[嘉川〜厚狭(逢坂)][厚狭(逢坂)〜小月(清末)][小月(清末)〜下関]


○「山陽道No21」見聞録(嘉川〜下関)・(距離 59.0km(今回)/ 621.9km(累計))

  3.小月(清末)〜下関・(16.6km) 2014.11.25. 7:35〜14:05 雨後曇り


西国・山陽道全行程.Map

「小月(清末)〜下関・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

夜中に目覚めて、窓の外を見ると雨が降っている。

サングリーン菊川

最終日なのに、雨の中の歩行とは・・・・と思いながら、再び眠る。本来は、朝食を 食べてから出発したかったのだが、朝食が7時30分からなので、素泊りにし、朝食は近くのコンビニで調達することにした。
7時前集合で、雨の中を出発し、コンビニでサンドウィッチと缶コーヒを購入し、8時10分のバスに乗れ、最後尾の席を確保し、ガラガラの席で朝食とする。
その中に、通学の学生で満席となり、早目に食事していて良かったと。小月駅で、ほとんどの方が降り、昨日の最終地点の清末バス停で降りる。 まだ、雨は降っており、レインウェアの上着だけ着ることにする。
7時45分、旧街道の最終地点から、傘を差してスタートする。
少し肌寒い雨の中を進むので、写真も撮りにくく地図も見ずらい。淡々と進むと「レンガ塀の大きな家」が建ち、その先右には立派な「橋本家 長屋門」が迎えてくれる。旧街道の雰囲気を感じながら西に向かう。
集落が途絶えて田畑が広がり、自転車で通学中の中学生が挨拶をしてくれる。おはようと返し、心温かく進むと右に「豊穣の大地」と書かれた 大きな石碑が立っている。少し先で、神田川を神田橋の古い石橋で渡る。

レンガ塀の大きな家

橋本家長屋門 豊穣の大地碑

神田橋


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

小雨の降る中、道なりに進むと左に「地蔵堂」が祀られ、その先で県道を斜めに横切って行く。やがて、JR山陽本線の線路と並行に進むと 右に慰霊碑と祠が祀られている。
少し進んだ左に「宇部一里塚跡」の碑が立ち、赤間関まで三里と示されている。後12kmだと、気を引き締める。線路から離れて行き、再び 接近して才川踏切を渡り、道なりに県道の高架下を抜けて、長府の街に入って行く。
直線の街並みを進むと右側にJR長府駅が見えるので、ここで一息入れる。(9:05-9:15)

地蔵堂 慰霊碑と祠

宇部一里塚跡

JR長府駅


雨が止んだので、レインウェアを脱ぎ身軽になった。「長府宿」の街並みには古い家が点在している。少し進むと右に「八幡御旅所」が建っている。 鳥居を眺めて進むと古い土塀の家が建っている。歴史を感じる街並みだ。
その先、国道2号線の交叉点の手前左に「田上菊舎旧宅跡」の案内板が立っている。案内板によると、田上菊舎は、加賀の千代女と並び 称される江戸期の代表的女流俳人で、長府藩士の長女として生まれ、村田家に嫁いだが24歳にして夫を亡くし、28歳で尼となったと。 その後、俳道修業の旅に出発し、文人殿様の長府藩主11代毛利元義公から才知を認められ、この地で74歳の生涯を閉じたと。

八幡御旅所

古い土塀の家

田上菊舎旧宅跡


道2号線を横切ると道幅が広くなり、右に「大乗寺」「徳応寺」と立派な寺院が続く。カラー塗装された歩道を進むと道幅が狭くなり 「乃木さん通り」の看板も掲げられている商店街となる。
賑やかな商店街を進むと右に「正円寺」が建ち、境内には推定樹齢千年の県の天然記念物に指定された大銀杏があるとのことで立ち寄る。 境内に入ると、黄色い絨毯が敷き詰められている。銀杏の木の落葉が見事な彩りとなっている。

