[草津宿〜守山宿][守山宿〜武佐宿][武佐宿〜五箇荘]


○ 「中山道No2」見聞録(草津宿〜五箇荘)・(距離 25.6km(今回)/ 51.8km(累計)/ 481.2km(残距離)

前回
今回
残距離


2−1.草津宿〜守山宿・(5.9km) 2008.05.07 7:30〜9:00 晴れ


中山道全行程.Map
「草津宿〜守山宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

今年のGWは天候に恵まれ、近郊を友人夫婦や一人で散策した。
「中山道見聞録」の初回編集も終えたので、早速第二回目散策に繰り出した。天気も上々で、早めの朝食を済ませ、 自転車がパンクし、チューブ交換しなくてはならないので、JR高槻まで歩いて行く。駅まで3000歩。
前回の「草津宿」まで行き、今日は「武佐宿」か調子が良ければ「愛知川宿」まで行こうと計画する。

草津駅の観光用道標

京都からは前回歩いたコースを車窓からの景色を眺め、思い出しながら進む。
瀬田川を越えて草津に到着する。「熊野古道」紀行時は1番の電車で、ここで乗換え、草津線で柘植へ進み、「伊勢路」の 奥まで行ったことを思い出す。往復10数時間で、歩くのは2時間程のことはよくあった。
「中山道」も今は乗車時間は少ないが、段々と長くなって行くのだろう。

7時30分、草津駅を出発すると2階の広場に「草津宿」の観光用の道標が出迎えてくれる。「東海道・中山道」は草津の観光資源に なっているのだろう。 前回の天井川のトンネルに戻り、今回のスタート地点とする。
アーケードの横の覚善寺前に立派な「明治の追分道標」が立っている。草津川の隧道が出来た時に追分がここに移り、東海道と 中山道の分岐点になったそうだ。

まだ人通りがないアーケードを東に進む。アーケードを抜けて、きれいに舗装された道脇には自治会が「中山道」の景観を保とうと する立札が立ち、地域ぐるみでの活動が嬉しい。
「伊佐佐神社」の前を通り、高架道路を抜け、畳屋の手前の道を左折するとJRの線路をくぐる低いトンネルを通学途中の小学生と 一緒に抜ける。

明治の追分道標 拡大

伊佐佐神社

JR渋川隧道


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

JR沿いに真っ直ぐな道を進むと新しい住宅街と所々旧家が混ざり合う街道風で、交差点に「綣(へそ)」とある。現役時代の 同僚がこの近くに居られるのだと思いながら東へ。
JR栗東駅への道を通り過ぎる。栗東駅の南に新幹線新駅(南びわ湖駅)を造ることで有名になった所だ。

右側にこんもりとした森に囲まれ、大宝年間の創建と云われる「大宝神社」が祀られている。広い境内に向かい、今回の紀行の 安全を祈願する。
神社の前の公園の片隅に「芭蕉綣句碑」が「へそむらの、麦まだ青し、春のくれ」と詠まれている。村の名前を詠んだ句は 珍しいそうだ。前回の「義仲寺」に芭蕉のお墓があったので、晩年にこの辺りを訪れたのであろうか。
公園の隅に「淀領領界石」の碑がある。「従是南淀藩領」と刻まれており、近江の国には他国大名の飛び地が多かったと。(8:15')

大宝神社

芭蕉綣句碑 説明

淀領領界石


1.5車線程の真っ直ぐな道を進む。旧街道の面影はあるが、まだ雰囲気は感じられない。淡々と歩いていると左に「閻魔(えんま)堂」 が建つ。

今宿一里塚 説明

遣隋使を務めた小野妹子の子孫である、平安時代前期の学者・小野篁(たかむら)が閻魔王を祀ったと伝えられ、この辺りの町名は 焔魔堂となっている。
少し進んだ右側に「住蓮房母公墓」の表示があるので、家の中に入って行くとお墓が祀られている。鎌倉時代前期の僧侶で法然の弟子で 後鳥羽上皇の怒りに触れ処刑された住蓮房の母がこの地の池に身を投げて亡くなった地とのことだ。
余り歴史上でも知らない史跡が現れ、それを調べるのはなかなか面白い。

右側にこんもりととした土盛りの「今宿一里塚」が堂々と立っている。
JR守山駅の西に、ポツンと1本、大きな榎(えのき)の木が立っています。これが、一里塚です。
一里塚とは、江戸時代、主要な街道沿いに一里(約4km)ごとに道の両側に土を盛り、植えられた木のことで、旅人の距離の目安になりました。 現在、それらの木はほとんどなくなっており、このように現存するのは全国でも極めて珍しいものです。
もともとは道の反対側にもう1本ありましたが、今は、写真のものだけが保存されており、県指定の文化財です。(滋賀県観光案内HPより)


当時の街道は建屋も少なかったことだろうから、遠くからこの見事な大木を見つけ、行程の目安にしていたことだろう。
「中山道」に残る唯一の当時の一里塚とのことで、これからの一里塚がどの様なのか楽しみだ。
今宿の交差点を渡ると商店の前に小さな「中山道・守山宿」と書かれた行燈風の看板が飾られている。いよいよ「守山宿」に 入ったのだ。
落ち着いた古い街並みを過ぎると、「瀬田の唐橋」の古材を使って架け替えられた「土橋」の横の旧家の前には「守山宿」の 街灯が立ち、「宿場町」の雰囲気が出ている。「守山宿」はなかなかのものだ。

閻魔堂

守山宿の行燈風の看板

土橋と街灯


土橋を渡るとすぐに「東門院」の大きな提灯と仁王門が立つ。

東門院・仁王門

石造五重塔・他 説明

比叡山の東門として建立したのが始まりといわれている天台宗の寺。
寺名もそこに由来していますが、比叡山を守るという意味で守山寺 とも呼ばれました。江戸時代には、朝鮮人街道を通る特使の宿舎になりました。

江戸時代の建築といわれる本堂・庫裏・仁王門・護摩堂などが立ち並ぶ立派な寺でしたが、昭和61年(1986)、本堂・庫裏・諸仏が 惜しくも焼失しました。
焼失を逃れた護摩堂本尊の不動明王坐像や、境内の石造五重塔や石造宝塔、石造宝篋印塔など寺の 歴史を物語る美術品が多く残っており、そのほとんどが重要文化財や重要美術品に指定されています。(滋賀県観光案内HPより)

新緑の木々に囲まれた境内で一息入れる。(8:50')

道なりに曲がって進むと「守山宿」の中心部に至る。
道角に「中山道・道標」が立つ。1744年作の当時の道標で、貫禄充分だ。「中山道・美濃路」の文字も初めて出て来た。 もう少し進めば「近江路」から「美濃路」となるのだと歩を進める。
「守山宿・街道文化交流館」の古い建屋があるので、入るとご主人がデイサービスに出る所で、人形の写真を写しただけで退出せざるを 得なかった。交流館も世代交代の時が来ているのだろう。
「守山宿・本陣跡」に当時の旅籠「甲(かぶと)屋」跡の碑と古井戸跡の標識が立つ。「甲屋」は謡曲「望月」の舞台にもなった そうで、この辺りが「守山宿」の中心だったようだ。

落ち着いた街並みには「造り酒屋」の杉玉と古い建屋が印象的で、「守山宿」の雰囲気を味わい次の「武佐宿」に向かう。(9:20')

中山道・美濃路の道標

守山宿・本陣跡 説明@... 説明A

造り酒屋




「草津宿〜守山宿」の「紀行スライドショー」


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