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○ 「中山道No10」見聞録(中津川宿〜野尻宿)・(距離 32.0km(今回)/ 230.7km(累計)/ 303.3km(残距離)


10−2.(44)落合宿〜(43)馬篭宿・(4.5km) 2009.07.24 10:50〜12:45 曇り


中山道全行程.Map
「落合宿〜馬篭宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

「美濃路」を終え、「木曽路」に入って行く。少し県道を通り、落合川へ下る道を進むと「下桁橋」が架かり、清流が堰から滝の様に 流れ落ちている。

下桁橋 説明

下桁橋からの眺め

山の上には先程見た中央自動車道の落合大橋の赤い橋桁が望まれる。
当時はこの下桁橋が流されることが多く、「馬篭宿」へのルートを色々と変更していそうだが、明和時代(1771年)頃から現在の ルートになったそうだ。
橋の上に立ち、流れ落ちる清流と緑の渓谷を眺めていると、マイナスイオン一杯で、元気が蘇って来る。
少し上って平坦な道に進むと視界が広がり、少し青空の見える空の下に山々が望まれる。自然が感じられる気持ち良い道になって 来たようだ。

坂を上った所に見事な枝垂れ桜が植わっている古めかしい「医王寺」が迎えてくれる。

医王寺と枝垂れ桜 説明

医王寺本尊

山中薬師の名で親しまれる瑠璃山医王寺は、落合川に架かる下桁橋からしばらく登ったところにあります。
この寺に伝わる薬師如来は行基(ぎょうぎ)の作と伝えられ、虫封じの薬師として、三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに 日本三薬師の1つとして広く信仰を集めています。
またこの寺には、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛六編』にも登場する、狐膏薬伝説が伝わっています。(中津川観光協会HPより)

本堂に参拝し、旅の安全と病気平癒を願って頭を垂れる。

落合の石畳 説明


緩やかな坂を上ると木製の橋が架かり、そこからは石畳が続く。
「落合の石畳」は檜木立の中をきれいな石畳が敷かれ、昨夜の雨で 滑り易くなっている。石畳の苔で、下り坂だともっと歩き難いだろう。
明治21年(1888)に中山道が木曽川沿いに付け替えられたことにより、この石畳は奇跡的に残りました。
このあたり一帯は江戸の自然をよく残している地域です。 石畳は急な坂道の流出を防ぐためといわれています。
現在では復元された部分も含め約840mほどあり、このうち70.8mは岐阜県の史跡に指定されています。(馬篭観光協会HPより)

長い石畳を上っていると「なんじゃもんじゃの杜」の碑が立ち、「なんじゃもんじゃ」の説明があるが、満開の時は美しいだろうと 想像する。
石畳の途中で深呼吸し、一息入れる。往時の雰囲気を独り占めしているような満足感を味わいながら・・・・・。
ここは「十曲峠」と云われているが、ルートが色々と変更されているようで、近世ではこの石畳が中心となって利用されていたようだ。

落合の石畳への木の橋

落合の石畳

なんじゃもんじゃの杜


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

「落合の石畳」を抜けて、県道を進むと民家が見えて来る。この辺りは新茶屋の集落で、「美濃の国」と「信濃の国」の境界線になる。 本来なら、岐阜県と長野県の境界になるのだが、「馬篭宿」辺りも岐阜県に編入されたため、岐阜県が続くことになる。

新茶屋一里塚

美濃と信濃の国境碑


新茶屋の集落の手前に「新茶屋一里塚」が道の両側に立っている。やはり、塚があり、木が植わっている一里塚は嬉しい。 今回の紀行で初めての塚のある一里塚だ。
直ぐ先に「是より北木曽路」の碑が立つ。これは隣の「馬籠宿」で生まれた島崎藤村の筆による美濃と信濃の国境の碑で、 昭和15年(1940)、当時68歳だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものだそうだ。この碑は藤村記念館の落成10周年を記念して、 昭和32年(1957)に建立されたものだと。 「木曽路」に入ると島崎藤村所縁の史跡がたくさん現われて来るようだ。
「美濃と信濃の国境碑」が「美濃の国」から「信濃の国」との境界を示している。「近江」と「美濃」の国境は「寝物語の里」と 逸話もあったが、ここでは特にないようだ。しかし、はっきりと境界線が分かる証拠を発見した。
今まで歩いていた「美濃路」は白と黄色の石を混ぜた舗装道路だったが、「木曽路」の道は普通の舗装道路で、その境界線で 道路の色が明確に違うのだ。面白い!!(もう少し上手く写せば良かった)(11:35)