大乗寺 徳応寺

カラー塗装された歩道

黄色い絨毯 大銀杏


忌宮神社・本殿

少し進むと右に「忌宮(いみのみや)神社」が鎮座し、東の鳥居から石段を上り参拝する。
  西暦193年、長門国二の宮で、仲哀天皇・神宮皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て 西暦200年までの7年間滞在したと言われています。
また、西暦195年には、渡来人が蚕種を献上したという蚕種渡来地の碑が境内の一角にあります(シルクロード日本上陸の地)。

忌宮神社・鳥居

また、1800年の歴史を誇る「数方庭祭」は、西暦197年朝鮮半島より攻めてきた敵の大将塵輪(じんりん)を仲哀天皇自ら弓を取り、 倒したことから始まったといわれ、毎年8月7日から一週間この境内で行われ、その勇壮さに、天下の奇祭と呼ばれています。 その他、境内に宝物館があり、法楽和歌や太刀の重要文化財や能面など市指定文化財等380点が収蔵されています。(長府観光協会HPより)

  「長府宿」の中でも有名な神社に参拝し、境内で一息入れる。(10:05-10:15)

「山陽道・小月(清末)〜下関@」の「紀行スライドショー」

この近くに「維新発祥の地記念碑」があるとのことで探すが分からず地図を広げていると、商店の方があちらにあると教えていただく。 鳥居の前を国道9号線に向かった手前に立派な碑が立っているが、本当の場所ではないようだ。
「長府宿」を抜けると食事する場所もなさそうなので、市場に立ち寄り、コロッケやパンを買い求め、歩きながらおやつとする。朝食・昼食と行儀の 悪いことだ。
旧街道に戻り、街並みを眺めながら進むと左に料亭「古串屋」建っている。O君の話では高級だったと。その角を右に曲がる。曲がると石畳の 道が続き、その角に「長府藩侍屋敷長屋」が復元されている。気持ち良い壇具川に沿った石畳の道を楽しむ。この辺りは、昔の雰囲気を残す 美観地区になっているようだ。雨に濡れた紅葉が美しい。

維新発祥の地記念碑

長府藩侍屋敷長屋

壇具川沿いの石畳の道


長府毛利邸

紅葉を眺めながら石畳を進むと観光客が多く、写真撮影に忙しい。少し先を右に折れ「長府毛利邸」に向かう。
石畳を進み、風格のある門をくぐって入場する。観光客も多く邸内を散策している。
明治36年(1903)長府毛利家第14代藩主毛利元敏(もととし)によって建てられた邸宅です。
明治天皇の行在所(あんざいしょ)としても使われ、現在もその部屋が残されております。また、邸内の池泉回遊式庭園は 石灯篭、楓、池など絶妙な配置により、安らぎの空間を演出しています。紅葉の名所でもあります。(長府観光協会HPより)

入場料200円を支払い、広いお屋敷の中を見学する。立派な広間や明治天皇が宿泊された和室も残されている。天皇の泊まられた部屋が意外に 小さいのには驚いた。
部屋から眺める庭園は、紅葉が見頃で美しい。紅葉狩りに訪れる観光客も多いようだ。邸内の壁には、毛利家の家系図も掲げられ、広島から 山口へと毛利家の発展していたことも分かる。
庭園の紅葉を愛で、充実した気持ちで邸宅を後にする。(10:50-11:20)

立派な広間

明治天皇が宿泊された和室

庭園の紅葉


旧街道に戻り、石畳と紅葉の道を、道なりに左に曲がって行くと「功山寺」の総門に出る。

高杉晋作像

石段を上り、周りの紅葉を眺めながら「仏殿」に進む。立派で優雅な「仏殿」は国宝だと。
鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺様式を残しており国宝に指定されています。
元々は長福寺と呼ばれており、功山寺となったのは長府藩祖毛利秀元の菩提寺とされてからです。
また、幾度となく歴史の舞台になった ところで、毛利元就に追われた大内義長が自刃した場所であり、明治維新の転機となった高杉晋作が、奇兵隊からも賛同されないまま、 伊藤俊輔(博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊ら、わずか80人程度で挙兵した地(功山寺挙兵)でもあり、境内には馬上の 高杉晋作像があり、晋作を始め幕末・維新ファンなど歴史ファンが訪れております。
高杉晋作像は、高杉晋作回天義挙を功績を称え、昭和47年(1972年)長府博物館友の会により建立されました。 台座の石は下関市内の竜王山より発掘されたもので、高さ3.1m、幅は2.1mX1.6m、重さは推定15t。(長府観光協会HPより)

