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○ 「中山道No18」見聞録(塩名田宿〜松井田宿)・(距離 44.7km(今回)/ 415.1km(累計)/ 117.9km(残距離)

前回まで
今回
残距離


18−6.(18)軽井沢宿〜(17)坂本宿・(11.6km) 2011.11.01 6:30〜13:10 晴れ


中山道全行程.Map
「軽井沢宿〜坂本宿・行程MAP」

地図の左下の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(夢街道HPより)

昨日の疲れか、ぐっすり眠り、何時ものように5時過ぎには目覚めた。外はまだ暗く、雨の心配はなさそうだ。6時前に起き、荷造りをする。 足が重いが大丈夫だろう。
6時30分、チェックアウトし外に出ると空気は冷たい。軽井沢は寒いのだ。フロントで聞いたコンビニに向かう。軽井沢駅も新幹線が走り始めていて、 駅に向かう人も散見される。コンビニでサンドウィッチと温かい缶コーヒーを買い、旧軽ロータリーに向かう。
まだ朝日の光が届いていないので、街路樹の紅葉が映えないが、きれいに色付き気持ちが良い。道路脇に立つ「電光温度計」は3℃を表して いる。冷たく感じるのは当たり前だと思いながら進んでいると7時を知らせる教会の鐘の音が聞こえて来る。軽井沢の早朝を歩いている 実感を胸にロータリーに向かう。

軽井沢駅

街路樹の紅葉

電光温度計


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

旧軽ロータリー辺りで朝食を食べようと思っていたが、ベンチは夜露に濡れているので座れない。仕方がないので、レンガ貼り道に なっている「軽井沢銀座」に向かう。 昨日の人出が嘘のように、人っ子一人いない閑散とした状態だ。
「一里塚跡」「本陣跡」を探そうと、ガイドブック・先達の紀行記を参考に歩くが分からない。「チャーチ・ストリート」のショッピングプラザのベンチは 濡れていないので、サンドウィッチと缶コーヒーを朝食を取る。先程鳴っていた教会の鐘を確かめようと「聖パウロ教会通り」を入って行くと 「明治天皇軽井沢行在所」の碑が立ち、その説明文にはこの辺りが「本陣跡」だと記されているので、やっと史跡を見つけたと。
その奥の「聖パウロ教会」は落ち着いた木製の建物で、軽井沢の雰囲気とマッチしている。鐘は鳴っていなかったが、有名な教会を拝見し、 元の道に戻る。

閑散とした軽井沢銀座

明治天皇軽井沢行在所の碑 説明

聖パウロ教会


昨日、地図を入手した洋館の「観光会館」は「脇本陣跡」とのことだが、標識もなく、軽井沢観光からは「中山道」は消し去られている 感じで、寂しい気持ちだ。前には「土屋写真店」があり、店頭には古い軽井沢の写真が展示されているのが、わずかな史跡(?)か。
緩やかな坂道を上って行くと当時の茶屋だった「つるや旅館」が趣きのある建物を残している。

観光会館

土屋写真店

つるや旅館


軽井沢の紅葉

「つるや旅館」を過ぎると景色は一変する。
レンガ貼りの道は普通の舗装道路に代わり、林の中に入って行く。紅葉が美しく、思わず方々の景色に見惚れ、シャッターを押してしまう。
標高1000m近い軽井沢の紅葉は見事だ。京都の紅葉より1ケ月程早いが見事な紅葉をゆっくりと堪能する。

芭蕉句碑 説明

紅葉・黄葉を愛でながら進むと「芭蕉句碑」が静かに立っている。芭蕉の句碑は何度見たことかと思いながら進む。
少し進むと森の中に「ショー記念礼拝堂」が建ち、その前には「ショー氏の銅像」と「避暑地軽井沢発祥の地」の立て札も立っている。彼が 避暑地としての軽井沢を有名にしたのだと。
紅葉と青葉のトンネルを進んで行くと矢ガ崎川が流れ、それに沿って上って行くと「二手橋」が架かっている。橋を渡り、静かな舗装道路を 上って行く。朝日も昇り、木々の上部は輝くようになった。気持ち良く上って行くと右手に「遊歩道」の案内に従って地道に入る。

