○ 「中山道No16」見聞録(洗馬宿〜下諏訪宿)・(距離 18.5km/ 324.0km/ 209.0km)
16−1.(31)洗馬宿〜(30)塩尻宿・(7.2km) 2010.10.13. 7:00〜9:40 曇り後晴れ
前回は、夏の「青春18きっぷ」を活用し「奈良井宿」に宿泊し、「木曽路」を終え「信濃路」に進んだ。 「青春18きっぷ」を使っての紀行も時間的に難しくなって来たので、色々と交通手段を検討していると、以前調べた時、 大阪〜松本間の高速バスは昼間バスのみだったのが夜行バスが開通していたのだ。(2010.7より運行) 22時10分に大阪を出発し、6時16分に松本駅に到着。6時27分発の列車に乗ると6時56分に洗馬駅に到着する。「青春18きっぷ」だと まだ米原を過ぎた頃に到着し、歩き始めることが出来るのだ。 夜行バスで眠れるか分からないが、「塩尻宿」塩尻峠を越えて、「下諏訪宿」には日暮れまでには到達出来るだろうと。温泉に入り、 松本に行って、帰路のバスは22時30分発なので十分余裕があるだろうと計画する。 都合のよい日、天候、バスの空席を加味して検討するが、バスの予約が凄い。直ぐに満席になってしまうので、天候は予報の確定が 出ない前に予約しないと。残り1席で予約し、コンビニで発券してもらう。往復で10000円。「青春18きっぷ」に比べると高価だが、 宿泊費を考えるとOKだろうと納得させる。 夕食を済ませ、もちろんビール・芋焼酎も飲んで20時前に歩いて出発する。ザックJAPANの韓国戦も見られず残念だが、仕方ない。 バス出発まで時間があるので、現役時代時々訪れていた立ち飲みのバーで、睡眠薬代りにハイボールを飲みながら、マスターと今回の行程を 話し楽しむ。
少しづづ明けて行く外の景色は曇り空で寒そうだ。定刻前の6時過ぎに松本駅前のバスターミナルに到着する。ネットで調べていたコンビニで 朝食用のおにぎりと昼食用の弁当を購入し、松本駅に向かうと電光温度計は17℃を記している。少し肌寒いが快適だ。
7時に身支度を整え、洗馬駅を出発する。どんよりと曇っているが、雨の心配はなさそうだ。 前回、雨に降られて、後で整理すると「洗馬宿・本陣跡」の写真が無かったので、少し戻って「本陣跡」を撮影して、次の行程に進む。
木曽義仲の逸話もあるこの清水に手を入れると冷たくて気持ち良い。夏場だとタオルを濡らし、顔を洗っているだろうが、この季節だと 見るだけだ。 この清水で馬を洗ったことから、この宿場の名前が「洗馬」となったとは面白い。 洗馬地区、奈良井川の河岸段丘の上部にあって、ケヤキの古木のわきから湧き出す泉である。邂逅(かいごう―会ふた―オオタ)の清水と して、木曽義仲にまつわる伝説とともにこの地域の人々の生活用水ともなっていた。
街道に戻ると直ぐに「中山道」と「善光寺道」との追分が迎えてくれる。 右側が「中山道」に通じ、左側が善光寺に通じるのだと。道角には古い道標が建ち、「中山道」と刻まれており、横には「道祖神」が 祀られている。 「旧中山道」はこの左の「善光寺道」を少し進んだ所にある「常夜燈」を右折する枡型で右の「中山道」と合流する。立派な「常夜燈」は 安政時代のものらしい。 右の「中山道」に出て、坂を上る途中に「肱懸松跡」の碑が建ち、坂の上の街道筋には移植された「肱懸松」が植わっている。
