○ 「中山道No3」見聞録(五箇荘〜醒井宿)・(距離 25.5km/ 77.3km/ 455.7km) 3−2.(65)愛知川宿〜(64)高宮宿・(7.4km) 2008.05.17 9:00〜11:50 晴れ
「愛知川宿」のアーチを出て、真っ直ぐな道を東に進む。1本道が続いているので迷いようがないのは有難い。
説明板によると「藤原秀郷が東国で平将門を討ち京都へと 向かってこの橋まで来ると、平将門の首が追っかけてきたので、その首に向かい歌を一首詠めと言ったところ将門は歌に詰まり この橋の上に落ちた」と。 面白い逸話もあるが、将門伝説がある昔からの街道だと再認識する。 宇曽川を渡ると豊郷町になる。数年前、小学校の解体問題でニュースになっていた町は「中山道」に面していたのだ。 少し進むと「江州音頭発祥地」の大きな石碑が立っている。 「本能寺の変」から4年後の1586年、当地に住む近江商人が浄財を投じて信長の兵火によって焼失した千樹寺を再建した。 寺の竣工にあたり遷仏供養の余興にと仏教に因む造り人形を境内に多数陳列し、地元の老若男女を集めて円陣を作らせ 経文の二、三句を節面白く繰返し歌いながら、手振り足振り揃え、集めた村人と共に踊った。 それを見た来観の群集もあまりの楽しさに我も我もと円陣に加わり、ついには夜がふけるのも忘れて、 皆で踊りあかしたという。(江州音頭HPより) 江州音頭は盆踊り等で踊られるが、戦国時代からのものとは知らなかった。 少し進んだ所に豊会館になっている蝦夷松前で活躍した豪商藤野喜兵衛の旧邸「又十屋敷」が建ち、前庭には小さく「一里塚跡」の 碑が立っている。これは後程通る「石畑一里塚」を移設した証とのことだ。 道の脇に井戸の跡があり「金田池」と記されている。ここに湧水があり、当時の通行人に喜ばれたと。
陽射しが強くなって来た街道を東に進む。 五箇荘も近江商人発祥の町と云われていたが、ここ豊郷町も凄い所だ。右手に大きな屋敷が建っている。ここが「伊藤忠兵衛旧邸」で 現在は「伊藤忠兵衛記念館」となっている。 紅忠と名乗り、後の総合商社の伊藤忠・丸紅の創始者・伊藤忠兵衛が暮らした邸宅は、立派な板塀に囲まれている。 まだ開館されていないので、パスして進む。 ここからは近江商人・伊藤家の史跡が続く。「伊藤長兵衛家・屋敷跡」の碑があり、説明板には私財を投じて豊郷病院を設立したと。 豪商は社会への奉仕として、色々と寄付をしていたのだ。最近の成金さんに拝ませたいものだ。 その横には広い「くれない園」があり、これは商社・丸紅が創業者を偲んで造園したと。 「石畑一里塚」跡を少し進むとニュースになった「豊郷小学校」が広い前庭の奥に建っている。 豊郷小学校は、1937年(昭和12年)に当時の建築技術の粋を集めて建設された。設計は神戸女学院大学、関西学院大学などの設計で 知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズ、施工は竹中工務店が担当した。建設費用、設備費用は当時のお金で合計約60万円、 郷土出身で丸紅商店(現在の総合商社「丸紅」)専務の古川鉄治郎氏が全額まかなった。60万円は、当時の古川氏の財産の3分の2 にあたる。昭和初期の大阪城天守閣の再建費用がが約50万円だったというから、この金額がいかに巨額であったかが想像できよう。 当時の校長は完成式の挨拶の際、感謝の涙あるのみであったという。 (ヴオーリズを訪ねてHPより) 当時としては珍しいコンクリート造りの校舎が堂々と建っている。この郷土の誇りであり、歴史ある校舎を解体すると云う町長の方針に 反対した住民の意思は、建物と周りの雰囲気を見て初めての訪問だが、十分理解出来るものだ。 町角には「先人の贈り物・・・」の立看板が立ち、解体反対活動の結果、解体は断念されたようで、今後の保存・活用に期待 したいものだ。 改めて、ここに近江商人の心意気が表れているのには頭が下がる。再び、最近の成金さんに爪の垢でも飲ませたいものだと 思わざるを得ない。(9:35')
静かで人通りのない黒い板塀が続く街道を黙々と東に向かう。
