○ 「中山道No8」見聞録(伏見宿〜大井宿)・(距離 35.3km/ 188.9km/ 345.1km) 8−4.(47)大湫宿〜(46)大井宿・(13.7km) 2009.04.03 9:30〜14:20 晴れ
「大湫宿」の全景を眺めて、次の「大井宿」に向かって「寺坂」を上って行く。
この1番目の「寺坂」から「大井宿」手前の「西行坂」までにある険しい峠道が「十三峠」で、 「十三峠におまけが七つ」と 云われる位にアップダウンがあり、中山道の中でも難所のひとつだと云われている。 昨日越えて来た「牛の鼻欠け坂」「謡坂」「琵琶峠」等の峠道以上なのかと気を引き締めて一歩一歩踏み出す。 すぐ左手の道の上に石仏や墓石が並んで立っている。「寺坂の石仏群」で、これからの道中の無事を願って目礼して 進む。 地道の坂道を気持ち良く上って行くと「童子ケ根」の石碑が立つ。これから続く史跡にはこのような石碑で表示されて いることが多く、行政の姿勢が感じられる。 峠道の横には茶畑が広がり、少し上ると「山之神坂」の碑が立つ。この峠道が「山之神坂」と呼ばれる2番目の峠なのだろう。 これが13プラスαあるのだろう。数え始めるが、途中で分からなくなってしまった。
杉木立の地道は木漏れ日が溢れて、涼しさと暖かさが感じられる気持ちの良い道だ。このような街道が続くのは 楽しい。少し下り、落葉を踏みしめながら、坂を上って行くと「しゃれこ坂」の碑が立つ。 照葉樹の道、杉木立の道と変化を感じながら、時々聞こえるウグイスの鳴き声を楽しむ。
村道との分岐点を越え、再び木漏れ日の道を進むと薄暗い林の中に石畳があり、その先に「尻冷やし地蔵」が祀られている。 珍しい名前の由来は、横にある大木の根元から涌き水があふれ、地蔵の尻を冷やしているようなところからこの名前が付いたそうだ。 「十三峠」は水が少ないので、ここは旅人の憩いの場であり、いつも水に恵まれているお地蔵様に感謝していたのであろうと。 現在は湧水が見られなかったが、お地蔵様は静かに立っていた。 坂道を少し上ると石窟の中に観音様が祀られている「三十三観音」が迎えてくれる。石窟は木製の格子の扉で守られ、 中には三十三体の観音さまが安置されている。峠の真ん中に神秘的な空間が存在する。そのすぐ傍に、「阿波屋茶屋跡」の 石碑が立っている。この辺りに峠の茶店があり、旅人が一息入れていたのだろう。 「曽根松坂」の石碑を見ながら杉木立の峠道を進むと「ぴあいと坂」の木製の碑が立っている。色々な坂が繰り返し現れるので 「十三峠」の由来が分かる。この峠道の両側は「中山道ゴルフ倶楽部」のゴルフ場になっているが、ここからはコースは分からない。
杉木立の道の間からゴルフ場のグリーンが望まれるが、誰もプレーしていないようだ。しかし、両側がゴルフ場になっていても、辛うじて 旧街道が残されているのは、史跡保存への熱意があったのだろうかと。 前方から虫取り網を持った男性が来られ挨拶する。「ギフチョウ」を探しているとのこと。桜が開花する時期に現れるそうなので、 探し続けているが、見つからないと云っておられた。道中、蝶の姿は見なかったと云ってお別れする。 今回の紀行で初めて出会った方で、珍しい蝶の採取に努力しておられるのに敬服する。 落葉が積もる杉木立の道を少し進むと「巡礼水と馬頭様」の標識があり、下に泉の跡らしき窪地があり、道の上には「馬頭様」が 祀られている。昨日も「馬頭様」がたくさん祀られていたが、「十三峠」も多いのであろうか。 この辺りは「巡礼水の坂」との表示を見て下って行く。
