[草津宿〜守山宿][守山宿〜武佐宿][武佐宿〜五箇荘]


○ 「中山道No2」見聞録(草津宿〜五箇荘)・(距離 25.6km(今回)/ 51.8km(累計)/ 481.2km(残距離)

2−2.守山宿〜武佐宿・(13.7km) 2008.05.07 9:00〜14:40 晴れ


中山道全行程.Map
「守山宿〜武佐宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

「守山宿」を出て、「武佐(むさ)宿」へ向かう。
「守山宿」の外れの「高札跡」を過ぎると野洲川の堤に当たり、野洲川橋を渡る。水量が多いので川の瀬を渡るのは難しい。 古人にとって、川越えは難所であったことがよく分かる。橋の上からの眺めは解放感があり、新幹線の走行を間近に見る。
橋を渡った所のフェンスの中に「芭蕉・晒句碑」が立っている。フェンスの中に手を入れて写真をパチリ。「野洲川や、身ハ安らかぬ、 さらしうす」と記されている。この街道には芭蕉の句碑が多いのが特色だ。

堤を下り、新幹線の高架下を抜けて進む。立派な旧家が建つ街道の雰囲気を味わいながら歩くと「蓮照寺」が角にあり、 その境内にこれから行く「朝鮮人街道」との分岐点にあった道標が移築されている。
向かいの「唯心寺」の屋根は藁葺で珍しい光景だ。

野洲川

芭蕉・晒句碑 説明

蓮照寺 道標


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

交差点の角に東屋があり、「背くらべ地蔵」が祀られている。鎌倉時代に造られた大きな地蔵と小さな地蔵が並べられ、 子供の成長を願ってのお地蔵さまだと。東屋のベンチで一息入れる。(9:50')
しばらく進むと道が三叉路になっている。ここが先程の道標が設置されていた「中山道」(右側)と「朝鮮人街道」(左側)の 分岐点で、矢印で示している。

背くらべ地蔵 説明

朝鮮人街道の分岐点 道標

この地点で別れて、鳥居本で再び「中山道」に合流するのだ。
江戸時代は、一般的に鎖国の時代と思われていますが、朝鮮と琉球とは、信を交わす外交のある国「通信の国」と 定めていました。
その朝鮮からの使節「朝鮮通信使」が通った道が「朝鮮人街道」と呼ばれ、今もその名を残し ています。
通信使の一行はプサンを出発し、江戸に到着するまでの約二千`の行程を往復約一年もの歳月をかけたと言われ ております。
この長い道のりの中で「朝鮮人街道」と呼ばれているのは、現在の野洲から安土・八幡を経て 彦根市鳥居本までの四十`に限られています。(滋賀県観光協会HPより)


三叉路を「中山道」の方向に進むと野洲小学校があり、そこに新しい道標が立ち、「朝鮮人街道」についても説明がある。
静かな街並みの旧家の板塀に、懐かしい 「浪花千栄子」さんのオロナイン軟膏の看板が掲げられている。旧街道ならではの 古き良き時代の名残だ。
藁葺きの旧家も点在する街道を歩いていると、人との出会いもなく落ち着いた雰囲気が段々と実感として湧いて来る。 人気のない道を進むと左手に数個の甕を伏せて置く家があり、説明文を読むと「藍染」の店だそうだ。街道筋には 色々な店が存在することも楽しい見聞だ。

新しい道標 説明

懐かしい看板

藍染店 説明


狭い道になり、新幹線と並行に進むと「銅鐸の里桜生」の立看板があり、この付近の大岩山から銅鐸が出土されたと。 道なりに進むと「子安地蔵」の祠があり、中は見えないが平安時代の秘仏で安産祈願の信仰が深いと。
田植えに精を出すのどかな光景を見ながら進むと「篠原神社」の小さな森があるので、木陰で一休みする。 3時間歩き、2万歩を越えたので、少し疲れが出て来た。お茶を飲み、クッキーを食べ、屈伸運動をする。(10:45')

