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○ 「中山道No8」見聞録(伏見宿〜大井宿)・(距離 35.3km(今回)/ 188.9km(累計)/ 345.1km(残距離)

8−2.(49)御嵩宿〜(48)細久手宿・(11.8km) 2009.04.02 11:30〜16:00 晴れ


中山道全行程.Map
「御嵩宿〜細久手宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

国道21号線の歩道を「細久手宿」に向かって進み始める。天気は最高、国道の車の流れも少なく、ノンビリと歩を進める。
真っ直ぐな国道を進んで行くと「稲荷神社」の赤い鳥居が見え、少し行くと左側に「中街道との追分」の石碑が立ち、 その横に「和泉式部廟所」がひっそりと建っている。和泉式部がこんな所で亡くなったとは知らなかった。

国道21号線

中街道との追分

和泉式部廟所 説明


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

中山道の道標

静かな旧街道

ここから国道を離れて、狭い旧街道に進む。
道標が辻々に立っているので、道に迷うこともなさそうなのは有難い。
基本的な青い道標に加えて、これからは「東海自然歩道」をも通るので、道標が両立しており、ガイド役を果たしてくれる。
国道筋と違って野道の旧街道を歩くのは楽しくもあり、うねうねと曲がりくねった道は雰囲気もあり嬉しい限りだ。
これが地道であれば、最高だが。

青空の下、少し新芽が芽生えて来た木々や雑草を見ながら気持ち良く歩を進める。
道端に小さな「馬頭観音像」がひっそりと祀られ、旧街道の道だと改めて感じる。少し進むと「牛の鼻欠け坂」の碑が立ち 地道の急な坂に向かう。この 面白い名前の由来は、牛がここを通るときに自分の鼻を地面にこすって、鼻が傷つき欠けてしまうほど急な坂道である・・と 云うことから名が付いたと。
地道になったので、坂は急だが、足腰には優しいのは嬉しい。

馬頭観音像

牛の鼻欠け坂の碑 説明

牛の鼻欠け坂


地道で急な「牛の鼻欠け坂」を自然の息吹を楽しみながら上って行くと、石の祠に囲まれた「寒念仏供養塔」が祀られている。 旅人達が念仏を唱え、旅の安全を祈願したのであろう。
落葉を踏みしめながら、木々に囲まれた快適な街道を古人の気分で進む。
峠を越えると舗装された県道になり、地道を歩いた後なので膝に負担を感じる。県道の脇にも「馬頭観音」が祀られ、 少し進むと階段があり、上ると「耳神社」の社が祀られている。
「耳神社」は、全国でも珍しい、耳に霊験のある神社で、願いがかなったら、自分の年令の数だけの竹の錐で簾を作り、 奉納する習わしがあるそうだ。社の横には錐や竹の錐の簾が奉納されている珍しい光景を目にした。そう云えば、 耳の神社は聞いたことがなかったと。
耳の病はないが、紀行の安全を願って参拝する。ここで、ジャンパーを脱いで身軽になるが、下着は汗で一杯だ。 水を飲み、一息入れる。(12:25-30)

寒念仏供養塔 石仏

森の中の地道

耳神社 説明.. 奉納品


一息入れ、再び県道を進むと「謡坂(うとうざか)の石畳」に分岐する。旅人は疲れを忘れ、自らを鼓舞するために謡を歌ったこと からこの名が付いたと。
「鵜沼宿」と「太田宿」の間に「うとう峠」は否定的な響きだったが、ここは苦しさを紛らわすために、 歌を歌うと前向きなとらえ方は面白い。

謡坂の石畳 説明

聖母マリア像 説明

石畳の途中に「左・マリア像」の道標が立っているので、旧街道から矢印に導かれて100m余り進むと、「聖母マリア像」が静かに 祀られている。
何故、こんな所に!?・・・
昭和56年3月、謡坂地内で道路工事中にキリシタン信仰の遺物が偶然発見されました。
その後の調査で、謡坂地区等で数多くの貴重な遺物が相次いで発見され、この地に多くのキリシタ信者が居た事が判明し、 歴史上大きな資料ともなりました。 幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず、ある期間信仰が続けられたのは、一種の奇跡であると考えられます。
こうした例は全国でも非常に珍しく、広く話題を呼び、遠くから多くの人が来訪され、又、東海自然歩道(旧中山道)に沿う地でもあり、 関心を寄せる人も多くなりました。(御嵩町観光協会HPより)

キリシタン信仰は天草・五島列島等、九州で多く見られ、南蛮貿易等で普及したと思っていたが、日本の真ん中にも波及していたのには 驚いた。織田信長の領地に近いので、その影響もあったのだろうか。

