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○ 「薩摩街道No4」見聞録(山鹿〜熊本)・(距離 59.0km(今回)/ 222.5km(累計))

  3.「薩摩街道」(熊本〜宇土・15.5km) 2013.05.30. 6:50〜12:30 曇り後雨


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「熊本〜宇土・行程MAP」

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6時前までぐっすりと眠った。やはり疲れていたのだろう。外を見るとどんよりと曇り空だ。天気予報では、夕方から雨が降ると。歩いている間が 大丈夫だと良いが、山鹿温泉の旅館に傘を忘れてきたので、雨具はレインウェアだけで、着替えるのは面倒だ。
今まで1泊2日の紀行だったが、今回初めての2泊3日で、疲れが心配だったが、 足腰の痛みや疲れはなく、足の裏のマメが少し痛い。水膨れしているが、破れそうにないので、このまま歩こうと。昨夜の居酒屋で、握って もらったおにぎりを食べ、出発の準備をする。
6時50分、「薩摩街道」紀行に出発する。ホテルの従業員が見送ってくれ、昨日の旧街道に戻ろうとすると、市電の停留所はあちらですよと。いや 歩いて行くと云うと驚いて、気を付けてと見送ってくれる。
昨日、手前まで行った国道3号線が通る「長六橋」を渡る。下には確か、昨年大水害を起こした白川がゆっくりと流れている。橋を渡って右折し、 2つ目の道を左折する。その角の堤防の下には「向栄尋常小学校跡」の石碑が立っている。少し進むと県道22号線に当たり、横切って進むと 右の空き地前に「薩摩屋敷跡」の標識が立っている。ここに薩摩藩主が参勤交代の途中休息等に立ち寄ったので「薩摩屋敷」が建っていたのだと。 「豊前街道」では「西南の役」以外の薩摩の名前はなかったが、「薩摩街道」に入るとすぐに「薩摩屋敷」が現れ、さすがと思う。
直ぐに国道3号線に当たり、国道を進み、次の筋を右折して進む。右に「地蔵堂」が祀られ、その中の一体が「放牛地蔵」だと。四十三体目の 「放牛地蔵」で、昨日以来、方々に祀られているのに感心する。

長六橋 向栄尋常小学校跡

薩摩屋敷跡

地蔵堂


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「地蔵堂」から左折し、静かな旧街道を進む。

薩摩街道一里木跡

人通りのない道を進んでいると昨日のマメが少し痛くなってくる。急がないでゆっくりと進む。
右に「専念寺」が建ち、その先には「地蔵尊」の祠がが祀られ、その先の手前にも「地蔵の祠」が祀られている。旧街道の雰囲気が残る 道は国道3号線に合流する。
しばらく国道歩きとなり、熊本県民テレビの先から左の旧街道に入る。すぐに国道3号線に当たり、横断して旧街道を進む。国道3号線を縫うように 進んでいるのだ。
二股を左に進むと水路沿いの道になり、JR豊肥本線の踏切を渡り、右の水路沿いの道を淡々と進む。
日吉保育園を右に曲がり、道なりに 進んでいると右の水路に架かる家の橋の横に「薩摩街道一里木跡」の石碑が立っている。昨日の「札の辻」から一里歩いた初めての 「一里木跡」だ。
「豊前街道」の「里木跡」は木製の碑だったが、「薩摩街道」は石碑になっている。これからはどうなっているのかも楽しみだ。史料によると 熊本県と鹿児島県の境までは「二十四木跡」まであるそうなので、まだ、23x4km=92kmもあるのだ。先は長い!!(7:50)

