○ 「中山道No17」見聞録(下諏訪宿〜塩名田宿)・(距離 46.4km/ 370.4km/ 162.6km)
17−1.(29)下諏訪宿〜(28)和田宿・(21.6km) 2011.08.02 7:15〜17:10 曇り時々晴れ
昨年秋に「下諏訪宿」に到達し、諏訪湖を眺めて、遠くまで来たものだと感激した。次は「中山道」の最大の難所と云われる「和田峠」越え なので、何時の時期にするか考えていた。秋には関西の新聞でも熊の出没で怪我を負った人のニュースもあり、冬の峠越えは雪でNGと考え、 春になれば実施しようと決断した。 しかし、その間に小学校時代の友人と二人で、大阪から伊勢までの「伊勢本街道」紀行を実施し、7月21日に8回・9日間で約170kmの 紀行を完歩した。 そこで、中断していた「中山道」紀行を再開することにした次第だ。昨年10月以来、約10ケ月振りの紀行に計画を立てる段階で、 心が躍る。 前回と同じく、夜行バスで松本まで行き、JRで下諏訪に向かう予定で、天候と「和田宿」近辺での宿泊所の確保で出発日を決めることにする。 夏場で夜行バスも満席が多く、宿泊所の確保を急ぐが、「和田宿」の本亭旅館はNGで、別の送迎付きのペンションを紹介すると。次の「長久保宿」の 浜田屋旅館は合宿でNG。止むを得ず本亭旅館に再連絡し、ペンション(サイレント・スノー)を紹介してもらい、宿泊所は確保できた。夜行バスの席も確保できたので 8月1日の夜行で出発することにする。 当初は、2日目に「和田宿」から歩き、適当なところまで進み、佐久平までバスで行き、夜行バスで帰る予定にしていたが、「青春18きっぷ」の 期間中なので、佐久平に泊まり、翌日は鈍行で帰ろうと企画し、佐久平のビジネスホテルも予約出来、ワクワクしながら当日を待つ。
待合室に行くと横の年配のご婦人が松本まで行くと。話していると旅行経験も豊富で、経験談をお聞きする。一人旅で信州の美術館巡りを するとのことだ。バスは満員で、定刻通りに発車するが、前回のように直ぐには眠れなかったが、その中に眠ってしまう。 8月2日5時に辰野SAでトイレ休憩で下車し、伸びをする。少しひんやりしているが、曇り空だ。定刻の6時16分前に松本駅前に到着し、コンビニで おにぎりと弁当を買い求め、松本駅に向かう。
7時04分に 下諏訪駅に到着する。ホームには「御柱」が飾られている「諏訪大社」の御前駅そのものだ。 今回の「和田峠」越えは一番の難所と云われているし、先達の方々も気を付けてとアドバイスを頂いていたので、前回に「下諏訪宿」を 見聞し、「諏訪大社・春宮」も参拝していた。体力温存のため、タクシーで「春宮」まで行くことにしていた。運転手さんに、旧街道を 走ってもらうようにお願いし、前回歩いた旧街道を再見聞する。 この「旦過の湯」で入浴したと話すと、この銭湯は一番熱いお湯だと。 「春宮」に到着し、今回の紀行の安全を願い参拝する。
7時35分、「中山道」最大の難所「和田峠」に向かって出発する。 「春宮」から旧街道へのカーブからは諏訪湖が眺められ、反対の道角に「右・中山道」の道標が立っている。急な坂道の左側には立派な 「杉並木」が立ち並んでいる。国道142号線と合流して少し進むと左側に旧道が通り、狭い旧道に向かうと国道と合流する手前に「山の神・ 道祖神」が祀られているが、さすが諏訪、四方に御柱が立っているのだ。
再び、国道の緩やかな坂を上っていると、右手に「山の神神社」の鳥居が見える。更に進むと「毒沢鉱泉信玄隠し湯温泉」への道が 別れている。「武田信玄」の名前が出て来たのは初めてか? 右側の旧街道に入って行く。国道も車の往来は少ないが、旧道の方が気持ち良い。しかし、再び国道と合流し進むと、「諏訪地方・ 電気発祥の地・落合発電所」の標識があり、発電所の塀に沿って上って行くと「芭蕉句碑」が建ち「道祖神と馬頭観音」が祀られている。
