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○ 「中山道No4」見聞録(醒井宿〜赤坂宿)・(距離 24.4km(今回)/ 101.7km(累計)/ 431.3km(残距離)

4−5.(57)垂井宿〜(56)赤坂宿・(5.2km) 2008.06.28 12:35〜16:15 曇り後小雨


中山道全行程.Map
「垂井宿〜赤坂宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

「関ヶ原宿」から次の「垂井宿」へ「美濃路」を進む。国道から外れた旧街道を歩くので、ゆっくりと周囲を見回しながら 進める。旧街道は緩いカーブを続けながら、住宅地に入って行く。

垂井一里塚 説明


謡曲「班女」の舞台である「長者屋敷跡」があるとガイドブックに示されているが、分らずに通り過ぎてしまう。
次の目印である 「伊富岐神社」の鳥居まで来て、見落としたことに気付き戻る。
写真と同じ門構えの屋敷があるが、説明板もなく不満を持ちながら写真を写し、500m程の損失を補う。
疲れが感じる頃の間違いは疲労度が増加する。

長者屋敷跡

伊富岐神社の鳥居














旧街道は国道21号と合流し、新日守の信号の先で国道を渡り、再び旧街道を進むと立派な「垂井一里塚」が堂々と迎えてくれる。
「中山道」の中で国の史跡に指定されているのはこの「垂井一里塚」と板橋の一里塚だけだと。
横には芭蕉ゆかりの茶室が移築された「日守の茶所」が建ち、街道を通る人々の休憩所として活用されたと。

再び国道21号に合流し、日守交差点の歩道橋を渡り、JRの踏切を渡って旧街道を進む。
「垂井宿」の入口となる「西の見附」には安藤広重の絵が飾られている。各宿場には広重の風景画が描かれているが、 承諾を得なければいけないので、すぐには掲載出来ない。飾られた宿場絵をパチリ。
「八重垣神社」の鳥居を見て、宿場の中心街に進むと立派な商家が建つ。1817年に建てられた油屋を営んでいた 「旧商家」は当時の面影を残す貴重なものだ。
「旅籠」と書かれた障子戸の旧家は観光案内所になっていて、中に入るが誰もいないので、資料を入手して 次に進む。旧家を活用して観光案内所にしている姿勢は嬉しい。

西の見附 説明 ...絵

旧商家 説明

旅籠跡の観光案内所


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

道角に大きな鳥居が立っている。「南宮大社大鳥居」とのことで、1642年に建てられたものと。
「垂井宿」のシンボルでもある「垂井の清水」に立ち寄る。大きなケヤキの下から大量の清水が湧き出し、池には色とりどりの 鯉が泳いでいる。

南宮大社大鳥居 説明

池の傍にはベンチが置かれ、子供達が遊んでいるのどかな光景を見ながら一息入れる。(13:50、35000歩)

蒸し暑さで大分疲れが感じるようになって来た。この「垂井宿」で終わるか、次の「赤坂宿」まで約5.2kmを進むか 思案する。
まだ時間が早いので、「赤坂宿」まで進むことにし、屈伸運動をして出発する。
元の旧街道に戻ると「本陣跡」の掲示があり、広大な本陣が建っていたそうだ。「垂井宿」の史跡には全てに親切な 掲示板があるのは、行政の宿場への熱意の賜物だと感じ入る。
「問屋跡」の立派な旧家が建ち、建物の広さが示されており、「垂井宿」の大きさを象徴しているようだ。
昔の「旅籠・亀丸屋」が現在でも営業していると記され、驚きながら通り過ぎると「紙屋塚」への矢印があるので 細い道を縫って探す。
小さな祠が祀られ、説明によると美濃紙の発祥の地とか。有名な美濃紙はここで生まれたのだと知識が増えたことを喜ぶ。

垂井の清水 説明 ...鯉

問屋跡 説明

紙屋塚 説明


いよいよ「垂井宿」から相川を渡って、「赤坂宿」に向かう。
相川を渡る「相川越え」は人足渡しだったが、架橋しようとするが、相川が暴れ川のため大変だったそうだ。 暴れ川とは思えない静かな川を渡り、少し進むと三叉路となっている。 その角に「中山道・美濃路」と記された木製の道標が立っている。

「垂井追分道標」で「中山道」と「東海道」へ向かう「美濃路」を示している。「美濃路」は「中山道」の美濃の国を通る 街道の名称と思っていたが、「美濃路」と名付けられた街道があったのだ。
「中山道」を東に向かうと新興住宅地の造成とスーパーマーケット建設の造成地に出会う。数年後にはこの辺りの光景も大きく 変化しているだろう。大垣のベットタウンとして発展するのだろう。
「平尾御坊道標」を過ぎ、進むと「青野一里塚跡」の碑と大きな「常夜燈」が迎えてくれる。

