○ 「中山道No20」見聞録(深谷宿〜大宮宿)・(距離 46.0km/ 501.6km/ 31.4km)
20−4.(06)桶川宿〜(05)上尾宿・(3.7km) 2012.04.19 10:30〜12:40 曇り時々晴れ
「桶川宿」から「上尾宿」までは県道歩きとなる。 単調な旧街道を進むと直ぐに上尾市に入り、「庚申塔」の祠が祀られているのが旧街道の名残か。 広い道と交叉する角に長い板塀の立派な屋敷が建っている。この辺りの名産でもある紅花の問屋である豪商「須田家」だと。立派な板塀を 眺めながら進むと右手奥にはJR北上尾駅が見える。(11:00) 史跡は少ないが、「道標」は道沿いに立っているのは、行政として「中山道」を保存しようとしているのだろう。少し進んだ広い道の角に 「上尾宿案内板」と「「中山道・上尾宿」の碑が立っている。その時気付かなかったが、案内板の屋根の上には火災除けの「鍾馗様」が 祀られている。(半分しか写っていない)。この辺りでは「鍾馗様」を火災除けの守り神として祀られている所が多いようだ。
「文楽」と云う洗練された酒造の前を通り進むと「庚申塔」が祀られている。なかなかリアルな像だ。 旧街道は左奥に「遍照院」を過ぎ、「中山道・上尾宿」の石碑を見て宿場町を進むが、火災によって史跡は ほとんど残っていない。「鍾馗様」はそのような火災の経験から祀られるようになったのだろうが、なかなか確認出来なかった。後で、 調べると古い建屋の屋根などに祀られていたのだと知った次第だ。 上尾駅付近のビルの装飾は「鍾馗様」を模していると思われ、記録として写すが、本物の「鍾馗様」は写せなかった。
駅前の道を過ぎた所に「上尾宿・本陣説明板」が立っている。本陣は無くなっているが、「上尾宿」の繁栄ぶりを表している。
創建は貞享元年(1684)。「鍬太神略由来」によりますと、寛永八年(1631)桶川宿のほうから童子らが台車に櫃を載せて上尾宿に引いて きて歌い踊り、さらに江戸まで送りましたが、当宿に戻され、本陣前で台車は動かなくなりました。このため、 上尾宿のものが櫃を空けると、中に御幣束と違い形に結びつけてある小鍬二挺と藁筒が入っており、 そこで社を建立し小鍬二挺を祀り、稲穂を供えたと伝えられております。 神体の鍬は五穀守護の 豊鍬入姫命で、稲穂を御小稲と称して播いて種を増やし庶人に分けられております。 当社境内の二賢堂碑や雲室上人生祠碑によりますと、天命八年(1788)上尾宿山崎武平次は、雲室上人を江戸から招き宿内に郷学聚正義塾を 開設、学舎には二人の賢人である朱子と公菅原道真を祀り、林大学頭信徴筆の二賢堂の額を掲げ、近郷子弟の学問所としたことが 記されております。(上尾市観光協会HP他より) 境内で本殿に向かって参拝し、旧街道を進むと左の脇本陣跡と云われる垣根には、「鬼瓦」が飾られていて、面白い。これも「鍾馗様」と 関係するのだろうかと思いながら進む。
昼食の場所を探さなければならないが、「上尾宿」を出ると店はないと思い、探しながら進むとラーメン屋があったので、昼食にする。 なかなか美味しいラーメンを食べ、午後の作戦を検討する。(12:00-12:25) 腹ごしらえを終え、県道を進むと「愛宕神社」が鎮座し、その先には「庚申塔」が祀られている。保存状態も良く、立派だ。この辺りは 「馬頭観音」はなく「庚申塔」が多く「鍾馗様」が祀られているのが特徴のようだ。
「桶川宿〜上尾宿」の「紀行スライドショー」 再び、退屈な県道歩きを続けて「大宮宿」に向かう。
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