新茶屋一里塚 説明

是より北木曽路の碑

美濃路と木曽路の境界線


新茶屋の集落には旗籠もあり、今では旅館として営業している。「芭蕉の句碑」もあり、「落合宿」と「馬篭宿」の中間で、国境と して繁栄していたのであろう。
「馬篭宿」に向かって、少しアップダウンの道を進むと展望台があり、霧がかかった山並みが望める。もう少し晴れていれば、素晴らしい 景観が味わえたであろう。残念だ。
その横には「正岡子規の句碑」が立つ。芭蕉・子規と俳人は「中山道」を愛したのであろう。道脇の小さな池には、睡蓮が咲き、 草むらの中には、男女のほのぼのとした「道祖神」が祀られている。

芭蕉の句碑 説明

霧がかかった山並み

男女の道祖神


緩やかな上り坂は古い家が残る荒町の集落を過ぎる。道は「美濃路」と違って普通の舗装道路だ。

荒町の集落

島崎正樹碑

島崎藤村の父で「夜明け前」の主人公ととして描かれた「島崎正樹碑」が 「諏訪神社」鳥居と並んで立っている。
島崎藤村の生家が近くなり、史跡が多くなって来た。
街道横に広がる田圃の稲が早くも穂を付けている。寒冷地なので早く植え、早く収穫するのだろう。初めて稲穂を見た。
「庚申」と刻まれた大きな石柱の横には「馬頭観音」等が祀られている。この光景は街道を歩いていることを実感する瞬間だ。
大きな立看板が建ち、「馬篭城跡」と記されている。室町時代に築かれ、武田信玄・織田信長・秀吉・家康の名前が連なる古い城で、 島崎氏が城主を務めたと。島崎藤村の生家は名士なのが分かる。
急な「石屋坂」を上り切ると県道と交差し、「馬篭宿」の西の入口に到着する。(12:05)

庚申塚と馬頭観音

馬篭城跡 説明

馬篭宿・西の入口



「落合宿〜馬篭宿@」の「紀行スライドショー」


一昨年(2007)秋にドライブで「馬篭宿」「妻籠宿」を訪れた。(「郡上八幡・馬篭宿・妻籠宿散策」参照)
又、社内旅行でも何度か宿場を訪れ、史跡を見学したことがあり、「馬篭宿」「妻籠宿」は親しみが深い。


一昨年のドライブでは、この「馬篭宿」西の入口に車を置き、宿場の坂道を上りながら見学し、東の入口まで行き、途中「島崎藤村の墓」に 立ち寄り戻って来た。
駐車した売店にかき氷が売っているので、休憩する。ミゾレを注文し、甘い蜜と冷たい氷で「落合宿」からの坂道を上った疲れを 癒す。水道で、頭・顔を洗い、体を拭き、改めて絞ったタオルで鉢巻・首巻きと体勢を整えて、「馬篭宿」に向かう。
今までの道中では人に出会うことはなかった。しかし、さすが「馬篭宿」、観光バスが停まり、たくさんの観光客が歩き廻って、静寂さは 皆無の状態で、その雰囲気に馴染めない自分がいるのは不思議な気持だ。
バスや車で観光に来ていた時は何も感じなかったのが、京都から宿場を巡って、ここに辿り着く間に、気持ちが変化したことを痛感する。 観光客ではなく、旅人になったのかと。