地蔵尊の祠

地蔵の祠

JR豊肥本線の踏切


旧街道は再び国道3号線に合流し、平田交叉点の歩道橋を渡る。広い道にはたくさんの車が行き交い、向こうには九州新幹線が望める。交叉点を渡り、 右折し、直ぐの道を左折する。
道なりの旧街道を進み、広い県道51号線を横切ると右に九州新幹線の高架と鹿児島本線が並行する道になり、左には「松之本神社」が 鎮座する。
旧街道は新幹線から離れて左に曲がって行き、少し賑やかな街並みの中に進む。旧街道から少し離れた右側のこんもりとした森に鎮座する 「河尻神社」に参拝する。境内には、樹齢800年のヒイラギの御神木が植わっている。本殿に、今日の安全を祈願する。落ち着いた立派な神社だ。

平田交叉点の歩道橋 九州新幹線の高架

松之本神社

河尻神社 御神木


旧街道に戻り、次の交叉点を右折し、小川を渡って、川沿いの細い道を進む。右に「椎田薬師堂」が建ち、木彫の薬師如来立像が祀られている。 薬師堂の前には、「六地蔵」も祀られ、旧街道の風情が残る所だ。
小川沿いに進み、直進すると民家に当たり、左折して広い道を右折する。道なり進むと川があり、その手前に「地蔵堂」が祀られている。川を 渡り少し進むと県道50号線に合流する。
すぐ先に、川尻駅入口の交叉点があり、「川尻宿」に近付いたことが分かる。県道沿いには「遍照寺」や 工芸店が立ち並び、「川尻宿」の趣が感じられる。

椎田薬師堂 六地蔵

地蔵堂

川尻宿の街並み


くまもと工芸会館

川尻界隈マップ

旧街道沿いには古い店や「西教寺」等の寺院が建ち、道幅が広いのが難点だが、宿場だと分かる建物が点在しているのは嬉しい。
。右に「くまもと工芸会館」が 建ち、前には「川尻界隈マップ」が掲げられているので、眺めると旧街道の右側に「川尻宿」の史跡が集まっているようなので、見学に行く。
マップに従って、少し進んだ左に建つ肥後銀行の手前の道を右折し、小学校の方に向かうと、その手前に小川があり、「高札橋」が架かっている。 この辺りに「高札場」があり、また、「二里木跡」もあったと。
橋を渡り、如何にも 旧街道と思われるようなウネウネと続く細い道を進むと川尻小学校があり、その先左に「木村政彦を育てた道場跡」と書かれた標柱が立っている。 プロレス黎明期に力道山と活躍したレスラーの名前を、こんな所で見るとはと。
少し進んだ小川の中には、何かわからないがボンボリのようなものが飾られてる。横の案内板には、この無田川は、熊本へ米や諸物資を高瀬船で運ぶの に用いられていたと。

高札橋

ウネウネと続く細い道 木村政彦道場跡

無田川


趣のある細い道の左に「本陣跡(小路町の待賓館跡)」の碑が立っている。この辺りが「川尻宿」の中心だったのだ。
真っ直ぐ進むと加勢川の堤防に 突き当たり、川沿いに下流方面に進む。堤防の護岸構造は、昔の船着き場の風情を残しながら、強固なものにしているようだ。

船着き場跡の燈籠 恵比寿様

川沿いを下って 行くと城のような石垣が建ち、その先に燈籠が立つ。港町として栄えた「川尻宿」を象徴するような景観を堪能する。
江戸時代、熊本の物流の拠点として栄えた「川尻宿」一帯は、川尻刃物や川尻六菓匠に代表される和菓子、熊本の酒「赤酒」を造る酒蔵など 今なお古くからの伝統文化を継承する古い町並みが残っています。
また、多くの土木事業を行った加藤清正の事業の跡等の歴史的遺産が数多くあります。
船荷の積み下ろしのために設けられた船着場。 積荷は、上方への年貢米や農産物、上方からの日用雑貨など。 当時船着場前は 6棟あった「御蔵」に保管された。 明治初期の記録では年間1,000艘を超える商船が行き来したとされる。潮の干満に影響されない、 13段の石段が約150mにわたり造られている。(熊本市観光協会HPより)

