○ 「中山道No5」見聞録(赤坂宿〜加納宿)・(距離 19.3km/ 121.0km/ 412.0km)
5−1.(56)赤坂宿〜(55)美江寺宿・(8.7km) 2008.07.26 7:45〜11:00 晴れ
前回の紀行から1ケ月が経過した。JRの交通費もかかるので、「熊野古道・見聞録」時と同じ様に「青春18きっぷ」を活用して 安価で進もうと考えていた。7/20から使用可能だが、韓国旅行に行き、その整理に手間取っていたので、すぐに出発することが 出来なかった。 今年の夏は暑い。炎天下に歩くので、舗装道路が多い「中山道」のことを考え、美濃地区の曇りの日を狙って歩こうと天気予報を 注目し、明日は少し曇っていそうなので、土曜日だが実行することにした。
炎天下の歩行なので、無理な計画は立てず、一応、岐阜駅近くの「加納宿」を目指すことにする。 前日からポカリスウェットの粉末から飲料水を作り、冷凍して置いたペットボトル2本を持って、4時半頃、出発する。 高槻発5:00の1番列車は、前回は「青春18きっぷ」発売前だったので、閑散としていたが、今回はそれなりに混雑している。 学生やシニアの愛好家の姿がチラホラと見られる。 京都で乗り換え、米原まではウトウトと眠ったり、前に歩いたコースを思い出したりしながら進む。 米原乗換も問題なく、前回降りた 醒井駅を過ぎ、JR線路沿いに歩いた道を眺めながら楽しむ。伊吹山が間近にはっきりと見えるが、暑そうだ。 大垣乗換で盲腸路線である美濃赤坂線に乗る。 「熊野古道」紀行時、色々とお世話になり、ご指導いただいたサイト 「みくまのねっと」では、全国に祀られている「熊野神社」を参拝する「全国熊野神社参詣記」と云うコーナーを作り、有志が 参詣記を投稿している。
やはり「熊野古道」紀行時にお世話になった「TATSUさん」はその参詣記にたくさん投稿されていたので、「中山道」紀行時に 「熊野神社」があれば、立ち寄りたいので情報提供をお願いしていた。 彼から大垣の次の駅荒尾に「熊野神社」があると 教えていただいた。 前回立ち寄ろうかと考えていたが、雨が降って来たので中止し、電車から位置を確認していたが、 今回も立ち寄るには時間・体力面で不安があるので、残念ながらパスすることにした。(TATSUさん感謝&陳謝)
トイレの水道で、タオルを濡らし、1本は鉢巻、1本は首にかけて、7時45分、5回目の紀行をスタートする。 前回は雨でパスしていた「お茶屋屋敷」に向かう。 「お茶屋屋敷」は、徳川家康が中山道沿いに造営した将軍専用の休泊所跡で、創建当時の城郭様式を偲ぶ土塁や空壕の 一部が残っており、現在は東海有数のボタン園として一般開放されていると。 竹の塀と古い藁葺の門を入ると蝉時雨と新緑が 目に沁みる。 前回通った「赤坂宿」の街並みを通り、色々と説明を受けた「お嫁入り普請探訪館」の前を過ぎると、立派なお屋敷の前には 「谷汲道道標」が立っている。 前回雨で気付かなかった説明文もあり、木陰で一息入れる。
ここからは初めての道を進むことになる。朝日が眩しく差し込んでくる東に向かうので、家の影もない。正面から 日を浴びながら進むことになる。 右手に公園があり、その前に「赤坂宿本陣跡」の碑が立ち、その横には「和宮の碑」と彫られた大きな石碑が立っている。 この宿場は「皇女和宮」所縁の地として史跡が多いのだ。 前回、「お嫁入り普請探訪館」で説明を受けた「赤坂港」に着く。近くの金生山で産出された大理石等の運搬のため 開けたと聞いていたが、その杭瀬川の狭いのに驚く。この川を船が行き交っていたのかと。 河港の発展を示すように、立派な「川燈台」や洋館の建屋が当時を偲ばせる。
杭瀬川を渡った所に「赤坂宿御使者場跡」の碑が立つ。西の入り口にも「赤坂宿御使者場跡」の碑が立っていたことを 思い出し、宿場の入り口に設けられていたのかと。 少し進んだ家の壁に広重の「中山道69次・赤坂宿」の浮世絵が掲げられている。赤坂港辺りを描いたもののようだ。このような 絵を見ると昔の街道のイメージが湧いて来るのは嬉しい。 旧街道を進むと道が二股に分かれ、真中に「交通安全常夜灯」が立っている。少し細い左側に進む。太陽に向かうので写真は 逆光で上手く写せない。少し影のある軒先を選んで歩くが、汗がしたたり落ちる。時々、鉢巻のタオルを絞って汗を落とす。 眩しい道脇に「一里塚」の碑が立っている。なかなか本来の大きな塚が残る「一里塚」は存在しないようだ。
