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○ 「中山道No4」見聞録(醒井宿〜赤坂宿)・(距離 24.4km(今回)/ 101.7km(累計)/ 431.3km(残距離)

4−3.(59)今須宿〜(58)関ヶ原宿・(3.9km) 2008.06.28 9:25〜11:00 曇り


中山道全行程.Map
「今須宿〜関ヶ原宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

「寝物語の里」の碑で一息入れて、再び歩き始める。
少し進むと近江の国(滋賀県)と美濃の国(岐阜県)の国境を示す小さな溝と出会う。国境は川とか大きな道との感覚があったが、 20cm位の細い溝が境界なのだ。
なるほど、ここで横になって隣国の人が話すことが出来ることが分かる。まさに「寝物語の里」だと認識し、「近江路」から 「美濃路」へと歩を進める。

のどかな道を進むと「芭蕉句碑」が立ち、大津の「義仲寺」で「芭蕉の墓」があったことを思い出す。 「奥の細道」でこの辺りを巡っていたのだと。
「今須宿」の標識に迎えられ、再び、東海道本線の踏切を渡り、国道21号線を渡った横に小さな丘があり、「車返し坂」の碑が 立ち、丘の上に「車返し地蔵」が祀られている。この辺りは南北朝時代の史跡があるのには驚く。

近江の国と美濃の国の国境

今須宿の標識

車返し地蔵 説明


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

「今須宿」への道を進む。道角に立派な「常夜燈」が立っている。説明もないので詳細は分からないが、ガイドブックによると 「金毘羅常夜燈」と云われ、大坂の問屋が紛失した大名の荷物を金毘羅さんに見つかるようお願いした結果、見つかったので お礼に寄進したとか。
静かな宿場の街並みを楽しみながら進むと立派な旧家が建つ。「問屋場跡」で当時のまま現存しているのだ。軒の丸瓦には 「永楽通宝」の文字が刻まれている珍しいものだ。

金毘羅常夜燈

今須宿の街並み

問屋場跡 説明 ...丸瓦


「今須宿」の本陣は小学校になり、史跡が残っていないかと玄関や校庭の傍まで行くが、誰もいない。不審者と 間違えられても困るので諦めて次に進む。

今須一里塚

「今須宿」は余り長い街道ではなく、しばらく歩くと国道21号線とぶつかり、道の横に堂々とした「今須一里塚」が 立っている。
塚に植えられた楠木も大きく育ち、貫禄が出て来ているのは嬉しい。

国道を渡り、横の旧街道を進むと「今須峠」の緑豊かな道が続く。舗装道路であるが、木立に囲まれた道を歩くのは 気持ちが良い。
右側に東海道本線が走っている。JRの踏切を渡るが、線路が1本しかない。この辺りは地形が複雑なのだろうか、東海道本線の 上り、下りの線路が別々に通っているのだ。踏切から見ると少し関ヶ原寄りで上下線が合流している。

踏切を渡って進むと小さな「常盤御前地蔵」が祀られた祠があり、その先には「常盤御前の墓」が祀られている。
源義経の母・常盤御前がこの地で亡くなり、地元の方が祀ったと。義経元服の池があったり、「中山道」は歴史の史実が 満ち溢れていることを再認識する。

今須宿本陣の小学校

今須峠の道

常盤御前の墓 説明


前を横切るように新幹線が走っている。その高架下をくぐって進むと滝の音が聞こえる。「鴬の滝」で「今須峠」の休憩所として 昔は栄えていたそうだ。金網が張ってあり、側には行けなかったが、涼風が気持ち良い。

鴬の滝 説明

黒血川 説明



直ぐに「黒血川」とびっくりするような名前の小さな川を渡る。
「壬申の乱」時代の戦場だと。余り歴史に詳しくないが、 この地で「壬申の乱」が出て来るとは知らなかった。旧街道は歴史の宝庫だ。

再び国道21号線を横切り、旧街道を進む。
この辺りから「関ヶ原の戦い」にまつわる武将の陣地への表示が多くなるが、 今回は「中山道」に集中して進むことにする。

自害峯の三本杉 説明



「弘文天皇陵候補地」の道標があり、直ぐ傍のようなので、寄り道する。
山の中腹に「自害峯の三本杉」の立派な杉が茂っている。 ここも「壬申の乱」に因んだ史跡なのだ。
壬申の乱は、672年に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子大友皇子(後の弘文天皇)に対し、皇弟大海人皇子 (後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。
反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申にあたるためこれを 壬申の乱と呼んでいる。(関ヶ原町観光案内HP他より)

「壬申の乱」は奈良・飛鳥周辺での戦いと思っていたが、美濃まで影響があり、ここで大友皇子が自害したと。 (後程訪れる「不破の関跡」も関所としての名前は知っていたが、ここも「壬申の乱」の史跡だった。)
壬申の乱、源義経、南北朝、戦国時代、松尾芭蕉・・・と歴史のポイントとなる人物が登場する旧街道の深さを感じながら進む。

「壬申の乱」の戦場になり、「関ヶ原の戦い」では「大谷吉継」が布陣した場所である「藤古川」を渡り、住宅街を進み、 「不破の関跡」の資料館に入場する。
それまでの史跡で「壬申の乱」との関係を認識していたが、「不破の関」はまさに「壬申の乱」そのものの史跡だ。
壬申の乱の翌年、天武天皇(大海人皇子)はここに不破関をおき、天下の変乱に備えるとともに通行人たちを調べました。 越前の愛発、伊勢の鈴鹿とならんで重要な関所でした。
中央を東山道(のちの中山道)が通り、通行人は目的地や携行品などを 書いた証明書を見せて通らなければなりませんでした。関所の機能は延暦8年(789)まで続きました。
ちなみに、この不破関を境に関東、関西の呼称が使われるようになりました。(関ヶ原町観光案内HPより)


館内は「壬申の乱」に関連する史実や当時の武器・武具等が展示され、飛鳥・奈良時代にタイムスリップした感じだ。
一通り見学して退出し、元の道に戻るとそこには「不破の関跡」の立派な建物が建っている。ここに広い関所があったのだと。 この関所を越えれば、いよいよ「関ヶ原宿」になるのだと一息入れる。(11:00)

藤古川 説明

不破の関資料館 説明

不破の関跡 説明



「今須宿〜関ヶ原宿」の「紀行スライドショー」


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