広い境内を見学し、史跡を探すも分からず、やっと「高杉晋作像」を見付ける。先程見た「維新発祥の地記念碑」の原点は、ここ功山寺だと 認識し、高木晋作が長府の街のシンボル的な人だと感じる。 先を急ぐので、史跡を探せなかったが、功山寺を後にする。(11:10)

石畳の道

功山寺・総門

功山寺・仏殿 紅葉


いよいよ最終行程の下関への道になる。この旧街道は、「野久留米街道」と云われ、静かな山沿いの道を進む。
雨が上がり、青空が見え始めた静かな道を進むと、右に「軍神廣瀬中佐・亡友展墓記念碑」と刻まれた石碑が立っている。更に進むと右に 注連縄で巻かれた「庚申塔」が祀られている。
道なりに進むと右の木陰に「地蔵堂」が祀られ、旧街道の趣を残している「野久留米街道」だ。

野久留米街道 亡友展墓記念碑

注連縄で巻かれた庚申塔

地蔵堂


視界の開けた旧街道を進むと左に生コンクリート工場が現れ、二股は右に進むと目の前に「関門大橋」の雄姿が望まれて来た。いよいよ下関だと 感慨も新たにする。
やがて、道は下り坂となり、関門海峡沿いに走る国道9号線に接続する。その手前から、右の細道を進むのが旧街道だが、先達の方が 迷った道だと。その曲がり角で、一息入れる。(12:25-12:35)
国土院地図を拡大して検討していたので、自信を持って進むことにする。 右折した細い道を直進する。左は海に続く崖で、国道の間に民家が建っている。 真っ直ぐ進むと階段があり、それを上り、民家の間の細い道を道なりに進み、右にきつい坂道を上って行くと広い道に出た。この道を左に 進めば下関だと確信し汗をぬぐう。(12:45)

生コンクリート工場

関門大橋を望む

細い道の先の階段 細い坂道


緩やかな下り坂を西に向かうと、やがて目の前に大きく「関門大橋」が望まれ、急な坂道を下って行くと国道9号線に当たり、右には 「関門トンネル・人道」の入口が見え、国道を渡ると「壇之浦古戦場址」の碑が立っている。

壇之浦古戦場址の碑

ここから先は、「薩摩街道」紀行時に、 「旧山陽道」最終地点から逆に歩き、この「みもすそ川公園」を訪れ、「関門トンネル・人道」で門司に渡り、歩き始めた懐かしい場所だ。
みもすそ川公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで早鞆(はやとも)の瀬戸といわれ、潮流も一番速く、代表的な関門海峡の景色を 見ることができます。
ここはまた、源平壇之浦合戦の古戦場であるとともに、幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあります。
公園内には源義経・平知盛両雄の像とともに、像の除幕式に参加された滝沢秀明さん (NHK大河ドラマ「義経」の義経役)中越典子さん(同 建礼門院役)をはじめ、大河ドラマ「義経」出演者の手形が設置されています。
また、長州砲のレプリカ5門も関門海峡をにらんで展示され、うち1門は音と煙の演出がお楽しみいただけます。 (しものせき観光協会HPより)

公園の中には、源義経八艘飛びの像と平知盛の碇を担いで入水する像が向かい合って立ち、横の建屋には、幕末の攘夷戦で使われた長州砲の 大砲が展示されている。みもす川を渡る赤い橋も印象的な、歴史の宝庫とも云うべき、関門海峡に臨む公園だ。(13:05-13:20)