発電所に沿った道はきつくて、途中から階段にもなって、水を通すパイプの横を上って行く。 上り切った所が有名な「木落し坂」で下を見下ろすと勾配のきつい草原が一直線に下の道・川まで落ちている。ここを「御柱」が 落ちて行くのだ。よくテレビで見る光景がオーバーラップされる。怖い位の傾斜だ。
坂に突き出すように「御柱」が置かれ、勇壮な姿を想像させる。 下の砥川の対岸には観覧席も設けられ、「御柱の木落し」時の熱気が伝わってくるようだ。しかし、今は静かで、青草が100m余り続いている。 坂の上には「天下の木落し坂」の碑が立ち、名所の風格が漂っている。暑くなったので、シャツを脱ぎ、Tシャツ1枚になり、一息入れる。 ここから、今夜泊まるペンション(サイレント・スノー)にスタートしたことを伝え、今夜の宿泊をお願いする。(8:00-8:15)
一息付いて、「和田峠」への道を進み出す。
テレビでここに固定された綱を斧で切る様子を見た。斧で切られた瞬間に「御柱」が「木落し坂」を下って行くのだ。 何となく感激し、 もう一度「木落し坂」の方向を振り返ると松が美しく、「疑似御柱」も見え、なかなかの景観だ。 「下諏訪宿〜和田宿」の「紀行スライドショー@」 ここで、大きな間違いをする。「木落し坂」から住宅街を進むのだが、直ぐ左折しなければならないのを真っ直ぐ進んでしまったのだ。 先達の方も同じ間違いをしたことを読んでいたが、左折する道標があると思い、ついつい進んでしまった。 家の前に居られた方に尋ねると、ずっと向こうだと。トボトボと元の道を戻り、再度確認すると、そこを曲がって行くと町屋敷バス停に出ると。 その場所から、先程眺めた「木落し坂」の景観が見られた。全くのロスタイムは20分だ。道標が欲しい場所だ。 住宅街の中の道を進むと鉄塔の横の広場に「道祖神」が四方を「御柱」で囲まれ祀られている。やはり「御柱」はこの地方の象徴なのだ。 住宅地を進むと再び国道142号に出会い、その地下道を抜けて向こう側に進むと「中山道」の道標があり、「地下道を渡る」と書かれている。 東からの旅人には親切だが、西からには不親切だと20分のロスタイムの愚痴が出る。 歩道のある国道を進む。前方に白い水蒸気が出でいるのを見ながら進むと、温度計が設置されており、21℃と表示している。 やはり涼しいのだ。 水蒸気の元はリサイクル工場のもので、その道脇に「一里塚碑」の標識があり、「私有地を通るため、大型車に注意」と書かれている。これは チェックしなくてはと、坂を降りてリサイクル工場の裏側に廻る。草むらの道は昨夜の雨で濡れていて歩き難い。草むらの中に「中山道五十四里塚」 の碑が立っている。この辺りが旧街道だったのだと思いながら、少し進むが行き止まりとなっていて、元の国道に戻る。
緩やかな国道をひたすら上る。車も少なくて、歩道もあるので歩き易いが、国道歩きは精神的に面白くない。
また、右手の旧道に入り、静かな道を進むと「山の神神社」の質素な鳥居が立つ。今日二つ目の「山の神神社」だ。この辺りはリサイクル工場が 多いのだ。国道の下をくぐると「浪人塚」が立つ。何故、こんな所に「浪人塚」があるのか、説明文を読む。(9:30)
