[周防花岡〜湯野温泉][湯野温泉〜長沢温泉][長沢温泉〜嘉川]


○「山陽道No20」見聞録(周防花岡〜嘉川)・(距離 60.9km(今回)/ 562.9km(累計))

  2.湯野温泉〜長沢温泉・(24.5km) 2014.05.28. 7:50〜17:55 晴れ


西国・山陽道全行程.Map

「湯野温泉〜長沢温泉・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

山田家本屋

学生時代の合宿を思い出す三人同部屋での睡眠だったが、いびきや寝言に悩まされることなく、ぐっすりと眠れた。やはり、疲れと酔いが 良い方に作用したのであろう。
5時過ぎに目覚め、温泉が6時からなので、本日の計画の確認をする。
散歩に出掛けようとするも玄関の鍵が掛っていて出られない。管理人が起きて来られ、温泉には入れるとのことなので、早速、朝風呂で 英気を養い、リフレッシュしたところで散歩に出掛ける。
バス停の確認をし、周辺を散策していると茅葺の立派な「山田家本屋」が建っている。案内板によれば、山田家は、戦国時代からこの地に住み、 「山陽道」沿いに書院造りの居を構えていたと。その一部をここに移設したそうだ。早朝で、中には入れなかったが、立派な茅葺の家は なかなか見られないものだ。
バス停で、時刻を確認し、国民宿舎に帰り、7時からの朝食を少し早めてもらい、しっかりと朝食を食べ、7時45分のバスで、昨日の終了地点・ 湯野温泉口駅まで戻る。
7時50分、二日目の紀行をスタートする。朝も早く、誰も居ない旧街道を歩き始める。
しばらく進むと旧街道は、国道2号線と合流する。右奥に、土塀が続く立派な家が建っている。これが、朝に見学した「山田家」の居住して いた所なのだ。奥まで見られないが、土塀から想像すると広くて立派な屋敷だったのだろう。
国道歩きとなるが、歩道が狭い車道程の幅があり、歩き易いのはありがたい。山口県の道路事情について話す。有名な政治家が多いので、 何処に行っても立派な道路が整備されているのには驚くのが、共通の認識だ。

旧街道

山田家の土塀

山口県の広い道


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

しばらくの間、広い歩道を進み、山陽自動車道の高架下から右斜めの旧街道に入る。

椿峠・郡境碑 標識

この道が「椿峠」への道だと楽しみながら進むと左に「椿茶屋」の看板が掛った三角屋根のレストランらしき建物があるが、使用していないようだ。 少し山深い観があるが、やがて兜のような飾りのあるレストランの所で、国道2号線に合流する。このレストランも廃業のようだ。
国道の反対側に、小さな案内板があるので、交通量の多い間を見計らって横断し、確認すると「椿峠郡境碑」の案内板で、字が消えて読めないが、 横に「郡境碑・こりれより西100m」の白い杭が立っている。
下草が生い茂り、道が無いように見えるが、少し足跡が残っていそうなので、国道に沿って上って行くと「郡境碑」が立っている。
崖の下は 国道が走る所で、読み難いが「従是東都濃郡」「従是西佐波郡」と刻まれている。
横には「旧山陽道・周防国境の碑(東都濃郡、西佐波郡)」と 書かれた標識も立っているので、ここが「椿峠」の頂だと確信する。旧街道は、国道開通で分断されてたが、「郡境碑」が残っていたのは 嬉しい。
下り坂も下草で道が失われた所を掻き分けて進む。こんな所で、藪漕ぎをするとは思わなかったと話しながら下り、と地道に出て一息入れる。