これが「権現山一里塚」で 「江戸へ九十里、京都へ四十四里」と表示されている。 これは西からほぼ1/3進んだことになる。 まだ今まで歩いた倍以上の距離があるのだと改めて認識する。 この「権現山一里塚」の塚の上には木が植わっていないのは寂しい。 ここで一息入れる。陽溜まりの一里塚の影を探して 腰を降ろし、静かな空間を楽しむ。まだこれからの道中は長いと実感しながら。(10:10) ここからは「樫ノ木坂」との石碑の標識を見てすすむと、きれいな「石畳」が続く。 峠道で石畳と地道はどう違うのだろうと 考えたりしながら下ると今度は「吾郎坂」の標識があり、舗装道となり下り切ると視界が開け、田畑が望まれる。 民家の間を抜けて進むと「炭焼立場跡」の水飲み場があり、水が蓄えられている。旅人はここで馬に水を飲ませ、一息 入れたのであろう。
「刈安神社」の石段を見て進むと「鞍骨坂」の標識があり、木立の中の舗装道路が続く。本当に「○○坂」が多い。 「十三峠におまけに七つ」の意味が分かるような気がする。更に「権現坂」が続き、途中に「大久後の観音様と弘法様」の の標識があり、観音堂と「弘法大師」の像が祀られている。「弘法大師」もこの辺りまで来られていたのだろうかと。 峠道を下ると畑に出る。耕運機を使って畑を耕している方と目が合って、こんにちはと挨拶をすると、頑張れよと声を 返していただく。一寸した地元の方との触れ合いも楽しいものだ。 再び峠道に入り、「灰くべ餅の出茶屋跡」の碑が立っているが、痕跡は見当たらない。炭火で焼いた餅が名物の茶店があった のであろうと想像する。 気持ち良い峠道を進むと東屋が見え、その脇に「観音坂の霊場巡拝碑」が立ちっている。説明がないので何処を巡るのか? 岩の上に「観音峠の馬頭様」が祀られていたのを後で知ったが、パスして進んでしまった。地道の方が良いので・・・。 下った所に「大久後観音坂」の石碑が立ち、東から来る人にアップダウンが続くことを知らせている。
「大湫宿〜大井宿@」の「紀行スライドショー」 峠道を抜けて畑に出ると、ここでも耕運機で耕している。この地域では春の訪れで活動を開始したのだ。 「大久後の向茶屋跡」の碑が立つ。峠道が続くので方々に茶店が設けられ、旅人に憩いの場を提供していたのだ。 農道と交差して舗装道路を歩く。「中山道」の石碑が道端に立ち、今までの峠の名前でない本来の街道名に出会い 元気付く。ここが瑞浪市と恵那市の境界のようだ。 地道の「茶屋坂」の標識を進み、更に進むと「三城坂」の標識が立つ。色んな峠道が入り組んでいるのか。その標識の 近くに石碑が立っているが、文字は判読出来ない。「ばばが茶屋跡」の標識は見当たらないが、この辺りだろう。 「茶屋坂の石畳」を進み、民家が建つ道の「馬茶屋跡」の標識を過ぎると「西坂」の石碑が立つ。この辺りに「ちんちん石」 と云う叩くとチンチンと鳴る石があるらしいが、分からなかった。
坂を下り切ると広々とした平地に出た。この辺りは深萱の集落のようで、大きな「ここは中山道の深萱立場」の看板が立ち、 地図も記されている。今まで歩いた行程、これからの道のりを確認する。少し進んだ所に「深萱立場跡」の説明板が立つ。 県道と合流して進むと「藤村高札場」が復元されて堂々と立っている。「大湫宿」の入口にあった高札場以来で、この辺りも 宿場に近い存在だったのであろう。 ここで失敗する。何か考えていたのだろうか、県道をそのまま進んで行き、道を間違えていたことに気付く。元に戻り、良く見ると 県道を渡り、横を流れる川を渡る橋に「中山道」の矢印があった。 橋を渡り、地道の坂を上って行く。「佐倉宗五郎碑」と小さな社があり、その前には「三社灯篭」が立つ。地道の坂を上ると 「黒すくも坂」と記された古い石碑が立っている。古い石碑だ。 民家の間を通ると数人の方が作業をしておられる。何かを容器の中に蒔いておられるので、モミですかと尋ねると、そうだと。 山合いの集落ではこの時期から早苗の準備が始まっているのだ。気を付けて・・の言葉に送られて先に進む。
