[三条大橋〜大津宿][大津宿〜草津宿]


○ 「中山道No1」見聞録 

1−2.大津宿〜草津宿・(14.4km)
 2008.04.25 11:30〜17:10 晴れ


中山道全行程.Map
「大津宿〜草津宿・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

「札の辻」周辺を見渡しても、「大津宿」の面影を残す所は少ないようで、東海道らしく感じる少し狭い道を 東に向かう。
所々に古い格子の家が建っているので、旧街道の雰囲気はある。旧家の向かいに「大津事件碑」が立っている。
日露戦争の13年前(1891)、ロシア皇太子ニコライが警備の警官に襲われ負傷した事件で、大国ロシアとの折衝、司法の独立等 歴史で教わったことを思い出す。(政府は死刑を要請したが、大審院院長の児島惟謙は法治主義遵守の立場から 無期懲役の判決を下し、司法の独立を守ったと)

真っ直ぐに続く旧街道の街灯の上には「旧東海道」の標識が飾られているのは嬉しい。
少し暑くなって来た古い街並みをテクテクと歩き続ける。滋賀県庁の建物を過ぎ、京阪電車の踏切を渡る。 そろそろ昼時でお腹も空いて来たが、 この通りには食堂がないので、大津警察署の横から広い道に出て、大津パルコの食堂街で昼食にする。(12:00')

大津事件碑

街灯の上の標識

街道の旧家


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

「熊野古道」紀行時は食堂がないことを前提で、弁当やおにぎりを買っていたが、この辺りは街中なので心配ないが、 街道から外れることも必要となる。(これが問題となった。)
12時40分に出発する。広い道の東にある交差点を渡り、旧東海道に出て東に進む。
次の目的地は「義仲寺」で 地図上では余り距離はない。

義仲寺 説明

人通りもない街道を進むが、「義仲寺」が見当たらない。少し先に森のような木立が 見えるので、そこまで進むと「石坐(いわい)神社」とある。
随分行き過ぎたことを認識して、見落としたはずはないのにと思いながら、元の道を戻ることにする。やっと地元の 方に出会い、尋ねると後500m程行けば良いと。
結果的には、「義仲寺」は昼食を食べに外れた道と戻った道の間にあったのだ。往復1km以上のロスとなった。

義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(1154-84)を ここに葬ったことに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。
周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言に よってここに墓が立てられたと言われています。
境内には、芭蕉の辞世の句である「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句碑が立ち、偉大な俳跡として多くの 人が訪れます。(滋賀県観光案内HPより)

200円の拝観料を払って境内に入る。緑が溢れる小さな空間に「木曽義仲」「松尾芭蕉」の墓が背中合わせに祀られ、 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠まれた句があると。
「芭蕉」研究の方にとっては貴重な史跡が保存されているお寺なのだ。境内にはファンと見られる方が句碑を一つ一つ熱心に 見ておられた。
「木曽義仲」の愛妾「巴御前」の供養塚も義仲の墓の横に祀られていることも知り、鎌倉時代・江戸時代の歴史の1ページを 思い出させてくれる見聞となった。
ゆっくりと見学したかったが、時間のロスもあったので、慌ただしく次に進む。(13:20')

松尾芭蕉の墓

木曽義仲の墓

巴塚 説明


先程戻った道をもう一度東に進む。陽射しがきつくなって来たので、疲れが増す感じだ。
「石坐(いわい)神社」まで戻り、気分新たにスタートする。少し進んだ辺りから「膳所城」の城下町になるので、「桝形」と云われる 入れ組んだ道になる。城の防衛上、直線の道を直角に曲げ、敵の侵入を防ぐ道造りなのだ。
酒屋の角、石仏の角を曲がり、「桝形」の道を進むと直線の真っ直ぐな道になり、古い街並みを眺めながら、 左に琵琶湖側に「膳所城跡公園」を確認して進む。

旧家の前には「ばったん床几」と呼ばれる折り畳み式の長椅子で、当時は旅人の休憩用に用いたり、商品の販売に使われた ようで、懐かしい感じのする代物だ。
中ノ庄駅近くの和菓子屋で左に曲がり、歯科で右に真っ直ぐ進むと瓦ケ浜駅の横に出て、踏切を渡り、直ぐの辻を 左に進み再び踏切を渡ると。
広い道の角に「膳所城勢多口総門跡」の碑を確認して道なりに進む。工場地帯に入り、日本電気硝子や現役時代訪れたこと もある、日本電気の工場に沿ってJR石山駅に向かう。
石山駅に行かずに真っ直ぐ進むことも出来るが、ガイドブックでは石山駅経由とあるので、駅に立ち寄り一息入れる。(14:15')