旧船着場跡上の広場には「恵比寿様」が祀られ、当時の様子を示す説明版が立っている。
川沿いから離れ、下の道を進むと立派な今村邸の前に西南戦争の「川尻薩軍本営跡」の碑が立っている。西南戦争の史跡も、この辺りは薩摩軍 関連の史跡が多くなってる。

本陣跡

堤防の護岸構造

川尻薩軍本営跡


旧街道に戻るべく戻る途中に趣のある「瑞鷹酒造」が建ち、宿場のの雰囲気を改めて感じる。旧街道の県道に戻り、加勢川に向かうと左に 「旧薩摩街道」の道標に従って、左の小道に入る。直ぐ、加勢川に当たり、右折して県道に戻る。
橋の手前右側の堤防に祠が祀られているので、チェックすると「正中島弁財天」が祀られ、その由来が示されている。加勢川を 新町橋で渡りながら、先程見学した船着場を眺める。「川尻宿」は史跡も残り、風情ある宿場だった。(9:30)

瑞鷹酒造

旧薩摩街道の道標

正中島弁財天の祠


「薩摩街道(熊本〜宇土)@」の「紀行スライドショー」

新町橋を渡った所に「地蔵堂」が建ち、地蔵尊がたくさん祀られている真中は87体目の「放牛地蔵」だと。今日、初めての「放牛地蔵」に お参りして、左折し、先程の旧街道の対岸の道に向かい、右折して進む。
道なりに進むとT字路の角に「勅願所大慈禅寺道」の道標が立っている。静かな道を進むが空模様が段々と暗くなり、そろそろ雨が降りそうだ。 足のマメも痛くなり始め、前途多難だ。不安を抱きながら進むと国道3号線に当たり、長い歩道橋で渡ると緑川の堤防歩きとなる。
温い風に当たりながら堤防を下流に歩むと「大神宮」が鎮座する。その先の緑川橋で広い緑川を渡る。

放牛地蔵 旧街道

大神宮 勅願所大慈禅寺道

広い緑川


緑川橋を渡り、堤防を降り、右折して国道3号線の下をくぐって堤防に上って、緑川を下流に進む。少し先の新幹線の下をくぐり、鹿児島本線の 踏切を渡って、広い緑川を眺めながら歩み、左下に鎮座する「若宮神社」の先で堤を下りて左折する。
左右に曲がりくねった旧街道の周辺には麦畑が広がる。黄色く稔った麦の穂が美しい。「麦秋」と云う言葉が似合う光景だ。遥か向こうに新幹線の高架を 眺めて進む。国町橋の手前には地蔵尊が祀られ、その先の右の志々水公民館の一つ先の十字路右角に「三里木跡」の石碑が立っている。ここも 石碑で、熊本以北の木碑ではない。(10:35)。

堤防を降りて旧街道へ

麦秋 国町橋

三里木跡


雨がポツポツ降り出してきた。麦畑が広がる旧街道は、区画整理されていて味気ない。
左に新幹線の高架が見えるが、少しづつ離れていくようだ。小さな川を三拾町橋で渡り、麦刈り用のトラクターに麦が何に用いられているかを聞こうと するが、エンジン音で停まってくれない。食用・飼料・焼酎・ビール・味噌・・何だろう?
旧街道は突き当たり、左だろうと思ったが、近くの方に確認すると「西安寺」は右に曲がって行けば良いと。納得は行かなかったが、教えられた 右に進むが、新幹線から離れて行く。大分歩いた後、人に出会ったので、再び訪ねると、ここではなく、ずっと向こうだと。
初めの聞き方が悪かったのか、反対方向に来てしまったのだ。元に戻るのを諦め、新幹線の方向に道を縫いながら進むと、小さな川があり、 その向こう側にお寺らしき屋根が見えるので、多分、あれが「西安寺」だと進む。小川を渡り、お寺の正面に来て「西安寺」であることを 確認し、ホットする。約20分迷ったのだ。
境内には、地蔵尊が立ち並び、一番手前の地蔵尊が83体目の「放牛地蔵」だと。雨は止んだが、また降りそうだ。水道を借りて、顔を洗い、 タオルを水で冷やし、鉢巻と首に掛け、一息入れる。(11:20-11:30)