椿峠への道

椿峠郡境碑の案内板

下草の生い茂った道


少し進むと国道2号線と合流するが、歩道もなく、大型車に注意をしながら進む。先程とは大違いだ。その先、左に入る道が、旧街道で 道なりに進むと右に曲がって行き、国道の高架下を抜け、反対側に出る。
視界が開け、下の方に富海(とのみ)の海が広がっている。久し振りの海。青空と眺望を楽しみながら下って行く。右の山側には、山陽自動車道の 富海PAも望まれ、なかなかの景観だ。道なりに進むと街道脇に「地蔵祠」が祀られ、その先には、煙突が立つ造り酒屋の古い建屋も建つ 雰囲気のある旧街道だ。

国道から旧街道

富海の海

地蔵祠 造り酒屋


少し進むと左に「伝説・毛利時親御墓入口」の木の碑が立っている。坂を上るが道が無くなり、手分けして探すと丘の上の国道2号線に 近い所にお墓が祀られている。

毛利時親御墓

円通寺

毛利時親は鎌倉時代末期の武将で、戦国時代の中国地方の覇者となった安芸毛利家の租だと。
その先には、立派な「円通寺」が建ち、道なりに進むと交わり、歩道橋で渡る。標識に「下関85km 小郡29km」と記されてい、 小郡=新山口まで30km位だと確認する。富海の集落に入り、少し進むとJAの販売所があり、冷たいものを食べようと立ち寄ると、たくさんの ご婦人が居られ、何処から来たの、何処へ行くのとの質問攻めだ。大阪から下関まで「山陽道」を歩いていると話すと驚き、激励される。 冷たい「みかんのゼリー」がお奨めとのことで、みかんがいっぱい入ったゼリーを食べ、一息つく。(9:10-9:20)

国津姫神社・鳥居 本殿

天野屋利兵衛寄贈・手水鉢

ご婦人方から、あそこに「国津姫神社」があるとのことなので、寄り道して「国津姫神社」に参拝する。
富海は漁業や海運業など古くから海に関係の深い土地なので、氏神様として海の女神をお祀りしていると。立派な鳥居と本殿だ。今日の紀行の 無事を願って頭を垂れる。
本殿の横には、「天野屋利兵衛寄贈・手水鉢」が残っている。「忠臣蔵」でも有名な豪商・天野屋利兵衛も海運で立ち寄ったのだろう。
旧街道に戻り、「富海宿」に入って行く。
静かな街並みは、旧街道の雰囲気を残し、右に「脇本陣跡」の入江氏宅があり、その先の角には「当國二十番瀧谷寺道」の小さな道標が立っている。 少し先の右に、「富海本陣跡の門」の標識が立ち、古い趣のある門が残っている。土壁との古い門は宿場の雰囲気を残しているのは嬉しい。

富海宿の街並み

脇本陣跡

富海本陣跡の門


「富海の宿」には、史跡の後があるようだが、今は何の痕跡もない。静かな道を進むとJR山陽本線の踏切を渡り、左に曲がると直ぐにJRの 高架があり、その入り口に「船蔵通り」の標識が立っている。興味があるので、ガードをくぐり、先程通った旧街道の海側の道を進む。
左に石垣があり、狭い道に民家が連なっているが、多分、この石垣が、昔の海岸線だったのではと思える地形だ。少し進んだ左に「飛船問屋 大和屋政助の船蔵」の表札の掛った立派な建屋が建っている。案内文によると、幕末の高杉晋作らを飛船で下関に逃がした等、勤王の志士を 支援したそうだ。

船蔵通りの標識

船蔵通りの石垣

飛船問屋大和屋政助の船蔵


道を戻り、ガードを抜け、真っ直ぐ進むと小さい広場に「伊藤・井上両公上陸遺蹟」の碑が立っている。英国留学中の若き伊藤博文と井上馨が 元英米仏蘭の四国連合艦隊下関来襲を知り、英国留学を中断し、急遽帰国してここに上陸したと。海に面し、交通の便の良い富海は、 歴史的にも重要な地であったことを知った。歴史は面白い。
旧街道に戻り、小川を渡ると右に「恵比須社」の小さな祠が祀られており、右側にはJR富海駅がある。道なりに進むと踏切があり、それを 渡るのだが、「富海の海」を間近に見ようと防潮堤に行き、堤防越しに美しい海を眺める。景観も美しいが、この海岸での歴史的な事象を 思い起こしながら一息入れる。(10:00)