石畳が終わり、舗装道路の坂道を上り切った所に、昔は茅葺だったであろう古い民家が建つ。これは安藤広重が「中山道御嶽宿」の モデルとなった茶店跡だそうだ。
この「謡坂」の頂上に建つ茶店(きちん宿)で一息入れる旅人の姿が、思い浮かぶ。(恵那の「中山道広重美術館」で今回通過した宿場の 浮世絵の葉書を購入したので、対比する)

安藤広重のモデルの茶屋 説明

安藤広重の御嶽宿・浮世絵


謡坂一里塚 説明

少し進むとこんもりと盛り上がった「謡坂一里塚」が立っている。
前の「比衣一里塚」が石碑だけだったので、自然の一里塚が 復元されているのは嬉しい。街道の両側にはなく、片方だけなのは寂しいが、久し振りの一里塚のこんもりとした塚を見て 街道歩きの実感が湧く。
明治41年に2円50銭で払下げを受け、取り壊されたが、昭和48年に地元の有志によって復元されたと。「聖母マリア像」やこの 「謡坂一里塚」と云い、地元の方の史跡保存への熱意には頭が下がる。

少し進むと「十本木立場」の碑が建つ。
人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、やがて旅人の休憩場所となったそうだ。
休息する場所もないので、歩を進めると「石仏」が祀られ、少し進むと「一呑の清水」が湧いている。
清水は石組みで二つに仕切られ、左側に「一呑の清水」碑と石地蔵が立てられ、旅人用として用いられ、下の仕切りは牛馬用として 分けられていたと。
また、皇女和宮が降嫁する際、この清水を賞賛され、多治見に宿泊した時、取り寄せて点茶されたとも伝えられている。しかし、 今は生水は飲まないようにとの注意書きがあるので、諦めるが、夏場だと顔を洗いたくなる清水だ。

鉄道から離れた交通の便がない木々に囲まれた気持ちの良い旧街道を進む。朽ちかけた土蔵と竹林の道は昔に帰った趣きがあり、 「熊野古道」の自然を思い出しながら、快調に下って行く。


十本木立場 説明

一呑の清水 説明.. 拡大

土蔵と竹林の道


また、湧水が現れた。「唄清水」と云われ、馬子が馬子唄を唄いながら、馬に水を飲ます光景が想像出来る。この辺りは湧水も 多く、峠道の中のオアシスのような街道だったのだろう。
県道と交差すると時々車が狭い道を行き来するようになる。右手にレストラン(LaProvince)があるらしく、カップルや女性連れが訪れている。 こんな辺鄙な所で商売が成り立つのか・・・と。
その向かいに階段があり「諸の木坂の御殿場」に上り、この展望台で一息入れる。ここは皇女和宮も休憩したとされ、 御岳や恵那山を望むことができる。御岳の奥には白く雪を頂いたアルプス連邦が望める。青空と周りの山々を眺めながら、 汗を拭い、涼を取る。(13:40)
階段を降りて、再び街道を進むと「馬の水飲み場」があり、小さな水溜り風の湧水が蓄えられている。

唄清水 説明

御殿場 説明.. 展望

馬の水飲み場 説明



「御嵩宿〜細久手宿@」の「紀行スライドショー」


気持ち良く「諸の木坂」を下る。杉木立から木漏れ日が降り注ぎ、快調に周囲を見回しながら進む。
木立の切れ目に牧場らしき建物がある。小型のサイロなのだろうか、白い小屋(?)がいくつも建っている。動物の姿は見られないが、 牧場なのだろう。

熊野神社 本殿

「諸の木坂」を降り、県道と合流する。事前に調べている時、「中山道」から少し離れた所に「熊野神社」があることを 確認していたので、立ち寄ることにする。
「赤坂宿」への紀行時にも記したが、「熊野古道」紀行時、色々とお世話になり、ご指導いただいたサイト 「みくまのねっと」では、全国に祀られている「熊野神社」を参拝する「全国熊野神社参詣記」と云うコーナーを作り、有志が 参詣記を投稿している。
前回は立ち寄れなかったので、この「熊野神社」には参拝して、お礼を兼ねて投稿しようと考えていた。
津橋の交差点を左折して少し行くと鳥居があるので進むと「熊野神社」と記されていたので、参拝する。 石の鳥居をくぐり、石段を上ると木の鳥居があり、それは「高野山町石道」で見た「二つ鳥居」と同じ様に、鳥居の形が変わっている。 100段以上ある階段を上り、本殿に参拝する。誰も居ない静かな空間に身を置き、「熊野古道」紀行時を思い返す。(14:00)
本殿の前に舞台があり、良く見ると回り舞台となっている。地元の方がこの神社で演じていたのだろうが、現在でも 続いているのか確かでない。舞台の下にも行くが、動かす道具等分からなかった。
「中山道」に戻り、県道を少し進み、再び旧街道に入る。「天満宮灯篭」が立つとあったが、灯篭は崩れて並べられていた。 民家の間を通り、日当たりの良い地道の「ふじあげ坂」を再び上り出す。

