[大宮宿〜浦和宿][〜蕨宿][〜板橋宿][〜日本橋]


○ 「中山道No21」見聞録(大宮宿〜日本橋)・(距離 29.2km(今回)/ 533.0km(累計)/ 0km(残距離)

前回まで
今回


21−3.(02)蕨宿〜(01)板橋宿・(8.9km) 2012.06.09 6:00〜10:00 雨


中山道全行程.Map
「蕨宿〜板橋宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

ぐっすり眠って、5時頃目覚めて、外を見ると雨が降っている。予報でも怪しかったが、最終日が雨とは残念だ。
ホテルの朝食は7時からだが、時間があり過ぎるのと、昨夜の息子家族との打合せで、12時に息子・孫二人と東大・赤門で待ち合わせ、東大の 学生食堂で昼食を食べることになっていた。

戸田漕艇場

雨で行程には時間がかかりそうなので、時間の余裕を考え、また、想い出の「戸田漕艇場」の朝練を見学しようと、朝食はパスして出掛ける ことにする。

東横ホテル

6時、小雨降る中をチェックアウトし、いよいよ4年間に渡る「中山道」紀行の最終日だと気合を入れ、近くの「戸田漕艇場」に向かう。願わくば 晴天の下で、日本橋にゴールしたいのだが・・・。
「戸田漕艇場」は当時の関西には無い直線のコースで、東京オリンピック予選の合宿の手伝いに下級生として参加して、もう50年になる。
大学生がたくさん雨にも負けず、朝の練習をしている。女性が多いのには時代の変遷を感じざるを得ない。
近くまで進むとエイトが上陸する所で、COXの掛け声で、軽々と艇を持ち上げ、艇庫に向かって歩幅を合わせて進んで行く。懐かしい青春の 1ページを思い起こさせる光景を眺めながら、荒川に向かう。当時の状況の記憶はないが、艇を横にして、階段を上り、河川敷に降りて行く。 「戸田漕艇場」は2000m余りと距離が短いので、日頃の練習は荒川で調整したのだ。荒川でも艇に乗った(COXとして)ことを思い出しながら 堤防の上を戸田橋に向かう。
「中山道」の史跡は昨日確認しているので、川面で漕いでいるエイト・フォァの練習風景を見ながら、渡ってると何処の大学か分からないが、 エイトが真下に来たのでパチリ。

エイトの揚艇

荒川での練習

エイトの勇姿


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

傘を差しながら戸田橋を渡り、交番の横の階段を下って、昨日歩いた行程を急ぎ足で進む。
6時35分、昨日の終了地点に到達し、本日の紀行をスタートする。国道17号線もまだこの時間は車の通行も少ないが、雨の中の歩行は水溜りを 避けながらなのでスピードが鈍る。

雨の旧街道

地蔵堂

雨の中の紀行は「奈良井宿」から「贄川宿」に向かった時以来だが、自然豊かな「信濃路」と違って、都会の道なので 余計に面白くない歩行だ。
志村坂下交叉点を過ぎた先から左の旧街道に入る。雨に濡れた旧街道は土曜日で車も人も通っていない。チョコレート工場の甘い香りを楽しみながら 工事中の志村3丁目交叉点を複雑に渡った高架橋の外れに「地蔵堂」が祀られている。 国道17号を用心深く渡って、右側の細い道に入って行く。都営地下鉄三田線の高架下をくぐると緩やかな坂道を上って行く。
途中に懐かしい「中山道・道標」が掛かっている。「追分宿」にあった「中山道69次資料館」の館長・岸本さんが各地に設置された 道標に今回初めて出会ったのだ。
少し上ると「清水坂」の碑が立ち、掲示板によると、この坂道は,別名を隠岐殿坂,地蔵坂などといい, かつては日本橋を発って中山道を歩く際の最初の難所であった。また,この坂道は,中山道で唯一富士山が江戸側から見て右手に見える 名所だったらしい。蕨宿から板橋宿間は長く、荒川の川止めもあるので,この清水坂の途中には,間宿が築かれていたと。 坂の頂上にも「清水坂」の碑が立っている。