石畳の残る峠道を上ると「うばが茶屋跡」の標識が立つ。この辺りにも茶店があり、お婆さんが切り盛りしていたのだろうと想像を 膨らませる。更に進むと字が読めない程の古い「紅坂」の石碑が立つ。 「ぼたん岩」の標識があり、周辺を見回すが、それらしき岩を見つけられず進む。後で調べると道の真ん中にある石がぼたんの 模様をしていると。もう少し予習をすべきだった。 こんもりとした塚が道の両側に盛り上がる「紅坂一里塚」が現れる。
「紅坂一里塚」は塚の上に木が植わっているが、まだ若木でこれから成長し、茂って来るのが楽しみだ。 ここで、少し早いが昼食にする。 一里塚の横に座って「大黒屋」さんで作ってもらった「おにぎり」を。
素朴だが旧街道の昼食には一番だ。暖かい陽射しを浴びながら、涼風を心地よく感じ、うぐいすの鳴き声を聞きながら おにぎりを味わう。ゆっくりと一息入れて次に備える。(11:40-12:00) 今回歩いている「大湫宿」から「大井宿」の間は、距離も長い(13.7km)上に、史跡が20-30m毎に点在するので、チェックして行くのも 大変だし、見落としも多くなる。 しかし、本来の旧街道「中山道」を歩いているのだと実感出来るのは嬉しい。自然が豊富で、街道沿いには史跡があり、 疲れを忘れて、前に前に進める魅力的なコースだ。 京都から歩いた中で、今回の「御嵩宿」から「大井宿」までは一番だと思いながら、休息する。 お腹も膨れて「大井宿」を目指して進む。「夫婦岩跡」の標識があるが、それらしき岩は分からない。峠道から平坦な野道になり 前方に高い送電線の鉄塔が見え、その方向に進む。 「ぴやいと茶屋跡」「平六茶屋跡」の標識から、この辺りにも茶店が栄えていたのだろうと。 少し進むと「平六坂」の峠道になり、灌木の中を上る。道端に「妻の神」の標識があり、探すと林の中に屋根型の石碑が 祀られている。夫婦和合・子宝の神とされる道祖神の一種だと。 峠道は次の「かくれ坂」となり、下ると小さな四つ谷の集落に入る。「大名街道の説明板」「竹折村高札場跡」の標識もあるので、 街道筋でも人口が多かったのであろうと。休憩所も設けられ、地元の方の熱意が伝わる。
「石州さま」の意味不明な標識を過ぎ、せせらぎの音が聞こえる「乱れ川」には「乱れ橋」が架かっている。なかなか洒落た ネーミングの由来は粋なものだ。 説明文によると、ここからの峠が「乱れ坂」と云い、坂が大変急で、大名行列も乱れ,旅人の息も乱れ,女性の着物の裾も乱れたのが, 坂道の名の由来だと。 「乱れ川」の水量は今は少ないが、往時は石も流れる急流だったため、飛脚が橋を架け馬一駄につき二文の通行料を徴収したと。 当時の難所もこの名前や由来を読むと、何となく微笑んで来るのは失礼かと思いながら、「乱れ橋」を渡り、「乱れ坂」に向かう。 「乱れ坂の石畳」は勾配があり、名前の由来を理解しながら上るとこの山奥で村役人が袴で土下座して役人を出迎えた場所の 「下座切場跡」の標識に出会う。 曲がりくねった峠道の途中に「乱れ坂」の石碑が立つ。