道角の石仏

ばったん床几

膳所城勢多口総門跡の碑


さあ、これから「草津宿」まで進もうと瀬田川に向かって歩き始める。

瀬田の唐橋 説明

瀬田川は学生時代、ボート部の合宿で何度か訪れたことがある。1年生の時はエッセン当番として、先輩の食事の用意を一日中していた。
当時も牛肉は高くて、手が出ず鯨肉が主流だ。鯨テキはよくした。鯨肉・ニンニク・ネギ・鯨肉・ニンニク・ネギを順番に重ねて仕込み、練習の 終了に合わせて焼き上げる。辺り一面、強烈な匂い(?)が漂う。
厳しくもあり、楽しい時代だった。休み時間は貸本屋で白土三平著の「忍者武芸帳」を 読み回した思い出がある。あの漫画はどうなっているのだろう。

「瀬田の唐橋」に到着する。
懐かしい橋だ。練習試合で訪れた時、当時コックス(舵手)をしていたが、橋ケタの間隔が狭いため、オールが当たらないか心配で、 ボートを漕ぎ抜けるのに苦労したことを思い出す。JRの鉄橋から、石山寺の下まで2マイルのレースだった。

渋滞している車を横目に橋の真ん中に行き、琵琶湖方面を眺める。今日はボートの練習はしていないようだ。新学期が 始まり、部員勧誘や授業で忙しく、夕方からの練習だろうと当時を思い出す。

「瀬田の唐橋」を渡り、直進して神領の交差点があり、直進すると「建部大社」の大きな鳥居が立ち、参道が続いて いるが、今回は参拝をパスして左折して進む。交差点辺りに道標があるとのことで、探すと石屋が作った新しいもので、 意味がない。

瀬田の唐橋からの眺め

建部大社の鳥居

新しい道標


左折して直進して行くと赤い欄干の橋があり、渡って右折して進むが、これが間違いだった。正確には橋を渡って少し 進んで右折するのだ。
間違った道を進んで行くと様子が違うことに気付き、戻ろうかと思案するが、方向的には迂回して行けば東海道に 当たると思い、細い道を進むとそれらしき道に辿り着く。しかし、誰もいないので尋ねることが出来ず、東海道らしき 道を分岐点の方に戻る。
結局、正規に曲がる所まで人に会うこともなく戻り、再び同じ道を「草津宿」目指して進むことになる。30分以上の ロスタイムとなった。
よく見ると曲がり角には、地図入りの案内板が設置されている。これに注意すれば問題なく進めることが分かり、 その後は曲がり角で案内板を探し、確認することで間違いなく進むことが出来た。

道なりに進むと広い道との交差点に立派な「一里塚」が立つ。古い史跡が残っているのは嬉しい気分で歩を進めると 右側に月輪池が見え、拡幅された広い道角に新しい「東海道立場跡」の碑が立っている。
古い東海道を分断するように広い道が造られて行くので、史跡を残すのは大変なことが分かる。広い道を横断して 進むと月輪寺の前に「新田開発発祥之地」の碑が立つ。(16:00')

地図入りの案内板

一里塚 説明

東海道立場跡の碑


久し振りの長距離歩行で少し足の運びが遅くなって来た。「熊野古道」歩行時も健脚の方の旅行記を読むとその速さに 驚くことが多い。スピードは遅く、間違った道に踏み入れることも多いので、そろそろ疲れが蓄積して来たのだ。
所々に古い家並みが残る旧街道を歩くのは気持ちが良い。小学生の下校時間になり、楽しく話しながら帰って行く。

川を渡り、左に弁天池を見て、雰囲気のある道を進むと会社の寮と思われ庭隅に木製の常夜燈が立ち、東海道・草津宿と 書かれている。「草津宿」が近いのだ。
広い道の手前に「野路の玉川」の名水が湧く東屋が見えて来た。東屋の中で近隣の老人が談笑しておられる。断って 泉の写真を撮る。この辺りにも伏流水が湧き出すのだ。
広い道は地下道をくぐって渡り、「草津宿」への道を進む。途中、大きな家があり、その庭には「平清宗」を祀る塚が あるのには驚いた。由緒ある家なのだろう。
南草津駅に通じる広い道に当たり、交差点を迂回して小さな「上北池公園」に入る。ここに「野路一里塚」が立っている。