中山道・道標

清水坂の碑 説明

清水坂


庚申塔

朝定食

「清水坂」を下るが「大山道道標と庚申塔」を見落としたので、探すが分からない。国道17号線と合流する角に交番があるので尋ねるが、 警官も史跡までは知らず、分からない。道を戻ると「庚申塔」が祀られていたので、写真を写して諦める。
余談だが、東京都に入ってから交番の数の多さに驚く。しかも、警官が前に立っていたり、数人が常駐しているのだ。さすが、首都と 思った次第だ。大阪にも交番は点在するが、少なくて、留守が多いのと大違いだ。
朝食処を探していたので、志村坂上の交叉点近くに松屋があったので、朝定食を頼み、一息入れる。(7:20-7:35)
ホテルで朝食を食べていると、今頃出発だと思いながら、国道17号線を進む。

志村一里塚(左)

志村一里塚(右)

少し先の国道の左右に立派な榎が茂った「志村一里塚」が残っている。
一瞬、片側だけかと思ったが、道路の反対側にも「一里塚」が 残っているのには驚いた。よくぞ保存したものだと。
日本橋から3里目の「一里塚」で,この先の本郷追分と板橋平尾の 「一里塚」は残っていないので,東京都に現存する唯一の「一里塚」だそうだ。
後3里=12kmと思いながら進むと道路脇に「日本橋まで13km」の標識が立っている。国道と旧街道では少し距離も違うのだと納得して 歩を進める。
志村警察前を過ぎ、首都高速の高架とぶつかる所から国道を離れて左の道に入って行く。この分岐点にも交番があり、警官が立っている。
国道からは行った旧街道は狭いが、車も通らず歩き易い。「旧中山道」の道路標識もあり、安心して前に進む。雨が小降りになって来たのは ありがたい。

日本橋まで13kmの標識

分岐点の交番

静かな旧街道



「蕨宿〜板橋宿@」の「紀行スライドショー」

静かな旧街道を進むと左側に大きな榎の木が見えて来る。「縁切り榎」と云われる大木だ。

縁切り榎

中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのがこの縁切榎である。いつの頃からか、この木の下を 嫁入りの行列が通ると、必ず不縁になるという信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮、楽宮の行列はここを避けて通り、 和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った。

縁切り榎・神社 説明

この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、 これを縁切りに通わせたする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。
現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。(「板橋宿」史跡スポットHPより)

所々にこのような言い伝えの大木や石碑があるが、江戸から近い所に存在する「縁切り榎」は参拝者で賑わったようで、現在でも 参拝者が多いようだ。
少し進むと「中山道板橋宿」の石碑が立ち、「板橋宿・上宿」に入る。いよいよ最後の宿場到達だ。次は「日本橋」だと心新たに 宿場に踏み入れる。
宿場町を歩いて行くと「板橋宿」の名前の由来ともなった「板橋」が架かっている。当時の風情を残した粋な計らいだ。雨が降り、風情のある 光景を味わいながら「板橋」を渡る。

板橋

板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると 宿場の名となりました。
板橋宿は、20町9間(約2.22q)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸より中宿、 平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。

板橋の欄干 説明

板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌 「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。現在の橋は、昭和47年に 新しく架けかえられたものです。(「板橋宿」史跡スポットHPより)

「板橋」の横の標識には「日本橋からニ里二十五町三十三間」と示されている。換算すると約10.6kmだ。さあ、後10kmと 「上宿」から「仲宿」に入って行くと商店街が続いている。 商店街の右手にある立派な鰻屋横の細道の突き当たりに名主飯田宇兵衛家の「仲宿脇本陣跡」の石碑が立っている。
旧街道に戻り、「本陣跡」を探すが分からず、行ったり来たりとした後、数人の人に尋ねるが知らないと。年配の女性がゴミ捨てに 来られたので、尋ねるとスーパーの横の塀に沿って立っていると。
大分戻ってスーパー・ライフの横の塀に「板橋宿本陣跡」の碑が立っているのを発見する。「仲宿」付近は当時の史跡が残っていないが、標識は 立っているが、見難いのは残念だ。そして、商店街の方もその存在を知らない時代になったのだと。

仲宿の商店街

仲宿脇本陣跡 説明

板橋宿本陣跡 説明


本陣跡の前の「石神医院」の前に、「高野長英ゆかりの地」の説明板が立ち、江戸から脱獄した時、一時身を隠していた場所だと。江戸の 次の宿場では、このような事例は多かったのだろうと思いながら進む。
商店街を進むと左に明治初期に廃寺となった「遍照寺跡」が建っている。境内の中には馬繋ぎ場が設けられ,公用の馬が繋がれていた と。祠に至る細い通路の途中に,石仏などが祀られている。旧街道に戻ると商店街の中に古風な建屋が残っているのが、宿場の名残か。