ここから天井川の家棟川を隧道でくぐるとガイドブックに書かれているが、それらしきトンネルは見当たらない。 仕方なく、新しい橋を渡り、誰かに聞こうとするが誰もいない。しばらく進むと老人が車を洗っていたので 尋ねると、昨年までは隧道があったが、川底を掘り下げ、橋を架けたので、潰したと。
「中山道」も年々変化していることを認識する。これからの行程でも変更はあるだろう。

今までは車は通るが、狭い旧街道を歩いて来た。ここからは国道8号線に合流して国道沿いを進むことになる。国道の歩行は 「熊野古道」歩行時もあったが、危険が伴うので好きではない。帽子を飛ばされないように注意しながら、 歩道を進む。歩道があるのは救われる。
国道を渡って進むと長い土手があり、雑草の生い茂る土手を上ると「西池」が一杯水を湛えている。この堤は 「篠原堤」と呼ばれ雄略天皇(413年頃)掘られた大きな灌漑池だ。

子安地蔵 説明

篠原神社

西池 説明



「守山宿〜武佐宿@」の「紀行スライドショー」


この辺りの「中山道」は国道8号線やそれに沿った道になっているようだ。「西池」を過ぎ、国道から左の小道に 入いるのが「中山道」になる。

平宗盛・清宗の墓 説明@.. 説明A

大篠原と呼ばれる旧街道の風情が漂う道を東に進むとすぐにR8と合流し、再び国道を歩く。村田製作所の工場の前を 通り、進んで行くと「平家終焉の地」の碑があるので、林の中の小道を入って行くと「平宗盛・清宗の墓」が祀られている。
野洲市は平家が果てた最期の地です。平安時代末期、壇の浦の合戦で平家一門が滅ぼされ、一門の大将・平宗盛と息子清宗 が鎌倉から京都へ送り返される途中、近江篠原で斬殺されました。
  現在、屍を埋めたとされる宗盛・清宗親子の墓標がひっそりと立っています。「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた石碑と石仏は、 長い間にわたる風雪の浸食でわびしい雰囲気が漂っています。
  また、墓の向かいにある池は、宗盛と清宗親子の首を洗ったという宗盛首洗池ですが、蛙が哀れを感じて鳴かなくなったことから 「蛙鳴かずの池」とも呼ばれます。(滋賀県観光協会HPより)

平家は壇ノ浦で滅びたものだと思っていたが、この地が終焉の地とは知らなかった。良き見聞だ。

再びR8を歩き、脇道を通り、R8へと進む。道の駅があるので少し早いが昼食にしようと向かうと、連休明けで休みだ。

義経の元服池

止むを得ず、次に進もうとすると国道の反対側に「源義経元服池」が見えるが、交通量が多くて渡れない。
義経が平泉に落ち延びたことは知っているが、元服をこの地で行ったことは知らなかった。源平の歴史が詰まった地域 なのだ。
道の駅の国道8号線を隔てた西向かいに、僅か数uほどの小さな池があり石碑が建っている。
鞍馬山で修行した源義経が奥州へ向かう途中、鏡宿に泊まり、前髪を切り落として元服したと伝わる池で、 「義経の元服池」と呼ばれている。 義経はこの池の水を元服の時に使い、元服の姿を水面に映してみたと言われている。
この池は浦山の湧き水が滲み出てきているもので、水道が整備されるまでは付近の人家の飲料水としても使用されたほど 澄み切った美しい水で、その昔東山道の旅人の喉を潤したものと思われる。(滋賀県観光協会HP他より)


歩道橋を渡り国道を進む。「鏡神社」の鳥居が見え、本殿に参拝する。本殿は三間社流造り、こけら葺で 南北朝時代の建築とのことで立派なものだ。
参道に枯れた松があり、上に屋根が設けられている。これが「義経・烏帽子掛松」で元服した義経が、参拝に際し 烏帽子を掛けた松が朽ちて残っているのだ。
国道を少し進むと「鏡宿」の本陣や旅籠跡があり、「旅籠・白木屋碑」は義経が泊まったとされている。この鏡の里は 平家や源氏のゆかりの土地で史跡が多いのには驚いた。