静かな街道

野路の玉川 説明

野路一里塚


国道1号線を渡り、左に別れる狭い道が東海道で、疲れた足を前に進める。矢倉橋を渡り「立木神社」に立ち寄る。 小さな森に囲まれた立派な神社で、石畳の参道を進み本殿に参拝する。
さあ、いよいよ「草津宿」だと気を引き締めて橋を渡り、宿場に進む。
街道沿いに「宿場まつり」の旗が立てられ、4/28-29のお祭りを盛り上げている。少し歩みが遅かったので16時40分を 過ぎている。17時に閉館になる所も多いと思い、早足で進むがスピードは出ていないようだ。

草津宿・本陣

「街道交流館」に行くと前の鎖を閉めておられる所で、本日は閉館と。
仕方なく街道を進み、「脇本陣」では喫茶店を 併設しているので、開いていたので、Mapを確保するが、脇本陣には入れなかった。
「草津宿・本陣」も閉館になっていて、正面から写真だけを写すが、内部はNG。機会を改めて訪れなければならない。
東海道五十三次のうち、江戸から52番目の宿場である草津宿。東海道と中山道の分岐・合流点でもあり、かつては100軒をこえる 旅籠が軒を連ねた要衝の地でした。
草津宿のシンボルである本陣は、現存する本陣の中で最大級の規模で、宿帳には浅野内匠頭や吉良上野介などの名も見られます。
江戸時代、本陣を頂点にさまざまな宿泊施設が集まっていた宿場。
草津宿も同様で、本陣二軒、脇本陣二軒、旅篭屋は七十軒余を有し賑わいをみせていました。 なかでも、「田中七左衛門本陣」は建物をはじめ、敷地全体で当時の面影を今に伝えています。
昭和二十四年には、「草津宿本陣」として国の史跡に指定され、多くの人を江戸の世界に誘っています。(草津宿本陣HPより)

「熊野古道」散策時は余り閉館時間を気にすることはなかったので、少しうかつであったが、以降の教訓としたい。
時間のことを考えて、急いだので他の史跡をゆっくりと見学出来なかったので、「草津宿」は改めて再訪問したい。

立木神社 説明

街道交流館 地図

草津宿・脇本陣


最終行程となる、「東海道」と「中山道」の分岐点になる「追分道標」に到着する。

追分道標 説明

高札場

天井川である草津川のトンネルの手前に堂々と「追分道標」が立っている。
トンネルをくぐって進むと「中山道」、右折して進むと「東海道」になるのだ。
「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれ、高さは392.2cmと堂々たるもので分岐点の道標にふさわしい。
その前には「高札場」が立ち、街道の要所であることがよく分かる。

いつか「東海道」を歩く時はここでお別れするのだと思いながら、草津川の下のトンネルを進む。壁面には当時の街道の様子が 壁画として描かれている。
今日の行程はここまでとして、駅に向かう途中に銭湯「草津温泉」を見つけ、疲れを癒すことにする。露天風呂は群馬の 草津温泉風に白濁した湯にしてあり、ゆっくりと足腰をマッサージし、のんびりとくつろぐ。(17:20')

「草津宿」は時間が押し詰まっていたので、バタバタと余り見学出来なかったが、三条大橋から「大津宿」を経由して「草津宿」 まで到達することが出来た。
一般的には京都発で次の「守山宿」まで行くのが普通だとすれば、当時の人は健脚だったのだ。
久し振りの街道歩きは道を間違ったりと無駄も多かったが満足出来るものだった。いつもの様に居酒屋を探して、「中山道」の 第一歩を祝して乾杯する。

JRで高槻まで直行で帰れるのは嬉しい。20時頃、無事帰宅する。
今回の歩行は出発から帰宅まで56542歩と5万歩を越えた。疲れたが、「熊野古道」で5万歩を越えた時は初夏で暑くて バテバテになったことを考えれば、今回は楽だった。
三条大橋から「草津宿」までは26.2kmで、全行程532.8kmの5%を歩いたことになった。


「大津宿〜草津宿」の「紀行スライドショー」


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