木漏れ日の諸の木坂

崩れた天満宮灯篭

ふじあげ坂


地道の坂道を上る。何度も云うようだが、舗装道路より石ころが転がっていても地道が良い。
前方に石垣がそびえている。江戸時代酒造業を営んでいた「山ノ内嘉助屋敷跡」だと。この山の中に立派な石垣を築くのは 繁盛していたのだろうと想像を膨らませる。
竹林に囲まれた旧街道を進む。気持ち良い。道端に「馬頭観音」が祀られ、自然豊かな木漏れ日の道、雑木林の道を 楽しみながら進む。

山ノ内嘉助屋敷跡

竹林の旧街道

木漏れ日の道


御嵩町から瑞浪市に進む

鴨之巣一里塚

鴨之巣一里塚 説明

道の両側に「鴨之巣一里塚」が堂々と立っている。両側にこんもりとした塚があるのは 久し振りで、山の中の旧街道で出会って嬉しくなる。
塚の上に木も植わっているので、余計に嬉しく、一里塚の横で一息入れる。

古人の気持ちになって、誰一人通らない一里塚の風情を独り占めする。
静かで、時々涼風が吹き、青空の下、大きく伸びをして深呼吸する。
自然豊かな旧街道での充実したひとときだ。(14:30)

名残惜しげに、次の行程に進む。
横にはゴルフ場があるそうだが、気付かずに進んでいる。

この辺りは「秋葉坂」と云われるそうで、下り道を 落葉が積もった地道をサクサクと音を楽しみながら進むと「切られ洞」碑が立つが何なのか?
更に快調に歩を進めると「鎌倉街道追分」碑が立つ。ここから、東海道方向に進み、鎌倉へ通じる道があったのだろう。 そばに「道祖神」碑も立っている。
坂道を下ると石垣があり、その上に「秋葉坂の三尊石窟」が祀られている。石窟を三室に分けて石仏が祀られる珍しい ものだ。三面六臂の馬頭観音、千手観世音、秋葉前立仏に旅人は道中の安全を祈ったのであろう。
坂を下り、平岩辻に出て、再び県道の舗装道路を進む。田畑が広がり開放的な雰囲気になる。

落葉の道

鎌倉街道追分碑

秋葉坂の三尊石窟 説明



「御嵩宿〜細久手宿A」の「紀行スライドショー」


秋葉灯篭

「細久手宿」の道標を過ぎると独特な形の「秋葉灯篭」が迎えてくれる。地名からなのか、由緒が分からないが、時々見掛けるので、 確認したいものだ。
平岩の交差点には土に埋まって、少しだけ顔を出す「平岩の道標」が立つ。この辺りは交通の要所だったのだろう。 舗装道路の道脇には「石仏」が祀られ、旧街道の風情を感じながら進む。

「くじ場跡」の石碑に出会う。「くじ場」とは何だろう?
ネットで調べると同じように「中山道」を歩いている方が、教えて・・・との問いに、「くじ場跡」とは、往時、駕籠かきたちが荷の 順番を決めるためたむろしていた 場所 で、次第に駕籠かきだけでなく宿場の人足たちが、休んだり博打を打ったりした 所に なったという場所だと。また、「細久手宿」には旅籠が何軒も有ったわけですが、一部の旅籠に客がかたよらないように、 泊まる旅籠をくじで決めたんだそうだと。昔から、くじ引きは色々なケースで行われていのだろう。面白い

田舎道をのんびりと歩く。車も通らない舗装道路は足腰の負担を除くと気持ち良く歩める。小さな社が建っている。 「津村社」で薄れた説明板を読む。

津村社 説明


津島神社(天王様)由来、尾張津島神社、京都八坂神社、江戸天王社の分詞である。 12世紀後半より津島神社として文献に、また室町時代より牛頭天王社、津島様と呼ばれる。
牛頭天王は朝鮮新羅の牛頭山の神、インド祇園精舎の守護神、地獄の念怒鬼神の 変化などと伝えられていますが本来は防疫の大神である。
牛頭天王が旅に飢え、金持ちの巨里将来に宿を乞われたが断られ、弟の蘇民将来に迎えられて、 わらの布団に粟の飯をご馳走になる。 その礼に護符を与え、旅の災いと厄病が発生しても、これを持つものは助かると告げました。 以来この護符を「蘇民将来」と呼び厄病除けはもちろん交通安全の護符として信仰される。