伊藤・井上両公上陸遺蹟の碑

恵比須社

富海の海


「山陽道・湯野温泉〜長沢温泉@」の「紀行スライドショー」

旧山陽道入口・橘坂の標識

旧街道に戻り、山陽本線の踏切を渡り「橘坂(たちばなさか)」の緩やかな坂を上って行く。

橘坂からの眺め 橘坂

左に瀬戸内海を望む「橘坂」は気持ちの良い峠道で、途中には「旧山陽道入口・←旧市街・橘坂→」の標識も掛けられ、ゆっくりと峠道を上って行く。
峠道からの瀬戸内海展望は本当に美しい。春霞の中に、静かな海が広がり、潮風も気持ち良い。
少し上った左に、大きな「手懸岩(てかけいわ)」が横たわり、案内板によると、この岩を撫でて通ると足が軽くなると。そんなに厳しい峠で はないが、この景観を見るために、この岩に手をかけて瀬戸内海を眺めていると、疲れも吹っ飛ぶことから来たのだろうか。
その先に「山陽の旅今昔」の案内板が立ち、この辺りは交通の要衝だと示している通り、眼下を望むと山陽本線の線路が、 狭い山沿いを走っているのが分かる。

瀬戸内海の眺め

手懸岩

眼下の山陽本線


平坦になった峠道を進むと、右に「茶臼山古戦場」の案内板が立っている。案内板によると、大内義隆を滅ぼした陶晴賢は、厳島の 戦いで毛利元就に敗れた。この時大友宗麟は、大友家に寄食していた大内輝弘に大内氏再興を図る好機であるとして、山口に攻め 上がらせたが、毛利軍の追撃にあって自刃したと。
右の小高い丘には、「石祠」が祀られ、これが「大内輝弘の墓」と伝えられている。丘に上って確認し、峠道を進むとその先にも「石祠」が 祀られている。この茶臼山には、中国地方の戦の歴史が刻まれているのだ。
瀬戸内海から離れて、木漏れ日が溢れる気持ち良い地道を進む。やはり、地道を歩くのは、街道歩きの醍醐味だと思いながら進む。

茶臼山古戦場

大内輝弘の墓

木漏れ日の地道


浮野峠の頂上 案内板

気持ち良く地道を進むと右に、字が消えかけた「旧山陽道」の木の道標が立っているので、安心して進む。

旧山陽道の道標

砂防ダムの広いスペースを 過ぎて、再び林の中に入って行くと「石畳」と記された標識が立ち、その先には、短い距離だが、石畳が残っている。
この下を国道2号線のトンネルだろうと話しながら進むと「浮野峠改修碑」が立ち、案内板によると、迂回して整備した道があるが、 直線的な旧街道が残っていると記されている。
左に細い道がありそうなので、下草を確認しながら足跡を辿って進んで行く。
本来の「浮野峠」の旧街道を木々を分けながら進むと迂回した新しい道に合流し、その角には「旧山陽道」の道標が立ち、合流した道を 進むと「浮野峠」の頂上である標識が立っている。ここで、一息入れる。涼風が通り、気持ちが良い。(10:45-10:55)

石畳の道

浮野峠の旧街道

旧山陽道の道標


「浮野峠」の下り坂も竹林が続き、気持ち良く下って行く。やがて、地道は舗装道路になり、右下には、トンネルから出て来た国道2号線が 望まれる。なお、下って行くと右に「浮野駕籠立場跡」の案内板が立っている。
道なりに下ると浮野の集落に入り、その先には「阿弥陀境界石」の蔦に巻かれた大きな石柱と祠が祀られている。境界石が蔦に巻かれて 石の存在に気付かなかった。