主要武器はきわめて初歩の大砲十門位づつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍、刀が主要武器として使われた。半日戦に浪士軍に 10余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。 碑には当時水戸に照会して得た六柱だけ名前が刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。」(下諏訪町教育委員会) 幕末にこんな場所で、尊王攘夷の争いがあったことは知らなかった。「中山道」には知らない史跡がちりばめられているのだ。 感心しながら、再び国道の下をくぐって国道に合流する。ここからの上りの国道は「和田峠」のトンネルに通じているが、工事中で片側通行に なっていて、歩道がないので車に注意しながら上らねばならない。 曇り空だが、湿度が高く、少し息切れして来たので、退避場になっている国道の脇の木陰で一息入れ、水を飲み、お菓子を食べる。(9:50) 蒸し暑い国道をひたすら上って行く。右側に旧道の標識があり、国道から離れて初めての地道になり、木陰の急な道を上る。 やはり、舗装道路でないので膝が喜んでいる。「熊に注意」の標識が立っているので、リュックから鈴を出し、熊が出ないように願いながら上る。 緑の地道は途中からガレ道になり、歩き難い。再び地道になり、快調に上ると「西餅屋一里塚跡」の碑がひっそりと立っている。
坂が少しづつ急になり、息が弾んで来る。国道の舗装道路を横切って、再び地道を進むと「西餅屋立場跡」の説明文が立ち、少し奥の 木陰に「牛頭天王」と刻みこんだ石碑が立つ。「中山道」でも西の方は「馬頭観音」が多いが、東に行くと「牛頭」があるとの話を 先達の方から聞いていたので、これからの出会いが楽しみだ。 勾配が強くなった地道を上ると再び旧国道に出会い、それを渡り一息入れる。疲れが激しくなって来る。(10:45)
また、旧国道に出会い、道を渡った所の道標を見ると「和田峠」まで0.9kmと表示されている。 先程の休憩から10分余りだが、道端の石の上に座って一息付く。 横を走る車から、こんな所に人がいると好奇な目で見ながら快調に走っているが、こちらは青息吐息だ。(10:55-11:10) 後900mで頂上だと気持ちを引き締めて歩き始めるが、足が進まない上に呼吸が激しくなる。昨年夏の 「富士登山」の9合目から頂上までの苦しさと同じ位でスピードは 上がらない。 草が生い茂り、道が分からないような野道を過ぎ、木立と熊笹の道を本来なら気持ち良く上るのだろうが、フーフーと云いながら 進んで行く。右手に石組が見え、これが「石小屋跡」で人馬の退避所、荷置場として活用されていたと。 「石小屋跡」の前に座り込んで休憩する。座って水を飲み、休んでいると睡魔が襲って来る。昨夜の睡眠不足が影響しているのだろうか。 気を付けなければと思いながらしばし休む。(11:25)
後少しで頂上だと心を高ぶらせて進む。石の上には苔が生え、道端の石仏も見落とすような苔むした状態になっている。「水呑場」があるが 期待していた水はなく、きつい九十九折れの道を息を弾ませながら上って行く。 道の横には黄色いきれいな大きな茸も迎えてくれるが、苦しい。
最後の急な坂を上り切ると視界が広がり「和田峠」の頂上に到達した。
中山道は、平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と京都側の 下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い。 冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた。このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や茶屋が設けられていたほどである。 (諏訪市・長和町観光協会HP他より) 頂上の広場に到達し、ホッとすると共に、「中山道」最大の難所を踏破した満足感を味わう。 頂上には「中山道」の碑も立ち、涼風が気持ち良い。曇り空で、見晴らしは良いものではないが、山々が望まれ、峠の上に居ることが 実感できる。 コンビニで買った弁当を広げて昼食にするが、口に入れて噛むことは出来るが、飲み込むことが出来ない。疲れから食欲がないのは分かるが、 食べなくては次の行程に影響が出るので、食べようとするが・・・。お茶で流し込むが、数口で食べることを諦める。 周りを見ると石仏が祀られていたり、白樺湖や扉峠への道標があったりと地理勘が分かる。疲れを癒して休憩する。(11:50-12:15)