相川越え 説明

垂井追分道標 説明

青野一里塚跡


静かな住宅街や田圃が青く茂っている田園地帯を淡々と進む。少し疲れが感じられ、歩幅が段々と短くなって来るのは止むを得ない。
何処かで「国分寺跡」への標識があると思いながら進むと国道(県道?)の広い道とぶつかり、「国分寺跡」を過ぎて しまったことが分かったが、戻る気力が無くなり、そのまま進むことにする。 道脇に石仏が祀られているので確認すると源義経に関連する史跡「青墓のよしたけあん」と。源氏の再興を願った竹が成長した 寺だと。
少し国道側に「照手姫水汲井戸」が残っている。この辺りは小栗判官・照手姫の史跡がたくさんあるのだ。

赤坂宿への道

青墓のよしたけあん 説明

照手姫水汲井戸 説明


やはり暑さと疲れで少しバテて来た。淡々と短い歩幅で進むと東海道本線と交差し、越えた所の信号で止まっていると その町名が面白い。「昼飯町」と書かれている。面白い名前だと思いながら進むと、お寺に町名の由来が記されている。 「ひるい」と読むと。「ひるめし」が下品とのことで「ひるい」になった下りは面白い。疲れが少し取れたようだ。

廃線跡を渡った所に小さな丘があり、「関ヶ原の戦い」の前哨戦があった「兜塚」であり、「御使者場跡」であると。 所々に旧家が建つ「赤坂宿」の街並みを楽しみながら歩を進める。

昼飯町の信号 説明

御使者場跡 説明

赤坂宿の街並み


細かい雨が降って来た。傘を差す程ではないが、急がねばならない。

お嫁入り普請探訪館 説明

のれんに「お嫁入り普請探訪館」と記されている古い家屋をのぞくと「どうぞ・どうぞ」と招き入れられる。
管理人の女性の方から「赤坂宿」の歴史を伺う。
「美濃路」の中でも大きな宿場で、近くにある石灰石の産地として鉱業・商業が栄え、その運搬で水路も開発されたと。

この「お嫁入り普請」とは「皇女・和宮」が降嫁される時、この「赤坂宿」で宿泊することになり、見栄えを良くするため 短期間で街道沿いの建屋を二階建に建て替えたそうだ。
54軒も映画のセットのように建て替えて、お迎えしたとのことだ。 いつの世もその場を取り繕う知恵が生まれるのだろう。
管理人の方の説明は続き、石灰岩から見つかった化石、地元の陶器、町の見取り図等々、30分以上の説明を受けた。
今日は何処に泊まるのかと質問されたり、銭湯がないかと尋ねたりと楽しい交流を深めた楽しい時間だった。 ぜひ又来て下さいと見送りを受け退出する。

小雨が降り続いているので、急いで近くの史跡を巡る。
「赤坂宿・脇本陣跡」は碑が立っているだけで、「谷汲道道標」は「西国三十三ケ所」の第33番札所「華厳寺」への 道標で、その前には立派な旧家が建っている。
「赤坂宿」はまだ見る所は多いが、雨が強くなって来たので、JR美濃赤坂駅に向かう。銭湯はないので、駅の水道で 汗まみれの身体を拭き、新しいTシャツに着替えてすっきりする。
列車は1時間に1本なので、30分程待たねばならない。駅前には何もなく、仕方なく自販機で甘い冷コーヒで喉を潤す。(16:15)

赤坂宿・脇本陣跡 説明

谷汲道道標

JR美濃赤坂駅



「垂井宿〜赤坂宿」の「紀行スライドショー」


16時51分発の列車で大垣に向かう。時刻表では東海道本線の中に記載されているが、美濃赤坂線と云う支線で 2駅で大垣に着く、盲腸路線だ。偶然にも「青春18きっぷ」で踏破している盲腸路線の一つを踏破した。
雨が強くなった大垣駅前の居酒屋で、今日の行程を振り返りながら乾杯する。

早朝から歩き始め、「中山道」の「近江路」から「美濃路」に入ることが出来た。
宿場以外は自然豊かな旧街道を楽しみ、個性のある各宿場の特徴を探索し、当時の旅人の雰囲気を味わった。 宿場への想い入れの強弱が地元の行政・住民で異なることもよく分かった。史跡や文化を保存することは 地元の活気を呼び起こす一つの手段だと歩きながら感じる。

米原を越すと運賃も高くなるので、今後は「熊野古道・見聞録」の時と同じように「青春18きっぷ」を活用して ボツボツとお江戸に向かって進んで行きたい。
大垣から米原乗換えで帰ると「熊野古道」時に比べて早く帰宅出来る。時刻表で検討すると諏訪辺りまで日帰りで 可能だ。じっくりと検討して進めて行こう。
高槻に着くと雨も小雨で、自転車で8時30分に帰宅する。今日の歩行は49688歩で、しっかり歩きは38309歩だった。


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