「蘇民将来」の名前が出て来たのには驚いた。この地方の家にまだ〆飾りが飾られているのを見て、伊勢地方と同じで 「蘇民将来」の名残があるのかと思っていたので、ある面納得した。

少し進むと「穴地蔵」が石窟の中に祀られている。この辺りのお地蔵様は石窟の中に祀られているのも不思議だ。 これから東に向かうと同じように石窟で囲まれているのだろうか?
「細久手宿」の入り口にも当たる「日吉神社」の鳥居を眺めて、今日の宿泊地である「細久手宿」に向かう。

くじ場跡碑

のどかな旧街道

穴地蔵


枡形になった道を進むが、街道らしい町並みはないのは寂しい。当時の宿場町は焼けて、この山間の集落は交通の便もなく 寂しくなったようだ。
「脇本陣跡」「本陣跡」の碑を見つけて進むと今日泊まる「大黒屋」の古い建屋が堂々と建っている。

細久手宿・旅籠大黒屋 看板

安藤広重の細久手宿・浮世絵


まだ時間が早いので、「細久手宿」を巡ることにする。「大黒屋」さんの前を通り過ぎ、余り残っていない史跡を訪ねる。 静かなウネウネした道を宿場の外れまで行くと「高札場跡」碑が立ち、高台に「庚申堂」が祀られている。
「庚申堂」は宿場の北東鬼門除けとして、寛政の大火の後に再建されたと。
「細久手宿」の史跡を見たので、宿泊所の「大黒屋」さんに戻る。

細久手宿への道

細久手宿・本陣跡

庚申堂 説明


「御嵩宿」からは交通の便が悪く「細久手宿」や次の「大湫宿」へは朝夕のバスがJR中央本線と接続されているに過ぎず、 日帰りは困難で、その次の「大井宿」が恵那駅に近いので、その間31.4kmを歩かなければならない。

大黒屋玄関 木板と木槌

健脚の方を除く一般人は何処かで宿泊しなければならない。
そこで、この「細久手宿」の「大黒屋」さんが格好の宿泊所として 先達が紹介されている。
150年前の安政6年(1859)に建てられた旅籠が現存し、現在も宿屋として継続されているのだ。 問屋役であった「大黒屋」さんは、看板にもあるように「尾張藩指定本陣」として認められ、卯建・玄関門・式台・上段の間等が 許されていたそうだ。

16時に宿屋にチェックインする。 玄関には木板と木槌が置かれ、木槌を叩いて到着を知らせたのであろう。当時の民家にはない玄関から畳の広間に上がり、 箪笥階段をトントンと2階に上ると階段が吹通し風になっており、階段の周りが廊下になっている。
奥の部屋に通され、昔そのままの雰囲気一杯の座敷で一息入れる。床の間、掛け軸も時代が感じられ、江戸時代にタイムスリップした 趣だ。
汗一杯になったので、風呂に入る。さすが、風呂は五右衛門風呂ではなく、普通の風呂で、ゆっくりと足腰をマッサージしてくつろぐ。 ひと汗流して、座敷で今日の行程を思い出しながら過ごす。
今日の客は小生と男性2人連れの2組だそうで、車で来られて少し遅くなると。18時から1階の奥座敷で夕食となる。若女将の 心のこもった地元の料理で、山菜のオードブル、ユリ根、胡麻豆腐に鯉の煮付けと山の幸だ。ビールで今日の紀行を祝し乾杯。
次々と料理が運ばれる。ヤマメの塩焼き、山菜の天婦羅、レンコン饅頭、茶碗蒸しと全て美味しい。芋焼酎も頼んで舌鼓を打つ。 座敷の調度品も年代物で、一人で食べるのは寂しいが、ゆっくりといただく。大満足の夕食だった。

階段の上の回廊

泊まった部屋

夕食の一部



「御嵩宿〜細久手宿B」の「紀行スライドショー」


食事が終わった時に、同宿の男性2人が到着され、風呂に行かれる時にご挨拶。部屋に帰って、旅館の寄せ書き帳を読む。 東から、西から「中山道」を歩く方々の感想や体験記を拝読する。圧倒的に年配の人が多く、80才近い方も居られる。 女性連れも多いのには驚く。「東海道」を歩き終え、「中山道」にトライしている方も多い。
今日は2組だが、明日は団体客が宿泊するそうで満室とか。歩くことに価値を置く人が、多くなっているのだろう。

今日の行程は自然豊かで、今までの中では一番良かった。「一里塚」も残り、自然と共有できたことは嬉しい。 明日は今日以上に旧街道の雰囲気が残っているらしいので、楽しみだ。
さあ、初めての「中山道」での宿泊、ぐっすりと眠ろう。今日の歩行歩数は32000歩だった。




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