「下諏訪宿〜和田宿」の「紀行スライドショーA」 下諏訪町から長和町に入り、緩やかな下り坂を進む。横には和田スキー場のゲレンデが広がり、冬には積雪が深いことが分かる。木立や熊笹の 道を下ると「霧ケ峰ビーナスライン」と交差して、下って行く。 ずっと以前に白樺湖に社内旅行に行った時に通った道を横切るとは思っても見なかった。ウネウネと曲がるビーナスラインを直角に真っ直ぐ下って行く。 最後のビーナスラインは道路の下をトンネルでくぐる楽しい道だ。下り坂なので、疲れもなくスイスイと緑豊かな道を下る。旧国道に出会い、道路標識を 見ると「美ケ原高原」「霧ケ峰高原」「ビーナスライン」の文字が見え、「和田峠」を越えて来たことを認識する。
地道から旧国道の舗装道路を下り始めると「東餅屋跡」の説明板が立つ。「和田峠」を越える時の休憩所として茶店が五軒連なり、お餅を 売っていたのだと。 旧国道に餅屋ではなくドライブインが建っている。弁当を食べられなかった分、お餅でも食べようと入ると蕎麦があるのでざる蕎麦を頼む。 冷たい水を出されて一気に飲む。お代りを入れようとすると容器がカラカラと。氷が入っているのかと思っていると御主人が黒曜石を 入れていて、水の冷たさは清水そのままだと。 先達の方から、「和田峠」の名物は黒曜石だとアドバイスをいただいていた。これなのだと思い、店に置いてある黒曜石を1個買い求める。 (帰宅後、麦茶の容器に入れ、愛用している) ざる蕎麦は美味しく、先程、弁当が食べられなかったのが嘘のように、スルスルとお腹に入って行く。これで、後半のスタミナも大丈夫だと 安心する。(12:50-13:15)
ここからは、一気に下って行こうと心新たに出発する。旧国道から地道の旧街道に入る予定だったが、ハプニングで道を間違える。 ドライブインを出て、少し下っていると乗用車の老夫婦が車を停め、「中山道を歩いているのですか?」と。「和田宿まで行きます」話し、 「頑張ってください」と激励を受けて、下って行く。右に旧街道入る道標があると探しながら下るが、それらしき道標が見当たらない。 もう少しかと思って下るが・・・。もう一度戻るにも大分下ったので、上る車を見つけて乗せてもらおうとするが、停まってくれない。 やっと1台、白樺湖のホテルのマイクロバスが停まってくれ、乗せてもらう。 「中山道」はここから地道に入るのだと停まって頂き、お礼を云って降りるとそこは先程、ドライブの方と話した場所ではないか。 少し上に道標があり、「和田峠遺跡群」の説明板が立っている。丁度、この場所で会話したので、道標を見落とし、分岐点の道は見ていたが、 道標がないので、まだ下なのだと通過してしまったのだ。20分余りのロスは身体的よりも精神的にダメードがある。 この分岐点に道標があればと思いながら、石畳の旧街道を下り始める。キャンプ場を過ぎ、静かな石畳のみちを下るとこんもりとした熊笹に 覆われた小山があり、これが「広原一里塚跡」なのが分かり、旧街道を歩いていることを確認する。
旧街道は川沿いに下って行き、せせらぎの音を聞きながら、気持ち良く進む。時々、小さな滝に癒されて進むと苔むした石畳が続き、 滑らないよう注意しながら快調に下る。 前方に建物が見え、「避難小屋」だと。その横に沢から引いた冷たい水がトウトウと溢れている。「和田峠」では水浴びが出来なかったので、 顔を洗い、頭から水を被り、鉢巻きと首に冷たいタオルをかける。生き返った気持ちだ。
