○ 「中山道No21」見聞録(大宮宿〜日本橋)・(距離 29.2km/ 533.0km/ 0km)
21−2.(03)浦和宿〜(02)蕨宿・(5.5km) 2012.06.08 11:00〜14:30 晴れ時々曇り
史跡も少なかった「浦和宿」を過ぎて、淡々と国道を進むと「調(つき)神社」のこんもりとした森に至る。
また、調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、
この「調神社」は変わっていて、鳥居がなく、狛犬ではなく兎なっている。少し戸惑いながら、静かな境内を進むと立派な本殿が鎮座し、 数人の信者が参拝しておられる。奥の池の噴水も兎で、由緒にある月信仰=兎が方々に祀られているようだ。 湧水の冷たい手水でタオルを濡らし、顔を拭き、首に掛け、本殿の前のベンチに座り、涼を取りながら 一息入れる。(11:10-11:20) 陽射しがきつくなった国道463号線を進む。先程の冷たい水が首筋に気持ち良く、JR武蔵野線の上を過ぎると蛇行した下りの坂道になる。 坂の途中に「焼米坂」の石碑が立っている。坂の途中で焼米でも売っていたのだろうかと思いながら快調に坂を下る。 広い道と合流し、少し進むと六辻の交叉点で国道17号線を渡り、直ぐの道を左に折れる。少し細い道だが静かで安心して歩けるのは嬉しい。 前方に高速道路の遮音壁が見え、その下を抜けると左の小公園に「辻一里塚」碑が立っている。まだ一里塚跡が残っているだけでもgoodだ と思いながら進む。 少し進んだ小川の脇に「中山道・蕨宿一番地」の木碑が立ち、横には「境橋のいわれ」の案内板が立っている。日付を見ると平成24年3月と 出来立てのホヤホヤだ。いよいよ「蕨宿」だと気を引き締める。
交通量の少ない道は歩き易い。左に「宝蔵寺」の立派な門を見て、蔵も建つ古い家も建っている旧街道を進む。 もうすぐ「蕨宿」だが、そろそろ昼時なので、次に見つけた食事処で昼食にしようと歩を進める。国道17号線と交叉し、渡った所に トンカツ屋があったので、入店し、日替わり定食を頼む。豪勢なトンカツ定食で昼食とする。 美味しく食べ。冷たいコーヒーも飲み、一息付けた。何処まで歩くのかと聞かれ、明日、日本橋に到着するのだと話すと驚いておられた。 氷の塊をタオルに包んでもらい、首筋に巻いて「蕨宿」に入って行く。(12:25-12:55)
国道から旧街道に入る入口には「中山道・蕨宿」の木の碑が道をアーチ状に架かり、「蕨宿」に入ったことが分かる。久し振りの 宿場の雰囲気を象徴する出迎えに期待が膨らむ。
「ふれあい広場」前に旧家が立つ。宿場町の風情を残しているのは嬉しい。この旧家(多分徳丸邸)の裏に「はね橋」があると云うので、 裏に廻る。屋敷を取り囲む小川があり、裏門に真新しい「はね橋」らしきものが上がっている。掃除をしているご主人に確認すると 「はね橋」だが、数年前、隣の火事で焼けてしまい新調したと怒っておられた。昔は防犯・防火のため、宿場内でたくさんあったそうだが、 現在はここだけだと。昔の「はね橋」が焼失したのは残念だ。
旧街道に戻り進むとここにも趣きのある旧家が残っている。「地蔵の小径」の石碑が立つ露地の奥には「三学院」が見えるが、そのまま旧街道を 進むと「鈴木薬局」が昔の面影で残っている。「蕨宿」は保存状態が良い宿場だと気持ち良く歩を進める。
整備された「蕨宿」の旧街道には「中山道57次の宿場」の浮世絵が、タイルで貼られていて、今まで歩いた宿場を思い起こさせてくれる。 「中山道蕨宿」説明板が立ち、その先には「蕨宿・本陣跡」の建物が建っている。ここに皇女和宮も休憩されたそうだ。 その横に「蕨市歴史民俗資料館」が開設されている。各宿にあるこの様な施設も時間外だったり、休館だったりと入場出来ないことが 多かったが、入館して見学する。中にはシニアグループが見学しておられ、賑やかに談笑しておられる横をさっと見学する。当時の宿場の 模型や庶民の生活等、人形で展示する優れものだ。