石神医院の高野長英ゆかりの地 説明

遍照寺跡

古風な建屋


広い道を渡ると「平尾宿」に入る。街灯には「平尾宿」の旗が掲げられ、「板橋宿」はそれぞれの宿場が競い合っているようだ。 広場があり、「板橋宿」の案内板が立ち、その先左側に「平尾宿脇本陣跡」の碑が立っている。平尾の名主豊田家が脇本陣で、「中山道」を 経由して江戸で興行するペルシャ産のラクダが引き入れられたとのスケッチも残っているようだ。
少し進むと左に「観明寺」の参道があり、入口の青面金剛像が彫られた「庚申塔」が祀られている。都内最古のものだとか。「板橋宿」は 首都高のガードをくぐり、JR埼京線の踏切を渡り、次の筋を右に折れて進むと左に小さな公園があり、新撰組「近藤勇の墓」が 祀られている。この場所にお墓があるのは不思議だと思いながら、雨の旧街道に戻る。

平尾宿脇本陣跡 説明

観明寺の庚申塔 説明

近藤勇の墓


旧街道のこの辺りは「種屋街道」と呼妓れていて「中山道」を通る旅人に練馬大根などの種子を売る問屋や小売店が多かったそうだ。 古い建屋も残り「亀の子束子店」と珍しい店や「東京種苗」の種屋も残っているレトロが味わえる街並みだ。
少し進むと都電荒川線の踏切があり、丁度電車が庚申塚駅に停まっている。映像は見たことがあるが、都電の走るのを見送って踏切を 渡ると左に「猿田彦大神庚申塔」が祀られている。境内には庚申の像も赤い衣を着て鎮座している。

亀の子束子店

東京種苗

猿田彦大神庚申塔 猿田彦像


旧街道は「巣鴨地蔵通商店街」に入って行く。
雨模様なので想像していたより人通りは少なく、独特の雰囲気のある商店街を進む。よくテレビで見る赤いパンツを売る店もまだ人が少ない。 人混みが多くなり、「とげぬき地蔵」で有名な「高岩寺」に参拝する。

洗い観音

とげ抜き地蔵(高岩寺)は、曹洞宗の寺院。通称である「とげぬき地蔵」の名で呼び親しまれる。境内に立つ洗い観音(聖観音)は 病気平癒祈願で信仰が厚い。
洗い観音として愛されている観音様は、自分の調子の悪い部分と同じ観音様の部分を清水を掛けて手ぬぐいで洗い清めると良くなると いわれている。
とげぬき地蔵の「とげぬき」は、かつて誤って針を飲み込んでしまった女中に、居合わせた僧侶が地蔵尊の姿を印じた 御影と呼ばれるお札を患部に飲ませたところ、針が御影を貫いて出てきたことに始まる。
とげぬき地蔵と呼ばれる本尊「延命地蔵菩薩」は開帳されていないが、御影は本堂受所で頂くことが出来る。(東京ガイドHPより)

「洗い観音」にはたくさんのシニア婦人がタオルで身を拭っておられる。人混みがなくなった所で急いでパチリ。
横には大きな「お地蔵様」が小さなお地蔵様に囲まれて祀られている。初めて参拝したが、やはり年配の婦人が圧倒的に多く、「とげぬき 地蔵」への信仰の強さを認識する。
直ぐ近くの「真性寺」にも参拝する。江戸六地蔵の一つである大きな「お地蔵様」が祀られている。横には「芭蕉の句碑」も建てられ 参拝者も多いのには驚く。

巣鴨地蔵通商店街

高岩寺のお地蔵様

真性寺のお地蔵様 芭蕉句碑



「蕨宿〜板橋宿A」の「紀行スライドショー」

JR巣鴨駅に向かい、息子達との時間調整と雨宿りを兼ねてマクド(関東ではマック)でコーヒーを飲みながら一息入れる。(10:05-10:20)


[大宮宿〜浦和宿][〜蕨宿][〜板橋宿][〜日本橋]







    
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送