夏恒例の水浴び行事が出来、心新たに下り始める。木立に囲まれた旧街道の下り坂は気持ち良く、上りに比べると下りの方が勾配が 緩いように思われる。しかし、距離的に長いので、東からの紀行も大変だろうと。 川を渡り進むと「常夜燈」が立ち、峠道で出会うのは珍しいと思いながら進むと先程間違った旧国道に合流する。その先に 「接待茶屋跡」の建物が復元されており、屋内にはかまども作られている。裏手には「馬頭観音」が祀られている。ここの水は美味しいとの ことだったが、竹の水汲み口からは水場は出ていず、乾いているので諦め、一息入れる。(14:10)
少し旧国道を下り、道標により、右側の地道に入る。この様な道標があれば、道を間違えないのにと思いながら旧街道を進む。 歩き易い地道は木立だったり、草の道だったりと気持ち良く下る。 木立ち越しに黒い雲が見え、ポツポツと雨が降り出す。傘を差す程でもないので、木陰を縫って下って行くと「休み茶屋跡」の建物と 横には「三十三体観音」が祀られている。説明によれば、千手観音十三体、如意輪観音四体、馬頭観音十体、不明二体、未発見四体で、 峠の難所を往来する人馬の無事を祈ったのであろう。(14:25)
少し下ると旧国道に出る。そこには「中山道」の石碑の道標が立ち、東からの旅人は間違うことがない。(少し愚痴が多いか) 旧国道は和田峠トンネルを抜けて来た国道142号線に再び合流し、佐久・上田方面に左折する。 国道の角には「中部北陸自然歩道」の標識が、「笠取峠17.1km」と随分先を示している。 歩道のある国道を淡々と進むが、何の標識もない ので、少し不安になって進むと右手の丘に上る「唐沢一里塚」の道標があるので、階段を上り、地道を進むと、 静かな雰囲気の中に「唐沢一里塚跡」の小山があり、その横には「御嶽山座生大権現」の石碑が立っている。この一里塚は「中山道」の 路線変更となっていたそうだ。その後の「中山道」は国道の左側を通り「唐沢立場」等があったそうだ。 気持ち良い地道は下りになり、再び国道に合流する。
「下諏訪宿〜和田宿」の「紀行スライドショーB」 国道を進むと「藁葺のバス停」が建っている。初めは何か分からなかったが、バス停と分かって驚き、思わず微笑む。これからのバス停も それぞれの集落が独自に考えたユニークな建物で、街道歩きの別の楽しみになる。 色々なデザインのバス停があったのをまとめて表示したい。 泊まったペンションのご主人の話によると、各集落に50万円づつ渡し、集落固有の停留所を作ったそうだ。我が村のバス停を競い合った結果が、 個性溢れる停留所になったのだろう。 15時前に「ドライブイン和田宿」に来たので、ペンション「サイレント・スキー」に電話を入れて、場所を知らせる。まだ日が高いので、「和田宿」を越えて 進むのが良いとのアドバイスを貰い、後1.5時間程歩こうと気合を入れる。 「東邦パーライト工場」の前を通って進むと可愛い「道祖神」が力を与えてくれる。この辺りの「道祖神」はペアが多いのは微笑ましい。 国道を外れて旧街道に入り、藁葺のバス停を過ぎると再び国道と合流する所に「和田一里塚」が立っている。国道を横切り、旧道を進むと また可愛い「道祖神」が迎えてくれる。
いよいよ「岩田宿」に入って行く。
