○ 「中山道No10」見聞録(中津川宿〜野尻宿)・(距離 32.0km/ 230.7km/ 303.3km) 10−4.(42)妻籠宿〜(41)三留野宿・(5.9km) 2009.07.25 8:15〜10:00 曇り
昨夜の楽しいお酒で、熟睡したが、早く寝たので、夜中に目覚め、「朝まで生テレビ」をウトウトとしながら見る。5時過ぎには明るく なって来たので、窓からのぞくと雨は止んでいる。 玄関は閉まっているが、おかみさんから聞いていた閂を外して表に出る。湿気は多いが、大阪の様な蒸し暑さはなく気持ち良い 冷たさを感じながら、「妻籠宿」の中心部に向かう。 昨夜のお祭りの賑やかさが嘘のように、人っ子一人いない。「妻籠宿」を独り占めにする感じだ。
昨日、歩いて来た宿場を逆に進む。まだ朝靄が立ち込め、静かな「妻籠宿」をゆっくりと進む。本当に誰もいない。 昨日までのお祭りの提灯が掲げらており、いつもの宿場町の趣きとは違った光景だろう。本陣・脇本陣等の史跡を邪魔されることなく 見学する。 人通りが多いと見られない小さな光景もこの時間であれば見られる。山にたなびく雲と街並みも幻想的だ。 今日の行程に備えて、自動販売機でお茶を買おうと宿場の端まで行ったが、自動販売機は何処にもなかった。電柱もなく、自販機も なくしている徹底振りがなければ、この見事な雰囲気を維持出来ないのであろう。探していた自分が恥ずかしい気がした。 写真とスライドショーで「早朝の妻籠宿」を記憶に留めたい。
「早朝の妻籠宿」の「紀行スライドショー」 泊まらないと味わえない「早朝の馬篭宿」散策を終え、民宿に戻る。閂をもう一度掛けて、部屋で荷物の整理と。 7時30分から朝食をいただく。質素だが、地元の食材が豊富で、2.5杯お代わりして、今日の行程に備える。同宿のご夫婦と昨夜の お祭りの話をしながら。 もう一人、アルゼンチンから来られた女性の先生が同宿されていたそうだが、泊まるだけで、今朝早く出発されたと。地球の反対から 木曽に来られる動機は何なのだろう。カメラを片手に2日間歩き回られたそうだ。日本の田舎の光景はアルゼンチンにないのだろか? ペットボトルにお茶と水を入れて用意万端。 ご夫婦に何処かでお会い出来れば・・と挨拶し、出発する。(8:15)
天気は曇り空だが、予報ではにわか雨注意とある。予定では「三留野(みどの)宿」から「野尻宿」まで進み、余裕があれば、次の 「須原宿」まで行こうと考えている。 民宿の女将さん・若女将の見送りを受け、「妻籠宿」の東の端から坂道を上って行く。雨に濡れた舗装道路を進むと「妻籠城址」の 標識が立つ。 少し寄り道をして城址を見ようと急な坂道を上る。尾根伝いの道を進み、更に坂を上ると「妻籠城址」の広場に到着する。 妻籠城は、主郭・二の郭・空堀・土塁・帯曲輪を備えた規模の大きな山城で、主郭からの妻籠宿、三留野宿の展望がすばらしい。 天正12年、徳川軍7千を木曽勢はわずか300で籠城して撃退した戦闘が実際に行われた。 城は元和の一国一城令によって破却されたが、その時の障子を脇本陣が拝領し、現在も神殿の間に使われている。(妻籠観光協会HPより) 城址からは眼下に「妻籠宿」の街並みが望まれ、反対側からは木々の間に「三留野宿」方面が広がっている。 城址から元の道に戻り、今眺めた「三留野宿」に向かう。
緑に囲まれた緩やかな坂を上って行くと復元された「水車小屋」が建っている。「馬篭宿」から東では「水車小屋」と 数多く出合っている。水が豊富なことだけなのだろうかと? その先には 「木曽路にて この暮れの もの悲しきに わかくさの 妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも」と歌った「良寛歌碑」が 立っている。良寛和尚もここを通ったのだ。 久し振りに「一里塚」が迎えてくれる。「馬篭宿」手前の「新茶屋一里塚」からここまでなかったはずだが。 「上久保一里塚」は少し小型だが、道の両側にこんもりと塚になっている。
湿度が高く、汗が流れ落ちるようになった。山から流れ落ちる水流を見付けて、顔を洗い、タオルを浸して鉢巻・首巻きのいつもの スタイルで進む。
道脇に立つ「せん澤の碑」は道標になっている。 小さな橋を 渡って進むと「かぶと橋」があり、渡った所に道標となる「かぶと橋の碑」が立つ。
