焼酎で味わう。 知らない土地でメニューに知らない名前があると注文することにしている。「○○天婦羅」とあるので、何かと尋ねると地元で捕れるエビの種類で 今が旬だと。○○の名前をメモしていたが、失い、正確な名前は失念したがシャコエビに似たもので、美味しい。大きいエビが3匹揚げられ、食べきれない ので、横に座っている若い男性に1匹手伝ってもらい、会話を弾ませる。
尼崎から出張で熊本に来ているとのことで、関西同士の仲なので、仕事のことや旅のことを楽しく話し、アット云う間に時間が経ち、またの機会にと お別れしてホテルに戻り、ぐっすりと眠る。
熊本に到達したこと、知らない方と楽しく話せたことに満足し、バタンキューだ。明日も天気であれと。

「薩摩街道(山鹿宿〜熊本)C」の「紀行スライドショー」





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