説明文が読み難いが、 旅の中間(ちゅうげん)が2人,地蔵の前で休憩に昼寝をしていた。中間の1人が目覚めると,もう1人の中間は首を切られて殺されている のに驚き、辺りを見回しても誰もいない。 中間は怒って「黙ってみているとは何事だ!」と地蔵の首を切り落としてしまった。 村人が何度も首を付けようとしたが、付かなかったため「首なし地蔵」と呼んだと。 左のお地蔵様の首がない。不思議な逸話が残るお地蔵様だ。 少し進んだ所に階段があり「姫御殿跡」の石碑が立っている。読み難い説明板には、 ここを祝坂といい、周囲の展望がよいので、 中山道を通る旅人にとってはかっこうの休息地でした。 近くに子持松と呼ばれた松の大木があり,子と孫が続く縁起の良い土地だと云われていたため、お姫様行列のときなどには 仮御殿を建てて休息をすることが多くあった。 皇女和宮の降嫁の時も御殿を建てて御休みになったと。 「乱れ坂」の頂上付近は標高も高いので、色々な逸話や史跡が残っているのだ。 坂を下り始めると「槙が根の馬頭観音」が、道の小高い丘に祀られている。本当に「馬頭観音」が祀られている所が多いのに 驚く。 峠道を進むと広場になり「槙が根追分石碑」が立つ。上街道と下街道との分岐点の追分なのだ。 昔は中山道を上街道と云い、ここで分かれて下る道を下街道と呼ばれ、下街道は名古屋へ通じていて、商人や伊勢詣の旅人が 利用したようだ。 追分の石碑には「右・西京、大阪、左・伊勢、名古屋」と記されている。当時としては大きな分岐点・追分だったのだろう。 近くに「槙が根立場」の標識もあり、追分として賑わっていたことが良く分かる。「茶屋」も九戸建ち、旅人の休息の場と なっていたようだ。 その横に鎖で区切られた一角がある。横の説明板によると「伊勢神宮遥拝所」とあり、ここから伊勢神宮に手を合わせて遥拝したと。 「熊野古道」を歩いた時も、所々に「熊野権現遥拝所」があったことを思い出す。
「細久手宿〜大湫宿A」の「紀行スライドショー」 「槙が根立場」の広場から、坂を下る。大きな山桜が見頃の状態で青空にそびえている。 この辺りもまだ立場跡なのだろう 所々に「○○茶屋跡」の標識があり、下り切ると建設会社の横に出て、舗装された県道と合流する。 しばらくの間は車の通らない県道を進む。左右に「○○茶屋跡」と記されている。 道標に従って地道の旧街道を上って行くと突然視界が開け、恵那の町が望める「西行の森」高台に到達する。「桜百選の園」と刻まれた 石碑が立ち、桜並木は3-5分咲きと桜の名所のようだ。 人里離れた旧街道からやっと人家の見える現代に戻った感じだ。母子連れのグループが桜の下で、お弁当を開げている 日常風景に久し振りに接っし、「大井宿」はもう直ぐだと。
塚には木はなく、公園の中なので、今までの山の中の一里塚と 比べると雰囲気は出ない。 塚に植えられた槙の木は枯れてしまったようだが、二つの塚の上に槙の木を植え代えるか、周りと 合わせて、桜の木を植えれば、市民の憩いの場なので、知名度も上がるのではなかろうかと思いながら、ここで一息入れる。 (13:00) 広い空間を楽しんで、「西行坂」の石畳を下り始める。 石畳の中程に小高い丘があり、上って行くと「芭蕉句碑」「西行歌碑」が立ち、更に上ると「西行塚」の五輪塔が立つ。
今までの行程で、芭蕉の碑は方々に見られたが、西行法師の話は全くなかったので、鎌倉時代初期にこの辺りを訪れたのに 驚いた。 見晴らし台があり、見渡すと遥かアルプス連峰は雪の峰が連なり、方向を変えるとこれから進む恵那市が眼下に見える。 町中から近いのに標高差があり、見事な景観を楽しめる場所だ。 元の石畳に戻り、急な坂である「西行坂」を下る。 「大湫宿」を出た直ぐの「寺坂」からこの「西行坂」までが「十三峠」で、 その間には数えきれないほどの「○○坂」の アップダウンがあり、「十三峠におまけが七つ」と云われる所以が理解出来た。確かに、峠道は厳しかったが、地道が多く、 自然豊かで、史跡も点在する最高の旧街道「中山道」だった。 坂を下り「中央自動車道」の高架下を抜けると畑が広がる恵那の平地に出る。
峠道が続いたので、久し振りの平地にホッとすると共に「十三峠」を越えた満足感で歩を進め、JR中央本線の踏切を渡る。