浮野峠の下り坂

浮野駕籠立場跡

阿弥陀境界石と祠


平坦になった旧街道を進むと空き地があり、二本の石柱が立ち、「徳地屋敷跡」の標識と二本の石柱の説明がある。この石柱は 「こんひらみち」「あじなみち」と刻まれた道標だと。「徳地屋」は江戸時代の旅籠だったと。
その先右には、「春日宮の常夜燈」が立っている。更に、進むと「小さな祠」が祀られている。浮野の集落の旧街道は、いろいろな 史跡が残っており、退屈しないで歩める。少し進むと公民館が建ち、その前には「浮野町」についての説明があり、富海宿と宮市(防府)宿の 間にある半宿の役目を果たして来たと。
小さな川を渡り進むと小洒落た店の前に自動販売機があるので、水分補給をし、その店をのぞくと、どうぞお入りくださいと。 花屋さんで、花の世話している可愛い女性としばし話す。冷房も効いていて、一息入れることが出来た。「フラワースペース・コーコー」さんに 感謝だ。
陽射しが強くなり、暑くなった「牟礼の集落」を西に向かう。

徳地屋敷跡と二本の石柱

春日宮の常夜燈

牟礼の街並み 花屋さん


更に進んで行くと十字路の右角に「不許葷酒入山」と刻まれた石碑が立っている。極楽寺への道標で、書いてある意味が分から なかったが、N君が、「葷酒(くんしゅ)」とは、ネギやニンニク等の臭いのきつい野菜を食べての入場は許さないとのことだと教えられる。 今まで、見たことがない標識なので、面白く感じた。観音様も臭い匂いは嫌いなのだと。
少し進むと広い県道と合流し、国道歩きとなる。そろそろ、昼食場所を探さねばと話しながら進むと右に「地蔵堂」が祀られているのを 確認し、国衙の交差点に向かうと、右角に「史跡周防国衙跡」の大きな石柱が立っている。
旧街道は、ここを右折して進むのだが、県道の先にファミレスが見えたので、県道を直進して、昼食とする。(11:55-12:30)

不許葷酒入山の石碑

地蔵堂

史跡周防国衙跡の石柱


「山陽道・湯野温泉〜長沢温泉A」の「紀行スライドショー」

国衙の交差点に戻り、北に進む。広々とした「周防国衙跡」が左右に広がり、史跡公園になっている。

周防国衙跡

本通りを左に入ると「周防国衙跡」の案内板や石碑が立ち、この地の歴史を記している。
7世紀後半頃から中国の律令制度を取り入れて中央集権的な国づくりを進めた朝廷は、国ごとに国司と呼ばれる役人を中央から 派遣して地方を治めた。
国司が政務を行った役所を国衙(こくが)といい、国衙を含む区域を国府という。 現在の防府の地名は周防の「防」、国府の「府」からきている。

周防国衙跡の石碑

周防国衙跡は、防府市の東部、多々良山の南一帯約92,500uの地域にわたる。
史跡地には、国衙の中心的建物があったと推測される 国庁域、国府の港が設けられていたと考えられる船所・浜ノ宮地区、国府域の四隅、国府西限と推測される大樋土手が指定されている。 (山口県文化財HPより)

大仏堂

多々良大仏

余りの広さに、当時の朝廷の力の強さを感じながら、全く陰がない真っ直ぐな道を進む。
突き当たりを左折するのが、旧街道であるが、右折して「多々良大仏堂」に参拝する。
奈良の都に模して、東大寺のように大仏を建造すべく、俊乗房重源上人が高さ3mの木造の阿弥陀如来座像を造り、大仏堂に祀られている。 大きな大仏に驚き、やはり、当時の政治の力強さを感じる。
旧街道に戻り、静かな道を西に進む。
暑くなって来たが、今日の紀行の目的の一つが「毛利博物館と庭園」の見学と「防府天満宮」参拝に加え、「種田山頭火の生家」探索なので、 歩を速める。距離・時間も伸びるので、急がねばと。
「毛利邸庭園」入口の広場に至り、庭園に向かって進むが、半端にない位の距離だ。紅葉の緑が美しく、秋には紅葉が美しいだろうと 話しながら、まず「毛利博物館」見学に向かう。