関門大橋

源義経・平知盛両雄の像

長州砲のレプリカ 赤い橋


「山陽道・小月(清末)〜下関A」の「紀行スライドショー」

さあ、いよいよ最終行程だと、全長1068mの関門大橋の真下を進む。真下から見ても大きい橋脚の対岸には、門司の「和布刈(めかり)神社」が 望まれる。その先、右の崖の中腹に「蛭子神社」の小さな祠と鳥居が鎮座するのを眺めて、国道9号線を進む。
右の丘に「赤間神宮」の赤い「水天門」が眺められる海側に「朝鮮通信使上陸淹留之地」と記された大きな碑が立っている。「中山道」紀行時、 「朝鮮通信使街道」があり、当時の朝鮮との関係を知ったが、その通信使が上陸した所なのだと。 その前の海岸の階段には「錨」が置かれている。

関門大橋の下

蛭子神社

朝鮮通信使上陸淹留之地


国道を渡って「赤間神宮」に参拝する。

赤間神宮の赤い水天門

鳥居をくぐり、石段を上って「水天門」から境内に入り、本殿で今回の「旧山陽道」紀行が無事最終地点まで到達したことに感謝の 参拝をする。
源平壇ノ浦の合戦で入水された安徳天皇を祭神とする神宮で、境内には安徳天皇阿弥陀寺御陵、平家一門の墓、七盛塚(ななもりづか)、 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の怪談で有名な「耳なし芳一」の木像が祭られている芳一堂、「長門本平家物語」「源平合戦図」など 貴重な資料のある宝物殿等があります。
5月3日には、上臈参拝(じょうろうさんぱい)で有名な先帝祭のメイン会場となります。 (しものせき観光協会HPより)

境内の奥にある「芳一堂」には、小泉八雲の「耳なし芳一」の像が祀られている。琵琶法師の芳一が、平家一門の墓前で壇ノ浦の秘曲を 一心不乱に弾奏しているのは、平家の怨霊が芳一を八つ裂きにしようとしているのだと、和尚が芳一の顔手足に 般若心経を書きつけたと。その夜半、亡霊が来ても芳一の姿は見えず、耳だけ見えたので取り去って消えうせたと。
その横には「平家一門の墓」がたくさん祀られている。安徳天皇・平氏滅亡・耳なし芳一と「赤間神宮」は、源平合戦の最終戦場としての 悲劇が祀られているようだ。
「赤間神宮」に並んで「安徳天皇陵」が祀られているが、先を急ぎ過ぎ、パスしてしまった。(写真は「薩摩街道」紀行時のもの)

赤間神宮・本殿

芳一堂

平家一門の墓 安徳天皇陵


「赤間神宮」の参拝を終え、進むと隣に日清戦争の講和会議の舞台で有名な「春帆楼」が建っている。達成祝賀会の会場として話題なったが、 とても高いので断念した建物を見て、次に進む。
近くに「赤間宿本陣伊藤邸址の碑」が立っているのは「薩摩街道」時の写真で示す。
心は最終地点に向かっている行程で、「床屋発祥の地」の石碑を見付けた。案内板には、鎌倉時代の中期、 亀山天皇に仕た京都御所の北面の武士が、宝刀紛失の責任をとってその職を辞し、三男を連れて宝刀探索のため、当時蒙古襲来で風雲急を 告げていた長門国下関に下った。三男は、新羅人の髪結職からその技術を学び、我が国初の結髪所を開き、武士や金持ちを客として生計を 立て、宝刀の探索を継続していた。その結髪所の奥には、亀山天皇等を祀る立派な床の間があり、「床の間のある店」と呼ばれ、転じて 「床屋」という屋号になったと。

春帆楼

赤間宿本陣伊藤邸址の碑

床屋発祥の地の石碑


山陽道の大きな石碑

その先右に「亀山八幡宮」が鎮座する。
貞観元年(859)、京の都の守護のため宇佐神宮から石清水八幡宮に勧請される途中、この島の麓に停泊されました。
その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させて お祀りし、再び京に向かわれたと伝えられています。
「亀山」という名称は、当時島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だからともいわれています。 市民からは「関の氏神」として親しまれています。 (しものせき観光協会・他HPより)

亀山八幡宮の大鳥居(薩摩街道紀行時の写真)