2年振りに「馬篭宿」に踏み入れる。舗装道路が石畳に変わり、観光客が行き交う賑やかな街道筋になる。

車屋坂の枡形

防火用のバケツも宿場にマッチし、「車屋坂の枡形」が坂を左に曲がっている。

中山道69宿のうち木曾谷には11の宿場が置かれており、馬籠宿は板橋を1番目とすると43番目になる。江戸からの距離は83里(333km) 余りとなる。
街道が山の尾根に沿った急斜面を通っており、その両側に石垣を築いては屋敷を造っていることから「坂のある宿場」が特徴と なっている。
馬籠宿の南に「枡形」があります。枡形は城郭の枡形を模したもので、宿場の防衛上設けたのもです。
枡形道路に平行するかたちの現在の急坂の道路は、枡形道路の不便を解消するため、明治38年の改修したものです。 (馬篭観光協会HPより)

観光客が多くて、人影を写さなくするのは難しい位だ。枡形の坂を上ると「常夜灯」が立ち、大きな水車が、元気よく廻っている。 「馬篭宿」のシンボル的な水車の周りにも人が多い。
水車から上った所に「清水屋資料館」の古めかしい建屋が立っている。
今回の紀行では「馬篭宿」は街道筋をサッと廻ろうと考えていた。観光客も多いし、前に内部は見ていたので、省略しようと。

防火用のバケツ

常夜灯と水車

清水屋資料館 説明


石畳の坂道を上りながら、宿場の雰囲気を楽しむ。観光客は団体やグルーブが多く、驚いたことに外国人が多い。夏休みなので 家族連れの外国人が、日本の風景を楽しんでいる。

藤村記念館

「こんにちは」と挨拶すると少し驚いたように「コンニチワ」と。 きっと外国人用のガイドブックに日本の原風景として「馬篭宿」「妻籠宿」が取り上げられているのだろう。

石畳の坂の側溝にはきれいな水が流れ、土産物屋・民宿の古風な建屋が立ち並び、宿場の雰囲気が感じられるが、観光客が 多いので、味わうまでには行かないのは残念だ。
「島崎藤村の墓」の矢印があり、街道から外れて「永昌寺」の方に向かうが、前回訪れたのでパスする。
林の中にお墓があり、 そこからの眺めが良かったことを思い出す。
郵便局を過ぎ、本陣跡に建つ「藤村記念館」を確認して、前の「観光案内所」を見るが、今持っている資料・地図が有料に なっているには驚いた。
本陣が「藤村記念館」となり、数軒隣の脇本陣は「馬篭脇本陣資料館」となっている。史跡を記念館・資料館として活用し、 歴史と文学を継承しているのは、さすが観光に熱を入れる「馬篭宿」、見事だ。
土産物屋さんも繁盛していて、食堂は昼時で混んでいる。観光地「馬篭宿」なのだ。

馬篭宿の街並み

島崎藤村の墓(2007年撮影)

馬篭脇本陣資料館 説明


石畳の坂を上り切り、「馬篭宿」東の入口に到着する。県道を越えた向こうに「高札場」が大きくそびえている。
今回の紀行前に、長男の嫁のお父さんから「馬篭宿」に行くなら、「高札場」前の「恵盛庵」の手打蕎麦を味わうようアドバイスを 頂いていた。ただし、売り切れになることがあるので、注意が必要と。
早速、「恵盛庵」を訪れると、団体客で一杯で座る所もないので、入口で待っていると一席空いたので滑り込む。 「冷やしとろろ蕎麦」を注文し、冷水を一気に飲み干して待つ。蕎麦は腰があり、少し堅い位だが美味しい。噛めば噛むほど蕎麦の 味がする。ゆっくりと味わいながら素敵な昼食を楽しむ。(12:45-13:10)

馬篭宿・東の入口

高札場

蕎麦処・恵盛庵



「落合宿〜馬篭宿A」の「紀行スライドショー」


「美濃路」最後の「落合宿」を過ぎ、新茶屋の「美濃・信濃・国境碑」で、「木曽路」に入った。
今までは人に出会うことが無かったのが、「馬篭宿」に入ると凄い観光客に驚くと共に、静かな歩行の楽しさを改めて感じ入った。 観光地の紀行も良いが、自然と史跡を楽しみながらの静かな紀行が合っていると。
さあ、次の「妻籠宿」も観光客が多いだろうし、お祭りなので、雰囲気が味わえないのではと心配しながら、「馬篭峠」へ踏み出す。


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