毛利家本邸

旧萩藩主毛利氏により、大正5年(1916)に建てられたもので、平成23年(2011)に国の重要文化財に指定された邸宅は近代和風住宅の 精華を示す壮大な建築。
平成8年(1996)に国の名勝指定を受けた庭園はひょうたん池を巡る回遊式で、四季折々の景観が楽しめます。
邸宅の一部を毛利博物館の展示室として、毛利元就ゆかりの品をはじめ、国宝や重要文化財を含む約2万点の宝物を所蔵、 展示しています。(防府観光協会HPより)

「毛利博物館」の一部が、展示品の交換時期と重なり見学出来ないことが分かったが、入場券を買って、「旧毛利家本邸」に入る。 広々とした廊下・座敷等を見学する。
入口に面白い掲示物が掛っていた。「毛利家家紋」の「一文字三星」も毛利本家・徳山毛利家・長府毛利家・清末毛利家で「一文字」の 書き方が違うのを記している。「一文字」の書き方が、家系で違うのは知らなかった。
邸内からの庭園の眺めも素晴らしく、広い邸内を見学して行く。「毛利博物館」に入れず、史料は見ることが出来なかったが、立派な お屋敷を見て、毛利家の全盛時代を実感する。
「毛利邸庭園」に向かう。
広々とした庭園は、手入れも行き届き、池を配した日本庭園は見事だ。見晴らしも良く、背後には山も迫り、落ち着いた雰囲気に、 疲れを癒す。(13:10-13:35)

広い邸内 家紋の種類

上段の間

毛利邸庭園


長い邸内の道を下り、旧街道に戻る。陽射しがきつく、西に向かうと日陰はなく暑さがこたえる。少し先右に、菅原道真公をお祀りした「獅子殿御旅所」 の案内板と新しい建物が建っている。
更に進んだ右に「佐波(さば)神社」が鎮座し、直ぐ左に「国衙北西端の碑」が立っている。先程通って来た「国衙」がここまで続いて いたのには、改めてその広さに驚く。
静かな家並みが続く旧街道を進んでいると、前から女性の団体がやって来た。挨拶を交わしながらすれ違うと、数人の外国人がいるので、 何処からと尋ねるとオーストラリアからと。天満宮・国分寺から毛利庭園に向かうのだと。外国人も、防府の街の史跡巡りをしているのに驚く。

佐波神社 獅子殿御旅所

国衙北西端の碑

静かな家並み


周防国分寺・本堂 仁王門

少し先右に、「三宝荒神」が祀られている。案内板によると寛永17年(1640)、この地方に犬牛馬に病が流行した時、祈願のため建立され 、平癒したと。
更に進むと長い白壁が続く「周防国分寺」が迎えてくれる。白壁の長さに驚きながら、「仁王門」に向かう。
立派な「仁王門」をくぐり、広い境内に入ると正面に荘厳な本堂(金堂)が建っている。
天平13年(741)聖武天皇の勅願により、諸国に国分寺がおかれた際に創建されました。
平安時代には衰微したが、鎌倉時代、周防国が総国分寺である東大寺の経費の支出をまかなう料国(りょうこく)となったのを契機に 再興の機運が起こり、その後の大内氏、続いて毛利氏の保護によって維持されました。
当初の寺域をほぼ維持しているのは全国でもまれで、周防国分寺旧境内は国の史跡に指定を受けています。 (おいでませ山口へHPより)

本堂への参拝はしなかったが、堂内には。木造薬師如来坐像・木造日光菩薩・月光菩薩立像・木造阿弥陀如来坐像等の重要文化財が 祀られているそうだ。
当時の規模を残す「周防国分寺」の広大さを感じながら、周囲を見ると「五本線の筋塀」で囲まれている。筋塀は、皇室に由来する 格式を表し、その格式の高さで、三本・四本・五本があり、五本が最高だと。