車が行き交う県道を進むと桜が満開の「西行硯水公園」が迎えてくれる。 小さな公園だが、桜が咲き乱れ、お弁当を 食べている方もおられる。 公園の片隅に墨を摺るのに用いた泉がきれいな水を湛えている。 県道を道なりに進み、路地の奥にある「新田観音堂」に立ち寄り、進むと5叉路になっている歩道橋のある坂の上交叉点を 歩道橋の昇り降りは少しきついので、横断歩道で渡る。 しばらく進んだ後、右折すると木の欄干のある「長島橋」が架かり、渡ると直ぐに「中野観音堂」が建っている。 江戸時代からこの場所にあった由緒ある観音堂らしい。観音堂の前には「中野村高札場跡」の標識が立つ。 そこから古い街並みが続き、宿場町の風情が残っている。久し振りの街並みに足の運びが速くなる。 道の両脇に「浸水防止の石柱」が立っている。川が氾濫した時、この石柱の間に板をはめて浸水を防いだのだろう。 現在でも用いられている手法だ。
古い街並みを進むと大きな旧家が建つ。
街の家々には店の屋号と「大井宿」の名が入った常夜灯的な街灯(?)が掲げられている。なかなか風情がある。 本来なら「大井宿」を全て見聞した後、帰路に就きたいが、夜に予定があるため、そろそろ帰らねばならない。 しかし、「大井宿」に来たからには「中山道広重美術館」に立ち寄ってから帰ろうと急ぐ。恵那駅が見える本通りを逆に進み、 「中山道広重美術館」に入場する。
2階に上がり見学する。浮世絵の版画を自分で刷るコーナーがあるので、楽しみにしていた。 その大判の版画の原版を作られた方が サイトで、浮世絵作りを楽しんでくださいとコメントされているのを読んでいた。そこは人気のコーナーのようで、グループの方が、数名づつで 浮世絵作りに精を出しておられたので、残念ながら刷ることが出来ない。 止むを得ないので、見学だけにして、売店で今回歩いた宿場の浮世絵の葉書を記念に購入し、HPに掲載しようと。(今回のHPに 載せている浮世絵はこの葉書です。)
今までの行程はJR東海道本線、高山本線、太多線沿線で、今回の宿泊紀行で中央本線の恵那駅に到着した。これからは この中央本線沿いに進むことになる。 駅の観光案内所で今後のために「中山道」関連資料を探す。 次回もここ「大井宿」から「中津川宿」に向かうので、 その詳しい地図等を入手し、売店でビールとつまみを買って駅の待合室で、2日間の充実した「中山道」紀行に乾杯する。 今日の歩行は35000歩だった。(14:20) 「細久手宿〜大湫宿B」の「紀行スライドショー」 「青春18きっぷ」は快速も使えるので、14時25分発の列車に飛び乗り、名古屋を目指す。2日間で歩いた行程は、JRから 離れた山の中だったが、あの辺りを歩いたのだと車窓から眺める。 山の中はまだ3-7分咲きだった桜は名古屋に向かうに連れ、満開だ。車窓からお花見をしながら、乾杯!! 名古屋行だが、名古屋乗換えだと次の列車が座れないので、手前の金山で乗換えるのが常套手段なので、金山で下車する。 これからもこのパターンが多くなるので、金山駅周辺の居酒屋を探すが、ビジネス街なのか店が見当たらない。 仕方がないので駅に戻ると2階に食堂街があり、居酒屋を見つけて晩酌セットで再度の乾杯。 大垣行の時刻に合わせ店を出て、座ったまま、居眠りをしたりで大垣・米原経由で高槻に19時過ぎに到着する。 今回は1泊2日で「伏見宿」から「御嵩宿」「細久手宿」「大湫宿」を経由して「大井宿」の手前まで、今までの 「中山道」とは一味違った、本来の旧街道の雰囲気を堪能した。 「美濃路」も後2宿場で終え、「木曽路」に入る。益々趣き深い旧街道が楽しめるだろうと期待したい。
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