○ 「山陽道No9」見聞録(吉備津〜井原)・(距離 42.5km/ 306.1km) 3.川辺宿〜備中呉妹・(6.1km) 2012.08.28 9:50〜11:25 晴れ
今回は、前回未踏破となった区間の踏破をして、井原までの行程を埋め、井原以降の「山陽道」を歩くことにする。
前回は次の駅・川辺宿まで歩いたので、そこまで乗車し、「逆打ち」で井原から戻って来た備中呉妹駅までの2駅・6kmを歩く訳だ。 9時47分に川辺駅に到着し、歩き始めるが、6km余りを1.5時間で歩き、備中呉妹駅発11時25分に乗らないと1時間待たねばならない。時間を 気にしながらの歩行は余り楽しいものではないが、効率よく進めるには仕方がない。 「山陽道」に戻り、県道を歩き始める。暑さは前回ほどではないが、舗装道路を歩いているとじんわりと汗が滲み出す。 二万口交差点を右折する。「大曲(おおまがり)」と云われる宿場の枡形のような道で、少し進んだ所から左の道を進むと再び県道に合流 する。 歩道のない県道を進み、吉備真備駅のある交差点を過ぎると「吉備真備公産湯の井戸」350mの標識が立っているので、時間的には厳しいかも 知れないが右の小道を入って行く。前回の紀行時も吉備真備の史跡があったが、疲労度が激しくパスした経緯があるので、今回はしっかり 見学しようと。
吉備真備は、奈良時代、備中の豪族下道国勝の子で、若くして遣唐留学生に 選ばれ、阿部仲麻呂らとともに19年の間、長安で儒学・歴史学等々、多方面にわたって学び、帰国しました。 当時、世界最高といわれたこれらの文物の数々は、吉備真備の帰国によって我が国へもたらされ奈良時代の諸制度、文化の繁栄に 計り知れない貢献をいたしました。 また囲碁の請来や、カタカナの発明も吉備真備によるといわれています。その後、遣唐使として再度中国に渡り、わが国へ初めて 律宗を伝えた鑑真和上らとともに帰国し、国政の重鎖となり、晩年には、正二位右大臣の位階を授けられております。(高梁川流域ものがたり HPより) 田舎道を西に向かって「まきび公園」方向に向かう。公園の中には中国風の屋根を持つ「まきび記念館」を確認し、公園の中を散策したいが 時間の都合でパスする。再び、県道に戻ると「吉備公墳」と書かれた石碑が立ち、見学した所を示している。
歩道のない県道を進むと「史蹟山陽街道一里塚」の碑が立つ。この辺りの一里塚には名前の記述がなく、全て「山陽道」なのは物足りない。 曇り空だが、湿度が高く暑い。呉妹駅の時間に間に合わせるべく、N君がピッチを上げて前に前に進んで行く。遅れてはいけないとO君と 必死で追いかける。 途中、県道から外れて、県道に戻る旧街道の存在は確認するが、一直線の県道を急ぎ、暑くて息が切れる。 「熊野神社」の鳥居を 確認するが、立ち寄って調べる時間がないので先を急ぎ、ようやく出発5分前に呉妹駅に到着する。
無事、11時25分発の列車に間に合い、冷房車の涼しさに感謝しながら井原駅に向かう。 これで、抜けていた行程も埋めることが出来、井原鉄道に乗るのもこれが最後だろうと話しながら進む。HP作成時に、吉備真備を調べて いると2回目の遣唐使からの帰国時、鑑真和上と同行したと分かった。今回の「山陽道」踏破の後、「薩摩街道」を経由して、鹿児島県・ 坊津まで行きたいと思っていた地が、鑑真和上初上陸の地と聞いているので、縁を感じた次第だ。 「山陽道No9D」の「紀行スライドショー」
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