神社の前には大鳥居があり、その横に「山陽道」と刻まれた大きな石碑が立っている。
一説によると、この地点が「旧山陽道」の 最終地点だと云われているが、我々はその先の「永福寺」前を最終地点とし、そこまで歩くことにしている。
「薩摩街道」紀行時には、横に「ここは山陽道の基点九州渡航の起地なり山陽道第一番塚なり」の案内板があったが、無くなっている。
やはり、本来の最終地点は「永福寺」だと確認されたのだろうか。 石段を上り、参拝することを省略し、記念撮影はして最終地点目指して進む。
「亀山八幡宮」から右に曲がり、細い商店街を左折するのが旧街道のようだ。下関市役所の広い交差点を渡り、国道9号線と並行に通る旧街道を 進むと右の公園に「金子みすゞと上山文英堂」の案内板が立っている。金子みすゞが、長門市仙崎から下関市の上山文英堂書店に 移り住み、働きながら童謡を作ったことへの記念碑だと。
下関市街に入り、ビルの中を進むと車道側に「馬関越荷方役所跡」の碑が立っている。北前船の寄港地として赤間関が大いに繁盛 し、長府藩が廻船問屋の元締め業をして、膨大な利益を手に入れた資金が幕末の軍資金になったと。
その先には「山口銀行旧本店」の重厚な石造りの建物が建ち、最終ゴールに向かう。

金子みすゞと上山文英堂 細い商店街

馬関越荷方役所跡の碑

山口銀行旧本店


少し進むと「永福寺」の門前に出るが、何の標識もない。
本堂は長い階段を上った所にあるが、「薩摩街道」紀行時に探したが、何も見つけられなかったので、ここが「旧山陽道」の最終地点なのだ。 ここで一息入れ、完歩達成した感激をそれぞれに味わう。
京都・大阪から歩いて来たのだから、何か記念の標識が欲しいと思うのは欲張りだろうか。

旧山陽道・踏破!!

「永福寺」前で、「旧山陽道・踏破!!」の達成記念のプラカードを持ち、記念撮影をする。
やっと、到達した満足感とともに。(14:05)
踏破への意識が強く、見落としていた「薩摩街道」紀行時に発見していた海岸線の「旧山陽道」から九州に渡る渡船跡「堂崎の渡し場跡」の 碑や横に立つ「フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の立派な碑も記して置く。やはり、達成の喜びで、周辺が見えていなかったのだろう。

永福寺(薩摩街道紀行時の写真)

堂崎の渡し場跡の碑


やっと達成した。祝賀会の前に汗を流そうと近くの銭湯をチェックしていたが、電話すれども通ぜず、諦めて第二候補の銭湯に電話する。 15時から開店するとのことなので、下関駅まで行き、三人の乗車券を購入して向かうことにする。
下関駅までの歩道橋は、前回も通ったが、半年でビル中の店も多くなったようだ。「平家踊りの群像」を眺め、切符の手配をする。

踏破達成祝い!!

切符の予約が終わり、徒歩で「日の出湯」に向かう。約10分ほど歩き、15時10分頃に到着すると、なんと満員の状況で、脱衣場も空きがない 位の盛況だ。
下関漁港に近いので船から上がった漁師さんが押し寄せていたのだ。混雑した湯船で、汗を流し、「旧山陽道」紀行踏破の疲れを 癒す。 銭湯を出る時、少しアクシデントがあったがタクシー呼び、N君が手配してくれた「ふぐ料理」の「たまや本店」に向かう。
「たまや本店」は下関漁港の対岸・ 彦島の住宅街の中にあり、良くぞこのような店を探し出したとN君の経験に感謝する。
座敷に通され、まずはビールで踏破達成の乾杯。美味しい!!
「付き出し」から始まって、「ふぐ料理」が次々に運ばれる。
「てっさ」は見事に薄切りで、こりこりと美味しい。もちろん「ひれ酒」も 注文し、甘さと香りを満喫する。
今回の紀行を含め、これまでの行程の想い出を語り合いながら、「ふぐの茶碗蒸し」「ふぐの天婦羅」「しらこ」等々、ふぐづくしの料理を 堪能し、「てっちり」に至る。身厚のふぐがたくさん入っている。これまた美味しい。
「ひれ酒」をお代わりしながら。話しながらの楽しい宴が続く。最後は「雑炊」をぺろりと平らげ、大満足の「ふぐ料理」だった。