田園地帯を進むとケヤキ並木が見えて来る。このような並木道に出会うとここは旧街道だと再認識出来るのは嬉しい。 所々枯れて抜けているが、100m以上続く街道風景を楽しむ。 並木を味わいながら進むと外れに東屋があり、横には水車が設けられていたが、今は潰れてなくなった跡がある。 少し疲れたので、東屋で一息入れる。ケヤキの木陰で飲むお茶は美味しい。(9:55') 一息入れ、再び真っ直ぐな道を東に進むと今度はまばらな松並木が迎えてくれる。枯れた松に代わって新しい若松が 植えられ、街道の景観を保とうとする姿勢は嬉しい。 松並木の右側にモニュメントが3本立ち、その上には昔の街道を歩く人達の彫刻が飾られている。当時はこのような姿で歩いて いたのだろう。 いつの間にか彦根市に入っているのだ。休日なので時々「中山道」を歩いている方とすれ違う。挨拶を交わしながら、 何処から・何処までと言葉を交わすのは楽しいものだ。
少し進むと社があり、「産の宮」とか。手水鉢の側面には「足利氏隆誕之霊地」と刻まれ、その伝承が説明されている。 旧街道は歴史の各時代の逸話が散りばめられているのが分かる。 更に進むと街灯が立ち、そこには「高宮宿」の文字が記されている。「高宮宿」に近付いて来たのが分かる。 犬上川に架かる橋の手前には「中山道・高宮宿」の標識と「むちんばし」と彫られた石碑が立ち、渡るといよいよ 「高宮宿」に入る。 川を渡った所に「むちん橋地蔵」が祀られている。当時は徒歩(かち)渡しであったが、架橋した後も無賃で渡れたとの ことで、当時の川を渡る苦労が理解出来る。
「愛知川宿〜高宮宿@」の「紀行スライドショー」 「高宮宿」に入って行くと左手に立派な山門を構えた「円照寺」が建つ。 境内では檀家の方が熱心に掃除をしておられる。「徳川家康腰掛石」があると書かれているので、探すが分らないので尋ねると 老梅の根元に小さな石があり、玉垣に囲まれた小さな石が、そうだと教えられる。もっと大きな石だと思っていたが、余りにも 小さいので驚く。 向かいに「本陣跡」としての立派な表門が遺存されている。本陣跡が門だけでも残っているのは嬉しい。 直ぐ近くには「脇本陣跡」が建ち、宿場町の風情が残っている。この「高宮宿」は「中山道」第二の人口であったそうだ。 並んで「紙子塚」と呼ばれる芭蕉が宿泊した旧家の庭に着ていた紙子羽織を埋めた塚があるそうだ。この宿場にも色々な 歴史があったのだ。
交差点に大きな鳥居が立っている。ここから「多賀大社」に向かう「一の鳥居」で、大きいので全体を写そうとすると だいぶ後に下がらなければ入らない。柱間は8m、高さは11mあるそうだ。 「多賀大社」の参詣道でもあるので、この宿場は賑わったのであろう。新幹線からも「多賀大社」の参道が見られるので、 一度は参拝したいと思っているが、今回は先を急ぐので「一の鳥居」に参拝し、東に進む。(10:50') 近江鉄道の高宮駅に近付き、グループで歩いている方も多くなった。 街道筋に「提灯屋」さんが店の前に提灯を吊るしているほのぼのとした雰囲気に出会う。色々な種類の提灯が飾られ、さすが 「多賀大社」の宿場町だと。「中山道・高宮宿」の提灯もあり、歩を進める。 少し曲がっている「高宮宿」を進むと道角に「大北地蔵」祠が祀られている。 説明文を読むとお地蔵さんは石造りでなく、木彫りに 彩色されているとのことで、中を覗くがお地蔵さんは祀られていない。彩色されたお地蔵さんとはどんなものだろうかと。
街並みから外れて田園地帯に進むと「多賀大社・常夜燈」が立ち、芹川の手前の小山に「石清水神社」の石段が あり、その境内に「扇塚」の碑が立っている。 江戸時代彦根藩で手厚い保護を受けた能楽喜多派の家元が江戸に戻る時、門下生に「面と扇」を与えた。その面影を 残すために塚を建てたと。 先程のグループと挨拶を交わして、芹川を渡り、緑豊かな山を眺めながら進む。「高宮宿」には食堂らしき所はなく 昼食の心配をしているとコンビニがあったので、弁当を購入する。 少し先の「春日神社」の木陰で少し早いが昼食にし、一休みする。(11:30'-50')
「愛知川宿〜高宮宿A」の「紀行スライドショー」
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