○ 「中山道No20」見聞録(深谷宿〜大宮宿)・(距離 46.0km/ 501.6km/ 31.4km)
20−3.(07)鴻巣宿〜(06)桶川宿・(7.2km) 2012.04.19 07:35〜10:30 曇り時々晴れ
6時前までぐっすりと眠り、足腰の疲れは軽くなったが、筋肉痛は残っている。6時45分から朝食が食べられるので、身支度を整え、ロビーで 新聞を読んでいると6時30分なのに、朝食がOKだと。 バイキングの朝食は品数も多く、お粥もありgoodだ。しっかりと食べて体力を増進する。チェックアウトをして、桶川駅に向かう。歩いていると足は 少し重い。 天気は後半崩れそうだが、紀行している間は大丈夫そうなのは有難い。満員のJRに乗って、昨日の終了地点である鴻巣駅まで戻る。この 距離を歩くのだと思いながら、車窓から旧街道から離れた「原馬室一里塚」を探すが分からない。踏切が少ないことを確認して置く。 7時35分、鴻巣駅から旧街道に戻り、「桶川宿」に向かって出発する。 県道164号線を進むと「鴻巣宿」の街並みが続き、古い材木屋が建つ。その向かいに「本陣跡」の石碑が立っているが、面影は残っていない。 小道を入った空き地に「仲町会館建設記念碑」が立っている。この辺りが本陣や仲市場があったと。 旧街道に戻り、少し進んだ右奥に立派な「勝願寺」が建っている。境内には桜並木が続き、もう少し前だときれいだったと思いながら、 由緒あるお寺の参拝は省略して旧街道に戻る。
まだ交通量の少ない県道にはスズラン燈が立ち並び、宿場町の風情を残している。少し進んだ街灯には「雛・人形町」の旗が掛かり街の 特徴を表している。「是よりこうのす宿」の碑が東からの旅人を迎えてくれる。 古い商家や「雛屋歴史資料館」が建ち、雛人形が展示されている。埼玉県は雛人形を始めとする節句人形作りが盛んで全国第一位約46%の シェアをもっているそうで、その中でも鴻巣市は全国的にも有名な生産地としてゆるぎない地位を確立しているそうだ。
平坦な舗装道路の県道は左に「八幡神社」を見る位で史跡もなく、淡々と進むと北本市に入る。埼玉県は市の区域が細かく分かれている ようだ。
細い道を曲がり、JR高崎線の踏切を渡って。線路沿いの道を北本駅に向かって進む。 左は線路、右手は畑の光景が続き、右に「一里塚」らしき丘が見えて来る。その間、踏切はないので、先程の踏切を渡ったのは正解だった。 「原馬室一里塚」には桜の木が植わっているが、既に葉桜になっているのは残念だ。なかなか立派な「一里塚」の下で一息入れる。 (8:35-8:40) 少し進んだ所にある踏切を渡り、県道に戻る。少し戻って「浅間神社」に向かうと境内ではゲートボールを楽しんでおられるシニアの方々が 居られご挨拶。本殿への階段は急なので、上って参拝するのはパスして元に戻る。 県道を進むとJR北本駅への入口となる。昨日、ここまで歩けたらと思っていたが、ここまで1時間余り掛かっているので正解だった。
北本駅を過ぎて左に「天神社」の鳥居を確認して進むと満開の桜が門前に咲く「多聞寺」が迎えてくれる。なかなか見事な桜だ。先程の 「原馬室一里塚」の桜がこのように満開だったら良かったのにと。 県道を進むと左に「中山道北本宿」の碑と横には案内板が立っている。案内板によると、北本は元々の中山道の宿場で慶長の 頃に鴻巣へ宿が移され、そのため北の元宿ということから北本の地名となっているのだと。宿場も時代によって代るのだ。
再び、単調な県道の行程が続く。淡々と進んで行くと桶川市に入る。いよいよ「桶川宿」が近いと気を入れるが、史跡はないので、 広い整形外科病院の前で一休みする。(9:20-9:25) 旧街道沿いに白壁の長い塀がある旧家があり、少し雰囲気を感じながら、市役所入口の交差点まで進むと交叉点の角に「道標」が立つ。 かっては「一里塚跡」があった場所だと。旧街道から右離れた桶川小学校の行程の中に「松山道道標」が立ち、 「松山いなり道 本小田原道」と刻まれている。 「一里塚跡」の反対側の角には「中山道桶川宿」の碑が立っている。いよいよ「桶川宿」に到達したのだ。
県道沿いの旧街道を進むと直ぐ左側に「上の木戸跡」碑が古い商店の横に建ち、道路の向かいにはその「今福屋」さんが店を開いている。 「桶川宿」はまだ古い面影が残っているようだ。 道路から左の小道を入った所に「レンガ造り建物」が残っている野を確認して「中山道・桶川宿」の旗が掛かっている街灯が立ち並ぶ「桶川宿」の 街並みを進む。右側には「桶川宿」の案内板が立ち、行政も「桶川宿」のPRに努めていることが良く分かる。
道脇に「中山道桶川宿案内所」が建っているので、中に入って展示物を見学する。
向かい側に立派な「桶川宿・本陣遺構」の門構えが建っている。 本陣とは、参勤交代の際、大名が使用する宿場に設置された宿泊所で、 桶川宿本陣は、加賀百万石の前田家の宿所とされたほか、 水戸藩主徳川斉昭 (徳川15代将軍慶喜の父)も利用したとされています。 また、文久元年(1861)には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したことでも知られています。 現在は、一般の民家となっていますので、 建物の公開は行っていません。(桶川市観光協会HPより) 「桶川宿」には皇女和宮が宿泊したので、その史跡が保存されているようだ。詳しくは覚えていないが、和宮が宿泊した宿場の方が 史跡の保存が多いのではと。 街道筋には古い建屋が残っている。材木屋の「小林家住宅」は、和宮御下向じには旅籠だったそうで、その面影が残っている。 穀物問屋だった「矢部家」は、江戸時代に紅花商人で、蔵造りの建物は当時の紅花商人の栄華を物語っていると。古い「島村老茶舗」も 当時の面影を残しており、久し振りに宿場町の雰囲気を味わう。前の街道が、県道でなければもっと趣きがあるのだがと思いながら進む。
少し進んだ小道を入ると「島村家3階建土蔵」が建っている。 天保7年(1836)の建築と伝えられ、桁行6間、梁間3間の総3階建ての土蔵で、市内に現存する最古の建物。 島村家は、桶川宿場内の穀物問屋で、屋根の両端にある鬼板には、屋号の木嶋屋の「木」の字が 刻まれています。天保の飢餓に際しては、 飢餓に苦しむ人々に仕事を与えるため建てられたことから 「お助け蔵」と言い伝えられている。 (桶川市観光協会HPより) 旧街道に戻ると昔の旅籠で現在も開業している「武村旅館」の古い建屋が当時の面影を残しているのは嬉しい。 少し進んだ道角に「下の木戸跡」石碑が立ち、「桶川宿」を終える。
「鴻巣宿〜桶川宿」の「紀行スライドショー」 「桶川宿」は関東圏に入って一番昔の雰囲気を残していると満足して、次の行程に進む。
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