三宝荒神

周防国分寺の白壁

五本線の筋塀


「周防国分寺」から旧街道を西に向かうと「防府天満宮」の「大宮司武光家屋敷」が建ち、その隣には「萬行寺」が建っている。 その先は枡形になっており、左に曲がり、右に曲がって行く。

防府天満宮・本殿

枡形から「宮市宿」なのだと思いながら、宿場の中心である「防府天満宮」に向かう。立派な鳥居が建つ参道を進む。参道には 売店が立ち並び、賑やかな雰囲気もあり、「防府天満宮」の大きさを感じる。
学問の神様、菅原道真公を祀った神社で、京都の北野天満宮福岡の太宰府天満宮と共に日本三天神と称せられています。 道真公は九州への西下の途中、防府に立ち寄りすっかりこの地が気に入り、自分が死んだら魂となって帰ってくると約束します。
九州で公が亡くなった翌年(904)に、国司がこの地に松崎の社を建立し公を祀ったと伝えられ、日本で最初の天満宮として創建された といわれています。
2月には、公が愛した梅の花が境内に見事に咲き誇り、梅まつりが開催されます。 (防府市観光協会HPより)

目の前には、急な階段がそびえているので、売店に置いてある杖を手に取り、石段を上って行く。
少し疲れた足には負担が多い。やっと 上り切り、本殿に参拝する。 暑い午後のひと時なので、参拝者は少なかったが、落ち着いた境内では、熱心に拝んでおられる方もあり、天満宮の趣がある。
「防府天満宮」に参拝し、大宰府・北野天満宮と三天神にお参りしたことになり、少し満足感に浸る。
戻る時、石段から下を見ると、急で、高いことを改めて認識する。(14:20)

大宮司武光家屋敷

防府天満宮・鳥居

高く急な石段


今日の紀行のもう一つの目的である「種田山頭火の生家」の探索のため、旧街道を離れて、小道に入って行く。

種田山頭火の生家

通りと通りに挟まれた三角州の所に「東屋」が建ち、「山頭火の小径」と記された案内板が立っている。生家から小学校に通った、 幼少期に慣れ親しんだ道とのことで、可愛い道標に沿って小径を辿って行く。
途中、何度が道に迷いながら、人に聞きながら進み、やっとことで「種田山頭火の生家」を見付けだした。割合広い通りに面していて、 立派な屋根の下には、石碑で生い立ち等が記されている。
防府市出身の放浪の俳人・種田山頭火の生家跡です。ここから小学校へ通った道は「山頭火の小径」と名付けられ、民家の塀などに 山頭火の句を見ることができます。 また、生家跡やJR防府駅前をはじめ市内各所に山頭火の句碑が80基以上建てられており、句碑めぐりを楽しむことができます。 (おいでませ山口へHPより)
明治15年大地主の長男としてこの地に生まれた。早稲田大学を病気で中退したり家業に失敗したりして熊本に移ったあと出家して 全国行脚の俳人となり、最後は59歳で松山で没していると。
「薩摩街道」紀行時、日奈久で「山頭火の像」を見たのは、熊本に移住した時のことだと認識する。
生家跡の前に「山頭火と名水」の案内板が立ち、竹筒からコンコンと水が流れている。横の奥さんが出で来られ、コップを渡して、美味しい水を 飲んでくださいと。まろやかで冷たい水を2杯いただく。 案内板には、「歩く・作る・飲むが種田山頭火の人生。彼はこよなく水を愛し、酒を飲むよりも水を飲む。水を飲むように酒を飲む。」 と。