少し進んだ所に広い空間があり、「かぶと観音」の社と横には大きな枝垂れ梅が迎えてくれる。 妻籠に砦を築いた木曽義仲が北陸路に出撃せんとする時、鬼門の守りに兜前立の観音像を外してここに祀ったのが「かぶと観音」の起こりと 伝わります。 境内の植生もツバキ、サルスベリなど多彩です。枝垂梅は3月末〜4月初旬に満開となります。 近くには義仲・巴のロマンスを伝えるのっぽのアカマツ、「そでふりの松」もあります。(南木曽観光協会HPより) 木曽義仲は「大津宿」の「義仲寺」に祀られており、横には「巴塚」として巴御前も祀られていた。その背中合わせに「松尾芭蕉の墓」 があったのを思い出す。この地で兵を挙げ、連戦の後、大津で討ち死にしたのだと思いながら参拝する。 境内には色々な史跡が残されている。大きな「かぶと観音」の石像の手には兜がかかげられ、史実を表している。 片隅には柵で囲まれた石があり、「義仲腰掛け石」だと。そして、大きな「水舟」に水が湛えられている。 これは木曽義仲が弓を射るのに 邪魔になった松を、巴御前が袖を振り、なぎ払ったと云われる「袖振り松」が松くい虫の被害により、今年(平成21年)伐採され、 地元の熱意で、長さ7mの大きな水舟にしたと。 木曽義仲と巴御前のロマンスの場と表現されているが、史実と史跡がふんだんに凝縮した場所なのだ。水舟の水は使えないので、横の 水道の水で顔を洗い一息入れる。(9:10)
歩き始めると「袖振り松」が植わっていた所には石碑が立っている。昨年まではここに大きくそびえていたのだろうと思い ながら、「神明神社」の前を通って進む。 植木の手入れが行き届いた立派な家の庭を眺め、快調に進む。「馬頭観音」が祀られた道を下ると、久し振りに木曽川が見られる 高台に出た。 小さく橋が見える。木曽川に架かる木造吊り橋「桃介(ももすけ)橋」で大正時代に水力発電用の資材運搬用に 架けられたと。福沢諭吉の娘婿・福沢桃介が社長を務めていたので命名されたそうだ。 坂を下っていると旧街道から離れた広場に「蒸気機関車」が置かれている。堂々とした「D51」が、特に説明もなく展示されているのに 驚き、パチリ。 元に戻り進むとJRのトンネルの出口の真上に出て、線路を下に見ながら南木曽駅の上に至る。中津川からJRを離れて進んだが、ここで 再び合流したのだ。
地元の神学者を称える「園原先生碑」を見て、木曽川の方を見下ろすと木曽檜の集積場と先程の「桃介橋」が大きく見える。この 南木曽は木曽檜を発送する中心地で、木曽森林管理署もある。 道端の栗の木にはイガイガの実が大きくなってきている。秋の息吹きが、檜の香りと一緒に感じられる。 製材所の前に立派な社の模型が置いてあるので、写真を写していると、軽トラに乗った方が停まり、木曽檜で作った社の説明をしてくれる。 檜の皮を重ねて屋根に貼って行くのだと。全国の寺社の檜屋根はここの檜が使われていると地元の材料への自負が感じられる。 檜は立派だが、この辺りの道標はほとんどなく、迷いながら「三留野宿」の中心に向かう。やっと「常夜灯」を見つけ、旧街道だと 安心する次第だ。
「三留野宿」はもう少し先にあるのだが、道標に「与川道」の表示が出て来る。「三留野宿」から次の「野尻宿」への ルートが2つあるのだ。
その「与川道」の道標はあるのだが、本来の「中山道」の表示が見つからない。 ガイドブックには「階段を下る」とあるが、 それらしき階段には「与川道」の表示があり、ウロウロと迷ってしまう。 丁度、車で来られた方に聞くと「中山道」はあの階段を上って進めば良いと。 道に迷ったので、少し冷静さを欠いていたようだ。 ガイドブックや色々な地図は、江戸から京へと東から西への進み方を記述している。
元に戻って「階段を上り」少し進むと「三留野宿・本陣跡」の法務局に到着する。ここで一息入れる。(10:00) 「三留野宿」は小さい宿場で、史跡もほとんど残っていない。少し寂しい気持ちで宿場の外れまで進むことにする。 緩やかに曲がる旧街道にには古い家並みがあるが、少ない。 やがて、下にJRの線路と木曽川が見えて来る。JRのガードをくぐると国道19号線と合流する。 「妻籠宿〜三留野宿」の「紀行スライドショー」
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