舗装された緩い上り坂を進むと国道19号線のと交差する。児童の交通指導をしておられる小父さんと信号待ちの間に話す。これから 下諏訪まで歩くと云うと、良いですねと。 交叉点を渡り、直ぐ左側に国道に沿ってある砂利道が「中山道」だと。これから進む一帯はぶどうの果樹園が続き気持ち良い道だ。 関西では信州ぶどうは余り目にかかれないが、ぶどう狩りの看板も立ち、休日には賑わっているようだ。 再びR19に合流し、中山道一里塚の交叉点を右折し、長く親しんで来た国道19号線とお別れする。 ぶどう畑の道にはコスモスも咲き、気持ち良く歩む。天気が良ければ北アルプス連峰が望まれるらしいが、雲の中に隠れているのは残念だ。 朝乗って来たJR中央本線の踏切を渡り、真っ直ぐな道を進む。日本風のぶどう棚に混じってワイン造り用の縦のぶどう棚もあり、ワインも 造られているようだ。 「平出遺跡」のおおきな看板が建ち、ぶどう畑の奥には藁葺の建屋が保存されているようだが、立ち寄らず進む。
真っ直ぐな道の向こうに松の木が植わっている。「平出一里塚」の松だ。久し振りに道の両側に一里塚があり、「中山道」を歩いている 実感を味わう。
その主文に「東筑摩郡宗賀村木曽街道に2個、道をはさんで相対す。その広さ1個1畝28歩高さ1丈許り、元平出区なりしも 宗賀村有に移さんとす。中央線汽車中よりも望見することを得」とある。(塩尻市観光案内HPより)
右側は道脇に立つが、左側は民家の中に立つので、両方を同時に眺められない のは残念だ。「一里塚」の下で、小休止し一息入れる。 「洗馬宿〜塩尻宿」の「紀行スライドショー@」 再び真っ直ぐな道を進むと昭和電工の長い塀が連なり、淡々と歩く。JR中央本線の高架下を抜けて進む。 高架下を抜け、少し建物が建て込んだ道には、なまこ壁の酒屋が建ち、旧街道の雰囲気を残している。進行方向に大きな木が見えて来たので、 神社かと進むと「大門神社」だ。少し手前に「耳塚神社」があるはずなので、戻って探すと小さな祠があり、耳の型にされている素焼きかわらけ がたくさん奉納されている。「耳の形に似た素焼の皿やお椀に穴を開けて奉納すると、耳の聞こえが良くなる」との信仰が深い神社だそうだ。 「大門神社」に戻り、大きな楠の下で一息入れる。(8:20)
水分を補給し、少し暑くなって来た道を下大門の交叉点に進むが、この5叉路で方向を間違って少し反対側に進んでしまった。おかしいと 気付いて、通りかかった学生に確認すると反対側に進んでいたので、引き返す。15分程のロスタイムだが、気分は悪い。 ここで、2年前「おわら風の盆」に行った帰り道に、 塩尻駅前の観光案内所でこの日のために購入していた「しおじり学びの道」の 地図を取り出し、確認すると正確なルートが記述されている。この地図をメインに進めば良かったと後悔する。準備万端だったのに・・・ 国道153号線を田川に架かる塩尻橋を渡り、大小屋の信号から左の小道に入る。
堀内家は、江戸時代堀ノ内村の名主である。この建物は19世紀初期(文化年間)に、下西条村から移築したものと伝えられている。 建築様式は本棟造で切妻造妻入。板葺で勾配の緩い大屋根と庇棟飾りに特色がある民家形式の一つである。もとの建物は、18世紀後期 (宝暦〜天明年間)のものらしいが、いくたびか改造されたため、当初の姿が不明なところも多い。 しかし、この本棟造の外観は、 2段重ねの破風、棟飾りの「雀おどり」、妻の壁部分の出格子窓等、美観を意図した意匠で高く評価されている。 *国重要文化財(塩尻市観光案内HPより)