東に向かって淡々と歩む。まだ日は高くはないが、真正面から射して来るので暑さを感じる。広い道と合流して進むと 近鉄養老線の踏切を渡る。線路の少し先に東赤坂駅が見えるが、店舗も何もない所だ。 リュックの後ろにエジプト旅行時に現地の温度を計るために、100均で買った温度計をぶらさげている。多分、30℃以上になって いるなと思いながら東に進む。 道が直角に右に曲がり、次に左に曲がる。条里地割に沿って街道が曲がるためで「中山道七曲り」と云われていると。 次の曲がり角にには「中山道七曲り」の碑が立っている。広い道の手前も七曲りとなっており、建物の陰で一息入れる。 水分補給はマメにしないと熱中症になるので、要注意だ。(8:45') リックを降ろしたので、温度計を見ると早くも32℃を示している。これからは益々上昇するだろう。 七曲りを過ぎて、再び東に向かう。道沿いに流れる小川の水はきれいだ。近くには清流に生息するハリヨの池があるらしい。 広い道を渡った所に「観音道標」の観音様が祀られている。お堂の中に納められている観音様の横には「右ぜんこうじ道・ 左谷汲道」と刻まれている。早くも善光寺の名前が出て来たのには驚く。
前回歩いた時は田植えの後で、まだ幼かった苗もしっかりと根を張って青々と茂っている。暑さの中で、緑色をみると涼しく 感じる。田舎道を東に進んでいると道なりに南に曲がり、平野井川の堤に出会う。 先程の七曲り程ではないが、少し曲がった道が「中山道三曲り」で碑が立っている。旧中山道は広い道の高架下をくぐり、 揖斐川に注ぐ平野井川の堤に沿った道を進むことになる。 今回の行程で、中山道の道標は所々あるが、余り期待出来るものではない。堤防の道に久し振りの道標があり、一安心するが、 堤防の上の道を進むのか、下の遊歩道を進むのか判別出来ない。 平野井川を渡って進むので、堤防の上の道を進むが、遮る木も無く暑いので、下の遊歩道は桜並木があり、涼しそうなので 下に降りて、堤沿いに歩く。桜の陰と青々とした稲を見ながら、木陰は涼しいと。 遊歩道の横に公園があり、水道があるので、「熊野古道」紀行時に水が流れている所で儀式的にやっていた、顔を洗い、 頭から水を被り、濡れタオルで体を拭く行事を行う。水道の水なので、少し生暖かいが、体が冷たくなり気持ち良い。
しかし、これが間違いだった。道標があるだろうと遊歩道を進むが、道標が出てこないので、堤の上に上がり、 渡るべき橋を探すが、分からない。随分後方に橋が見えるので、通り過ぎたのと思うが、戻るのは止めて、 揖斐川の堤防まで進み、平野井川を渡り、呂久の集落に戻ることにする。
少し道に迷いながら、正規ルートの逆方向から「小廉紅園」に到着する。 目の前に水飲み場と水道があるので、再び恒例行事で体を冷やして小休止にする。温度計を見ると37℃だ。 暑い訳だと納得する。(10:05-25) 現在の揖斐川は、当時この呂久の集落の辺りを流れており、呂久川と云われていた。 文久元年(1861年)には、 皇女和宮新子内親王が中山道を、ご降嫁の折り、この呂久川(揖斐川)を渡られ、その舟中から東岸の色鮮やかに 紅葉した楓を眺められ、これに感懐を託されて 「落ち行く身と知りながら もみじ葉の人なつかしく こがれこそすれ」と詠まれました。(説明板他より) 一息入れて、緑の溢れる「小廉紅園」の風情を楽しむ。「赤坂宿」やこの地でも「皇女和宮」に対する想いは深いので あろう。立派な庭園だ。 正規ルートの入口には「揖斐川呂久渡し場跡」の碑が立っている。現在の揖斐川はこの辺りを流れていたのだ。ここから 皇女和宮が船で東に向かい、歌を詠んだことを理解する。 少し休憩したので、元気になった。気合いを入れて出発する。 「小廉紅園」を出てすぐに、立派なお屋敷が立つ。船頭頭を務めた「馬淵家」のお屋敷だそうだ。
揖斐川の堤防に向かう。
揖斐川の堤防に上がる。 大正14年の改修により、先程の船着場辺りからこの堤防の方向に付替えられたそうだ。 揖斐川の河原は広くて藪が生い茂り、水の流れは見えない。 本来の「呂久の渡し」と思われる堤を進み、 鷺田橋への歩道橋を上って橋をを渡って、「美江寺宿」に向かう。 「赤坂宿〜美江寺宿」の「紀行スライドショー」
|