てっさ

ひれ酒

てっちり


18時30分、楽しく・美味しかった「旧山陽道・踏破達成・祝賀会」を終え、下関駅に戻る。

満天寿司

三人は新幹線で帰るのでご苦労様と見送り、小倉に向かう。以前は、夜行バスの発着が下関もあったが、今は小倉のみとなったので戻らねば ならない。
酔いと満足感の充実感に浸りながら、関門トンネルを抜けて小倉に向かう。
バスの出発まで時間があるので、最初の「薩摩街道」紀行時に立ち寄った旦過市場の「満天寿司」に向かうことにする。
モノレールに乗り「満天寿司」に着くと 二人掛けしかないカウンターの一席が空いていたので入店し、お腹も一杯なため、小さな寿司を頼み、親父さんと話す。以前、「薩摩街道」を歩いた時に 訪れたことがあると話すと、 かすかに覚えていたようで、隣の若者とも一緒に話す。
その若者は、バンカーで大阪・豊中市出身とのことで、話が弾む。
「旧山陽道」踏破を祝ってもらい、乾杯と楽しい想い出もできた。人との触れ合いも、この紀行の楽しみの一つだと改めて感じ入った次第だ。
時間が来たので、また来る機会があれば・・・とお別れする。

「山陽道・小月(清末)〜下関B」の「紀行スライドショー」

夜行バスの停留所に向かうと小雨が降り出した。雨宿りをしながら、待っている若者が、リュック姿の小生を見て、何処に行って来られたのかと 訪ねられ、「旧山陽道」を歩いたと話すと驚き、色々と話す。就職が決まり、豊岡の実家に帰省する所だと。希望に満ちた若者の話しを聞き、 これまた力を貰った感じだ。
22時25分発の夜行バスは満席で、通路側の席に座り、気持ち良い酔いで、直ぐに眠ってしまい、途中のトイレ休憩も知らずぐっすりと。6時30分に 梅田に着き、8時前に帰宅し、風呂に入り、「旧山陽道」紀行の最終行程を終える。

<旧山陽道紀行を終えて>
3年間・21回・32日・約620kmの「旧山陽道」紀行は、無事踏破することができた。
2012年正月に、京都・三条大橋を出発し、「西国街道」を西宮神社まで行った所で、O君と大阪・北浜の里程元標跡から「中国道」歩き始め、 西宮神社で両街道を結びつけた。ここから下関までの旧街道の名称は「西国街道」「山陽道」が地域により入れ混ざっていたが、西に行くに連れ 「山陽道」に統一されていた。
塩屋からは、N君も同行することになり、小・中・高校が一緒の幼友達との楽しい紀行となった。お互いの長所を分担しながらの紀行は、 内容も深く、話したり、歌ったりの充実したものだった。
初めは、国道2号線歩きが多いのではと危惧していたが、旧街道は多く残り、快適な 歩行ができた。良くぞ、残っていたものだと思った次第だ。
峠越えもたくさんあり、地道を楽しんだり、泥道で難儀したりとアクセントがあったのは嬉しいものだった。真夏の歩行は、二度としてはいけないと 反省する過酷なものだったが、終わってみれば楽しい出来事となった。
地元の食べ物・習慣等も大いに楽しんだ。造り酒屋での試飲・広島での夜神楽・和菓子屋さん等々、それぞれの地での想い出作りもでき、 出会った人たちとの交流も有意義なものだった。
長期間、同行してもらったO君・N君とゲスト参加のSさんには、紀行を濃厚・充実した旅にしてもらった感謝・感謝だ。
この紀行で、「中山道」と「旧山陽道」を接続したので、江戸から長州までは結ぶことができた。「薩摩街道」も薩摩川内まで進んでいるので、来春には 鹿児島まで到達する予定だ。そうすれば、江戸から京都・長州を経由して薩摩まで結べることになる。夢は広がる「旧街道紀行」を これからも続けたいものだ。健康で!!(2014.12.25記)


[嘉川〜厚狭(逢坂)][厚狭(逢坂)〜小月(清末)][小月(清末)〜下関]







    
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送