○ 「中山道No3」見聞録(五箇荘〜醒井宿)・(距離 25.5km/ 77.3km/ 455.7km) 3−3.(64)高宮宿〜(63)鳥居本宿・(5.9km) 2008.05.17 11:50〜12:55 晴れ
少し早目の昼食で、元気を取り戻して後半戦に進む。 今回訪れた宿場町には食堂らしき所はなかったので、これからの行程も期待出来ない。
誰も歩いていない道を東に向かうと名神高速の彦根ICに至り、そのガードを抜ける。彦根まで来たのだと、改めて 遠くまで歩いて来たのだと感じる。 ガードの先に大きな石碑が立ち「五百らかん」と彫られている。近くに祀られているのであろうが、パスして進む。 左手に「八幡宮」の鳥居が立ち、鳥居を通れないように(?)注連縄が張ってある。理由が分からないが、くぐって境内に 入る。奥の茂みの中に芭蕉の句碑が立っている。 「昼寝塚」と云われ、芭蕉が「中山道」を往来する人が涼しい境内で昼寝する「床」と近くの「床山」をかけて詠った とのことだ。 落ち着いた家が続く旧街道を進む。本当に人に出会うことがない。全く無いと云っても良い位だ。 やがて、新幹線に沿っての道になり、視界が広がり、荒れ地になる。草むらの中に「十所谷(とどころたに)」と書かれた 標識があり、この辺りは往時の宿場であったと示している。「中山道69次」以外にも小さな宿場が点在していたのだ。
右に新幹線、左は荒地を進み、新幹線のガートをくぐると、左は新幹線、右には名神高速の間の道を進むことになる。 新幹線と名神に挟まれた道は他にあるのだろうかと考えながら歩を進める。 この辺りは小野と云われる昔の宿場だったそうで、名神高速の土手の下に「小町塚」の祠が祀られている。「小野小町」の 出生地とか。 東から歩いて来られる30代(?)の男性と出会い、少し話す。東京から「中山道」を歩いて来られ、もうすぐ京都だと。 江戸はまだ遠いので、頑張って下さいと激励され、お別れする。 初めて話した人が、「中山道」踏破間近な方とは幸先が良いと気分新たに進む。 再び、人通りのない静かな街並みになり、出会う人もなく進むと左から来る道との角に「朝鮮人街道道標」が立つ。 「守山宿」と「武佐宿」の間で、分かれた「朝鮮人街道」がここで合流するのだ。 朝鮮通信使は二代将軍徳川秀忠のとき慶長12年(1607)を初回として、その後約200年間に渡り都合12回来朝している。 朝鮮通信使は釜山から海路、対馬を経て瀬戸内海にはいり、室津などによりつつ、大坂から淀川を遡上して京に入った。 京からは陸路、中山道・美濃路・東海道をついで江戸に至ったのである。 朝鮮人街道は中山道の守山宿をでて、野洲の行畑から 分岐する。 京を発った通信使の一行は守山宿で一泊したあと、近江八幡で昼の休憩をして彦根で泊まることを常としていた。 中山道では500人を擁する大使節団を受け入れる宿場はなかったのではなかろうか。(滋賀県観光協会HP・他より)
この辺りから「鳥居本宿場」の様だ。 古い街並みが続き、軒先には小さな標識が掲げられている。「紺屋跡」「大村屋跡」等の旅籠の名前や商店跡が示されている。 その中で目立つのが「合羽(かっぱ)屋」だ。 「鳥居本宿」の合羽製造の特徴は、当時菜種油を使用していた合羽製造に柿渋を用いることで、一躍、雨具の名声を高め、 柿渋は、保温性と防水防湿性に富み、雨の多い木曽路に向かう旅人は、こぞって「鳥居本宿場」で雨具としての合羽を求めるようになり、 この辺りに20軒ほどの雨合羽屋があったとのことだ。 軒に合羽の看板を掲げた旧家や「合羽屋跡」の標識が掲げられている家が多い。スタンプを押せる店もあるのだ。 近江鉄道の鳥居本駅を眺め、古い街並みを堪能しながら東に向かう。なかなか趣のある宿場だ。
街道は緩く右に曲がり、角に大きな旧家が建ち、大きな暖簾がかかっている。腹痛や下痢止め薬の赤玉神教丸で有名な 「神教丸本舗」の堂々たる店構えだ。 少し進むと茅葺屋根の旧家が宿場町の風情を残している。この宿場でも誰にも出会わなかった。休日なのだからか? 宿場の雰囲気はあるが、やはり人がいないのは寂しい気持ちだ。 彦根に入って迎えられたモニュメントがここにも立ち、「またおいでやす」と見送ってくれる。「鳥居本宿」を後にして 矢倉川に向かう。(12:55')
「高宮宿〜鳥居本宿」の「紀行スライドショー」
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