気持ち良い「蕨宿」の旧街道を味わいながら進むと「蕨市歴史民俗資料館分館」が建ち、その庭園を散策する。 蕨市は「蕨宿」を中心に、史跡を保存・継続しようとする姿勢が強く感じられる自治体だと思いながら、宿場の端に向かうと 「蕨宿案内板」が東から来る人に説明されており、国道17号線と合流する地点には、アーチと「中山道蕨宿」の大きな石碑が立っている。 ここで充実した「蕨宿」の見聞を終え、東京都との県境である荒川に向かう。
再び国道17号線を進む。
本町の交叉点手前から左斜めの小道に入り、道路を渡って進むと公団住宅の中の並木道が続く。少し涼が取れて汗を拭きながら、再び 国道17号線と合流して進むと道路脇に銭湯「健晃湯」があるではないか。東横ホテル予約理由は温泉への送迎バスがあることだったが、こんな 近くに銭湯があれば、ここでOKだと。JR越しにホテルも見られるので、ここで汗を流すことにしようと。 荒川の手前にある菖蒲川を渡るため、前に走る新幹線・JRの高架橋を眺めながら、国道から離れ、側道から橋を渡って荒川の堤防に向かう。 途中、「中山道ミニパーク」を確認し、「地蔵堂」を探し、堤防の下に船玉大明神の石碑が鎮座する「水神社」に参拝する。
前には荒川の堤防がそびえているが、下の道は交通量が多く渡れない。信号のある所から堤防に上ると荒川の流れと東京都のビルが 見られる。最後の都道府県・東京は間近だ。
この渡しは天正年中(1573-1591)よりあったとされる。渡船場の管理は下戸田村が行っており、寛保二(1742)年には船の数は3艘、 天保十三(1842)年には13艘となっている。安永元(1772)年には幕府公認の河岸場となり天保三(1832)年には5軒の河岸問屋があった。 明治八(1875)年に木橋の戸田橋が完成し渡しは廃止となった。(戸田市HP他より) もう一度、堤防に戻り、堤防の上で一息入れる。雲が多くなり、都内方面が煙って見えないが、何か高い塔が見えるような気がする。 地理勘がないので分からないがひょっとして「スカイツリー」ではと思ったりしながら、涼風を楽しむ。(14:30-14:35) 堤防の上を戸田橋に向かい、荒川を渡る。学生時代、ボート部の合宿の手伝いで、ここ荒川をエイトで楽しんだことを思い出しながら東京都に 向かって進む。途中「東京都・板橋区」の標識を見て、東京都に足を踏み入れる。 道脇に「日本橋まで16km」の標識もあり、日本橋まで16kmとなったのだと感慨深く標識を見る。
「浦和宿〜蕨宿」の「紀行スライドショー」 戸田橋を渡り、交番の横の階段を降り、国道17号線に合流して志村橋を渡った所で、本日の紀行を終える。(14:50) ここからJR浮間舟渡駅からJRで1つ戻って戸田公園駅に向かい、歩いて東横ホテルにチェックインする。(15:40) 今夜はサッカーWcup予選の放映があるので、それまでには部屋に戻りたいので、急いで先程発見した銭湯「健晃湯」に向かう。広い湯船で ゆっくりと体を伸ばし、マッサージをし今日の疲れを癒す。さっぱりとした!! 夕食のため、戸田公園駅まで行くが、居酒屋が見当たらないので、駅中の中華料理屋で餃子とビールで乾杯。明日はもっと美味しいお酒が 呑めると思い、冷麺を食べ、ビールとつまみを買ってホテルに戻る。 7時からテレビの前に張り付いて応援する。ここから10km位離れた埼玉スタジアムで行われているので、力が入る。6-0の圧勝でシリアを倒し、2連勝と 順調なスタートとなったことは嬉しい。(その後、オーストラリアと引分けたが1位) 最終日前日の歩行歩数は35000歩で、心地良い疲れと勝利に酔い、ぐっすりと眠る。明日はゴールだ!!
|