旧道を進むと小学校の手前に可愛い「男女の道祖神」が祀られている。西では少なかった男女を型取った「道祖神」が多くなりそうで 楽しみだ。 小学校の校門の前に「塩尻宿」の石碑が建ち、ここから東が「塩尻宿」の始まりと示している。直ぐにこんもりとした森の中に 「阿礼神社」が鎮座している。鳥居をくぐり、本殿に旅の安全を祈願し、参道脇の石の上で休憩する。(9:10)
江戸時代、五街道の1つ、中山道が制定された当初は牛首峠を越える小野街道が採用され、小野から木曽の桜沢に連絡されたので、 塩尻宿はもとのままだった。やがて塩尻経由に改められるにともないもとの宿も移され新しい塩尻宿がつくられた。 本陣の規模は中山道中最大で、宿内には高札場、松本藩の口留番所が置かれた。また幕府の代官所塩尻陣屋が置かれた時期もあり、 重要な場所であったことがうかがわれる。塩尻宿は、2度ほど大火に見舞われ、わずかな家屋を残して、宿場時代の遺構は失われてしまった。 (塩尻市観光案内HPより) 「阿礼神社」の前を直角に曲がる枡型を通ると先程のR153に至る。国道と旧道との交叉点に「中山道鉤の手跡」の石碑が建っている。 鉤の手を国道に沿って進むが、この道は旧道の面影が見られない。国道筋には「陣屋跡」の碑と横の古い酒屋や「脇本陣跡」、「塩尻宿」の 碑が建っている。碑の横には 浮世絵に描かれている「塩尻宿」の壁画が飾られている。「塩尻峠」から諏訪湖を眺め、遠くには富士山が望める素敵な浮世絵で、 次の行程である「塩尻峠」が楽しみだと。 少し先に「本陣跡」の碑が迎えてくれる。焼失して、跡形もないのは残念だが、本陣の規模が最大だったことを想像しながら進む。
焼失した史跡跡には石碑が建っているが、やはり寂しい限りだ。 工事用のテントが張られた建物があり、確認すると「小野家住宅」だが、工事中で全容は見ることが出来ない。
街道筋にみられる商人や職人の民家は、町家と呼ばれ、隣家との間隔が狭く(ときには互いに壁を接するように)建てられていた。 塩尻宿は明治15年に大火にあったが、小野家は西隣りの武居家とともにかろうじて残った。建物は天保2年に建てられ建築様式は 切妻造平入で、2階建桟瓦葺。2階には5室の客室があり、その室内装飾は幕末期の大都市で流行したものであり、当時の宿場の雰囲気を しのばせるものとして貴重なものとされている。*国重要文化財 (塩尻市観光案内HPより) 隣の民家の2階に珍しい装飾があり、パチリと。良く分からないが、かんざしのようなので、ここはかんざしを売るお店だったのではと 楽しく想像して進む。
道の名の「五千石」は何に由来するのであろうか。大坂夏の陣の論功行賞で、松本藩は小笠原秀政・忠脩父子が戦死し、あとを継いだ忠政が 松本8万石から播州明石へ移封され、松本へは戸田康長が7万石の領地替で高崎藩から移された。 浮いた1万石は、諏訪と高遠両藩に5千石ずつ分け与えられた。そこで諏訪藩主が東5千石の飛び地の巡見に利用した道が「五千石街道」と 呼ばれるようになったともいわれている。(塩尻市観光案内HPより) その反対角には「道祖神」がたくさん祀られている。その中に「男女の道祖神」も祀られており、地域性が感じられる。 「十王堂跡」「塩尻口留番所跡」の石碑を見て進むと道角に東の「塩尻宿」の碑が建ち、「塩尻宿」が終わる。広い街道筋の宿場だが、 焼失して史跡が残っていないのは残念だった。しかし、色々な街道の分岐点・集合点なので発展していたのだろう。
「塩尻宿」の見学を終え、今回の紀行の難所である「塩尻峠」越えをして、「下諏訪宿」に向かう。 「洗馬宿〜塩尻宿」の「紀行スライドショーA」
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