狭い街道筋には、屋号を示す看板も掲げられ、旧街道の雰囲気を感じながら進むと白い大きな蔵が建つ「よろず屋」が迎えてくれる。 今回泊まれなかった「本亭旅館」も立派な建物で、旧庄屋だった風格がある。 中山道最大の難所「和田峠」超えを前にした「和田宿」。 和田宿本陣は文久元年(1861)に和田宿の大火により焼失しましたが、 この年の皇女和宮様御降嫁の際に宿泊の宿とされていたため、多くの負担を背負いながらも宿場を復興させました。 本陣も共に再建されました。 明治以降は一部改築され、役場・農協事務所として使用されましたが、村の庁舎新築移転に伴い重厚な 遺構としてその価値が認められ、平成2年11月往時の姿に復元しました。今でも往時の栄華を偲ばせる重厚な建物として国の史跡に 指定され、歴史資料の展示館として公開しています。 (ふるさとユビキタスHPより)
本来、「和田宿」に泊まり、「歴史の道資料館」等を見学しようと考えていたが、宿泊場所が変わったので、時間的余裕がないため、 街道筋を眺めながら進む。 「和田宿・本陣跡」「河内屋(歴史の道資料館)」の前を通り、植木の剪定が整った、静かな「和田宿」を進む。(15:30)
「和田宿」の中心街から東に進む。大きな木の下に「八幡神社」が鎮座し、その本殿は茅葺き入母屋造りの屋根と珍しい。 バス停の茅葺きはこの本殿を真似たのではと思いながら進む。 「和田埜神社」の鳥居を見て進むと東の入口である「是より和田宿」の立派な碑が立っている。右下には国道141号線が見え、視界が広がる。 夕闇と雨雲がかかりだし、少し暗くなって来た。
国道に合流し、淡々と進もうとするが、足が重くなってスピードが鈍って来る。右手に「芹沢一里塚」碑が立ち、江戸より49里と刻まれ ている。後、200kmで江戸だと。 少し進むと「若宮八幡神社」が鎮座している。シンプルな本殿だ。「三千僧接待碑」が立ち、「不動明王」「馬頭観音」と石碑が続く。 「和田宿」の東側には石碑が多いのに驚く。 道端に水のみ場があり、冷たい水が流れ出している。恒例の儀式を行い、気持ち新たに進む。 雨がポツポツと降り出したので、ペンションに連絡しすると何処かのバス停で待っていて下さいと。大粒の雨になって来たので、急ぎ足で国道を進む。
小走りで、藁葺の「上深山口バス停」に駆け込み、雨宿りをする。風情のあるバス停で雨宿りするとは思っても見なかったが、内部も きれいに清掃され、ベンチに座って一息入れる。(17:00) 小雨になったので、歩き始めるとペンションの御主人から電話があり、少し先で待っていると。少し先の広場で、御主人が待ってくださっていた。 ご挨拶をして、車に乗せていただく。(17:10) 次に進む「長久保宿」への道を進んで案内してもらい、戻ってペンションに向かう途中、激しい雨になって来た。この雨ではとても歩ける ものではなく、本当にラッキーだった。御主人は山の天候に熟知されており、早く行かないと濡れてしまうと、電話を受け取る前に出て いただいたのだ。
リュックを抱えて階段を上るのも足が重い位に疲労している。部屋は ツインベットの一室で、早速、お風呂に。風呂には「黒曜石」が沈められていて、人工温泉となっている。汗を流し、足腰をマッサージし、疲れを 癒す。 客は小生一人で、御主人と奥さんと話しながらの夕食となる。ビールで乾杯し、泡盛もいただく。料理は美味しいのだが、疲れが厳しく 食欲がなく、全部食べられなかったのは申し訳ない。御主人はスキー学校の校長先生もしておられ、地元の名士だ。「黒曜石」の話や 「バス停」の話と楽しく伺う。 食事を終え、足を引きづりながら部屋に戻り、21時にはぐっすりと眠る。今日の歩行歩数は51000歩と50000歩を久し振りに越えたので、 疲れた訳だ。 「下諏訪宿〜和田宿」の「紀行スライドショーC」 「中山道」最大の難所「和田峠」を無事踏破することが出来た。難所と云われるだけの厳しい道中だったが、ひと山越えた達成感は 何よりだ。宿泊所の関係で「和田宿」から次の「長久保宿」に近付いたので、明日からの行程は少し軽減されると思いながら眠る。
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