東屋の案内板 可愛い道標

山頭火の小径

湧き出る名水


「山陽道・湯野温泉〜長沢温泉B」の「紀行スライドショー」

今日の目的を全てクリアして、旧街道に戻る。
「防府天満宮」の前の道を進み、広い県道を横切って進むと旧街道は道なりに左に曲がって行く。その先、左に「荒神社」が鎮座し、 その先には「地蔵堂」が祀られている。
右に水路を見て、道なりに進むと佐波川の堤防に当たり、堤防の上の道を進むことになる。堤防道を進み、遥か向こうに見える大崎橋を 渡るのだ。交通量は多くないが、暑さには参る。川風は気持ち良いが、橋まで距離を見ると気が折れる。 やっと大崎橋に辿り着き、佐波川を歩道専用橋で渡る。川風が気持ち良く、川の中ほどで、深呼吸する。

荒神社

地蔵堂

佐波川の堤防 大崎橋


佐波川を渡ると道路工事中で、少し迂回して、山陽自動車道の高架下を抜け、国道2号線を渡ると立派な「常夜灯」が立っている。 のどかな田園風景が広がり、その先の「明照寺」で左折して進む。
その先の二股は右に進み、静かな旧街道を歩んでいると右に「一里塚跡」の石碑が立っている。久し振りに見る「一里塚跡」の碑に 少し感激する。「小瀬川より十九里 赤間関迄十七里」と記されている。下関まで17里=68kmとまだ遠いが、最終地点が見えて来た。
その先には、読めない碑とお地蔵様が祀られる旧街道を進む。

常夜灯

一里塚跡

お地蔵様


下り坂となり、下って行くと右にため池があり、柵に「旧山陽道・岩淵⇔佐野」の標識がかかっている。

旧山陽道・岩淵⇔佐野の標識

池に沿っての道

「佐野峠」に行くのは、矢印から見ると池に沿って進むようだが、 予習した地図では、放光会館の先の池に沿って行くとなっているが、放光会館がまだ見えていない。この先にあるのかと坂を 下る。
しかし、先には山陽自動車道が見えるので、おかしいと気付き、遊んでいる子供に、放光会館の場所を訪ねると、親切に 一緒に戻り、先程の池より手前の山の上を差して、上がって行くと良いと教えてくれる。標識通り進めば良いことに気付き、ありがとう と感謝する。道が分かったので、「佐野峠」踏破に備えて、一息入れる。(16:05)
池沿いに進むと山に近付き、峠道に入る所に「旧山陽道」の道標が立ち、整備された地道の階段を上って行く。
所々に「旧山陽道」の 道標が立っているので、安心して気持ちの良い峠道を上る。思ったより長い距離を上ると平坦になり、「駕籠建場」の案内板が立つ 「佐野峠」の頂上と思われる所に到達する。ここからの見晴らしは、山陽第一の佳景とのことで、高台に上り、眼下を望む。平野から、 向こうには周防灘が霞んで美しい。(16:25)

佐野峠への道

峠道

周防灘の眺め 駕籠建場跡


「佐野峠」の下りに向かう所に「佐野たを」と刻まれた自然石の石標があるのだが、確認できず、下って行く。下には山陽自動車道の 佐波川SAが広がり、整備された坂道を下って行く。
山肌を縫うように下ると舗装道路に合流する角には「旧山陽道」の道標と絵地図が立っている。岩淵側からの上り口なのだ。入口で 迷った「佐野峠」も無事踏破して、西に向かう。

佐波川SA

佐野峠の下り坂

佐野峠の出口


少し進むと山陽自動車道の高架下を抜ける。(16:35)
二日目の宿泊先も、旧街道沿いの長沢温泉に設定していた。今日の行程は寄り道が多いので、エスケープ策を考えていた。しかし、路線バス しかないのでその停留所と時刻で、宿泊地まで行くか、バスに乗るかの判断をする地点に来たので、相談する。宿舎まで後約4kmなので、 疲労度を考えて、近くの防府西高校のバス停発16:18は出てしまったので、次の18:43かタクシーに乗るかと。 結論として、計画通り、このまま歩いて宿泊地まで進むことにする。
高架下を抜け、道なりに右に進むと右に「周防三孝女 石川於石の碑」が立ち、横には「近藤芳樹先生生誕之地」碑が立っている。 更に進むと、岩淵の集落になり、左に「常夜灯」が立ち、右に「地蔵堂」が祀られている。旧街道の雰囲気が残る道が続く。
岩淵集落は立派な家並みが続き、その先の田園地帯には、黄色く稔った麦畑が続く、美しい麦秋の絵模様が広がる。