鏡神社・本殿 説明

義経・烏帽子掛松 説明

旅籠・白木屋碑


少し進んだ鏡の口交差点角にラーメン屋があるので昼食にする。(12:00-12:35)
食事をしながら今までの行程を反復し、地図を見ながらこれからの行程を確認する。「武佐宿」まではまだ7-8kmあり、 その次の「愛知川宿」までは更に10kmある。取り敢えず、「武佐宿」まで行き、疲労度合を考えて決断することにした。
国道から脇道に入り、ホッとして進む。「道祖神」が祀られている細い道を進むと再び国道に出て東に向かう。国道から 外れると落ち着いて歩けるが、国道の歩きは面白くない。
道角に「いせへの道標」が立ち、伊勢詣のルートを表している。再び脇道に入りノンビリと歩を進める。日野川を渡る道は 今までにない民家もない川の堤の下で気持ち良い。
川の水が多いので、徒歩で渡れない。再び国道に出て、横関橋を渡って堤の道を渡し場まで戻る。

道祖神

堤の下の道

日野川


堤の上を日野川に沿って、渡し場方向に戻るが場所が分からない。地元の方に尋ねるともう少し行くと良いと。
地道との交点に「横関舟橋跡」の標識が立っている。絵で見ると川の浅瀬に船を並べて橋の代わりにして渡らせていた のがよく分かる。(13:00')

地道にサイクリングの道標があり、「中山道」の方向を示している。新幹線の方向に進むように見えたので、その方向に進む。 これが間違いだった。矢印が角を曲がると理解したが、U字型に戻るだったのだ。
しばらく進み、間違っているのではと気付き、方向を修正して途中から正規の「中山道」に戻る。
今回、地図の見方、ガイドブックの特徴、旧街道の特徴等に慣れて来たので、スムースに進んで来たが、ここで失敗したのは 残念だが、10分程のロスタイムは疲れを倍増させる。

「中山道」は馬淵町の交差点で再びR8と合流する。その角に「八幡宮」の荘厳な本殿が迎えてくれる。ここの本殿も 立派で、この辺りの歴史が感じられる。
しばらくR8を東に進み、国道から別れ、細い道を右に進むと公園の中に「住蓮坊首洗池」がある。「守山宿」の手前に 「住蓮房母公墓」があったのを思い出す。悲しい歴史があったのだ。

横関舟橋跡 説明

八幡宮・本殿 説明

住蓮坊首洗池 説明


再び国道歩きになる。この区間は国道が多いので楽しくない。 西宿町の信号で右の細い道に進むと「武佐宿」への街道となる。

伊庭貞剛邸跡の大楠 説明

武佐宿・本陣 説明

静かな道を進むと大きな楠が立っている。
空間に堂々と 見事なものだ。ここは住友家の総理事で、「別子銅山中興の祖」と云われ、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決に 当たった「伊庭貞剛邸跡」の大楠だ。
真っ直ぐな道を進むと黄色い電車が走る「近江鉄道」の踏切に至り、直ぐ横に「武佐駅」が建つ。
いよいよ「武佐宿」だ。

踏切を渡り、右の駅前を通り「武佐宿」に入って行く。
左側に「高札跡」があり、小学生が卒業記念に作成した説明板が立てられている。子供達が地元を通る「中山道」を 身近に感じ、整備して行こうと云う気持ちの表れで、単なる説明板より嬉しいものがある。
他の史跡にも子供達の絵入りの説明板が掲げられ、心安らぐ。
「本陣」は少し朽ちかけているが、それなりの貫禄があり、前の「旅籠」はまだ唯一残っているそうで、落ち着いた 宿屋だ。
「いせ道」の道標が立つ街道を進むと郵便局があり、そのポストは古い様式の「書状集箱」と名付けられ、使用出来る そうだ。
明治時代の警察署跡や観光案内所になった「脇本陣跡」と古い史跡が残っている。観光案内所は休みだったので、資料等 入手出来ないのは残念だったが、なかなか趣のある宿場町だ。(14:40')

高札跡 説明

旧旅籠屋 説明

脇本陣跡 説明



「守山宿〜武佐宿A」の「紀行スライドショー」


「武佐宿」の雰囲気を味わい、一息入れて次の行程を考える。
15時前で時間的には余裕あるが、4万歩歩いているので疲労感は強い。次の「愛知川宿」までは10kmあるので、2時間以上 かかるであろうから、途中の「五箇荘」まで行くことにする。


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