麦畑が広がる旧街道

西安寺

放牛地蔵(一番手前)


「西安寺」の前の川を渡り、左折して川沿いに進み、道なりに川から離れて右に進むとやがて、広い道に合流する。雨が少し激しく降り出した。 本来なら、傘を差して進めば支障ないほどだが、傘を山鹿温泉に忘れたので、レインスーツを出すしか方法がない。面倒なので、濡れながら進む ことにする。
すぐ先に「宇土市本町通」の大きな看板がある道の左側に旧街道らしい道が通じている。少し先の右に公園があり、その前に小洒落た 「薩摩街道」の道標が立っている。この様式の道標は初めてだ。公園の中には「城之浦天満宮」が鎮座している。
公園の木の下で、雨宿りをしながら、今後の行程を検討する。ここからJR宇土駅で終えるのか、次のJR松橋駅まで進むのかと?
宇土駅までは10分程度、松橋駅までは約5kmあり、雨の中、足のマメの状況を考えると2時間近くかかりそうだ。本来なら、松橋駅まで進みたいが、 傘がなく、レインウェアに着替えての歩行は、足の状態からも厳しいと考え、ここで中断して、JR宇土駅に向かうことにする。 駅前までの道も人通りが少なく、何処かで昼食と探すが、見当たらない。JR宇土駅は 新幹線と並行しているので、駅舎も新しく立派なものだ。駅前にラーメン屋を見つけ、雨に濡れたシャツを拭いて、冷麺を食べ、一息入れる。 (12:30-13:00)

薩摩街道の道標

城之浦天満宮

JR宇土駅


「薩摩街道((熊本〜宇土)A」の「紀行スライドショー」

雨は止みそうもないので、外を歩くことは断念せざるを得ない。
JR宇土駅で列車を待つ間に、昔、「青春18きっぷ」で三角線で天草への入口である三角駅に向かったことを思い出し、三角行に乗り、車窓から 雨に煙る三角半島の景観を眺め、その列車で熊本まで、居眠りをしながら戻る。
熊本駅に着いても、まだ雨は降っているので駅の構内をブラブラし、安い居酒屋を見付けて、中途半端な今日の紀行の反省の乾杯をする。団体客が 大いに盛り上がってるのを見ながら、時間を潰す。本屋で立ち読みをしたりして、18時45分発のバスを待つ。
復路のバスは往路とは違い、前回まで使っていたバスで、値段は少し高い4列シートだ。しかし、やって来たのは3列シートで、しかも、久留米を経由しない 便となった。ゆっくりと眠りながら、7時過ぎに大阪駅に到着し、8時過ぎに帰宅する。夜行バスにも慣れて、良く眠れるのは有難い。

今回は初めての2泊3日の紀行だったが、初日と3日目は雨に合い、本来の街道の息吹を味わえなかったのは残念だった。3日目は、予定の 行程を達成出来なかったのは、悔しい限りだった。
熊本県の史跡は北と南で趣が異なる。西南の役も北は官軍主体、南は薩摩軍と面白い。自然の道も多く、天気の良い日に、もう一度歩きたい気持ちだ。 山鹿温泉では、旧友と再会し、美味しいお酒を楽しめたことは、紀行以上の良き出来事だった。
次回は、1泊2日で宇土から八代を経由して日奈久辺りまで進みたい。その先の「薩摩街道」最大の難所と云われる三太郎峠(赤松太郎・佐敷太郎 ・津奈木太郎)は夏の間はマムシも出るそうなので、パスして、8月末の 単身赴任していた会社のビァパーティーに合わせて、水俣辺りから出水に進みたいものだ。



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(工事中)




    
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