周防三孝女 石川於石の碑

常夜灯

麦秋 岩淵の集落


道なりに進み、田園風景を眺めながら横曽根川を渡り。国道2号線の高架下を抜けるのだが、小さなトンネルを抜けるも、反対側の道に出られず、 迷いながらやっと抜け、国道沿いに少し進み、左斜めのの小道に入って行く。
大道の集落に入ると右に「地蔵立像」が祀られており、その先左に大道小学校が建っている。学校の前の広い道を渡って進むと左に 「諧光寺」が建ち、大道市の静かな街並みが続く。左の広場に「石碑」が立っているが、判読は出来ない。

地蔵立像

諧光寺

大道市の静かな街並み 石碑


旧街道には、海鼠壁の蔵のある豪邸や長い土壁の邸宅と立派な家が多い。更に静かな道を進むと右の高台に長い階段がある。 「厳島六社大明神の遥拝所」だそうだ。厳島神社の威光は、この辺りまでも及んでいることが分かる。
少し進むと、国道2号線と合流し、国道歩きとなるが、歩道があるので安心だ。左には、黄色く染まった麦畑が続いている。この時期、 黄色の畑を見るのは嬉しい気持ちになる。

海鼠壁の蔵 土壁の邸宅

厳島六社大明神の遥拝所

麦畑


国道歩きをしているとJAの販売所の前の広場に、立派な二基の「常夜灯」が立っている。何処の常夜灯か分からない。少し進んだ 先から左の細い道に入るのが、旧街道で、地道に入って行く。
静かな道は、再び国道と合流し、それを渡って旧街道があるはずだが、見当たらないので、そのまま国道を進むと右に大きな長沢池が あり、広い灌漑用の池を見て、宿舎が近いと最後の力を振り絞る。

二基の常夜灯

国道からの分岐

旧街道


17時55分、長沢池畔の「長沢ガーデン」にようやく到着する。旧街道沿いのホテルは便利も良く、温泉があるので予約した。素泊り3400円と 安価なのは嬉しい。

長沢ガーデン

夕食

O君が交渉してくれていて、今回は個室での宿泊となり、広々とした部屋に通される。早速、温泉に行き、疲れた足腰を伸ばし、 マッサージをして癒す。やはり、広い大浴場で、しかも、温泉なのはありがたい。
国道2号線沿いの宿は、ドライブインと隣接しており、食事はレストランで、食券を買って食べるシステムで、ビールの食券を買い、乾杯する。 刺身定食を頼み、今日の行程の反省と明日の予定について話し合う。
距離が長くなるので、エスケープ方法も検討していたが、完歩したことは大したものだと、自画自賛する三人だ。

「山陽道・湯野温泉〜長沢温泉C」の「紀行スライドショー」

食後、O君の部屋で、再び反省会をする。明日は、新山口の先の嘉川まで行き、銭湯が見付からないので、湯田温泉で汗を流す ことにする。
次回の紀行は、今回と同様2泊3日で、最終地点・下関まで進みたいと。時期的には河豚の美味しい季節となる、11月後半以降に 実施しようと云うことになり、昨日買った清酒を飲み干し、お開きとする。
今日の歩行歩数は50600歩と久し振りに5万歩越えた。旧街道の歩行は、地図上、24.5kmだが、寄り道を加えると30km近く歩いたと 思われる。良く歩いたものだ。


[周防花岡〜湯野温泉][湯野温泉〜長沢温泉][長沢温泉〜嘉川]







    
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送