ショー記念礼拝堂 説明

二手橋

遊歩道との分岐


「遊歩道」は気持ち良い。林に囲まれた別荘が点在する落葉の道をゆっくりと上って行く。勾配も緩やかで、足の負担も少なく、紅葉を 眺めたり、黄葉と青空の対比を見上げたりと快調に進む。
吊橋を渡ると道は狭くなり「碓氷峠」の頂上に向かって上って行く。途中、気付くと木々の間から青空の下「浅間山」の雄姿が望まれる。 木々が遮って全景が見られないが、何処かで「浅間山」全景が望めると期待して上って行く。

落葉の道 黄葉と青空

遊歩道の紅葉 紅葉

吊橋 木々の間の浅間山


途中、舗装道路の上を橋で渡り、木漏れ日の道、熊笹が茂った道を上ると「見晴らし台」と「碓氷峠山頂」とを結ぶ道に当たる。直ぐ 右側の「見晴らし台」に進むと視界が開け、見事な青空と「雲海」が望まれる。「雲海」を見るとは思ってもいなかったので、大感激だ。 もう少し早い時間だともっと広範囲に雲海が広がっていたのだろうと。
角度を変えると「浅間山」の全景が青空の下に雄姿を現わしている。今回の紀行で初めて望む全景だ。しばし、見惚れる。 遠くには「北アルプスの冠雪」が望まれ、青空の下の景観を楽しむ。「見晴らし台(標高約1200m)」の木々も紅葉し、美しい。
ここは長野県と群馬県の県境であることも示している。しばらくの間、ベンチにリュックを置いて景観を堪能する。(8:40-9:00)

熊笹の道

雲海の名残り

八が岳連峰

雲海

浅間山

北アルプスの冠雪

見晴らし台の紅葉



「軽井沢宿〜碓氷峠」の「紀行スライドショー」


「見晴らし台」で景観を満喫し、旧街道に戻る。先達の紀行記等で、道に迷ったとの表現が多かったので心配したが、軽井沢からは 遊歩道を進めば、自然と「見晴らし台」に通じるのだ。
遊歩道との分岐点を過ぎ、「碓氷峠」の分水嶺に向かう。峠には茶店がたくさん集まっているが、まずは「熊野神社」に参拝する。

熊野皇大神社・熊野神社 説明

高い階段を上る所には長野県・群馬県と表示された石板が埋められており、この神社が県境に建っていることを示している。面白い 標識であり、場所なのだ。
本宮の中心が、長野県と群馬県の境になっている神社。長野県側では「熊野皇大神社」、群馬県側では「熊野神社」と呼ばれています。
その歴史はたいへん古く、「古事記」「日本書紀」の伝承にまで遡り、日本武尊が建立したと伝わる古社です。

長野県・群馬県の県境石板

群馬県側に鎮座されるのが「新宮」(祭神: 速玉男命)、県境に鎮座されるのが「本宮」(祭神:伊邪那美命・日本武尊)、 長野県側に鎮座されるのが「那智宮」(祭神:事解男命)になります。
樹齢800年といわれる御神木のシナノキの他、追分節にうたわれた石の風車や、室町時代中期の作と伝わる狛犬、山口誓子句碑など 様々な見所があります。(軽井沢ナビHPより)

「熊野古道」を踏破した経験者として、全国各地の「熊野神社」への参拝の機会は嬉しい。長い階段を上り、県境に建つ2つの神社に 参拝する。石段の上には珍しい狛犬・石の風車等を拝観し、それぞれの神社にお賽銭を入れて、これからの行程と日本橋到達への 安全を祈願する。

熊野神社への階段

熊野神社・随神門

八咫烏社


社務所が開いたので、朱印帳を持って来なかったので、「朱印」をいただき、「烏午王札(からすごおうふだ)」を求める。「熊野三山 (本宮大社・速玉大社・那智大社)」は「熊野牛王神符」と「牛(うし)」なのだが、ここは「午(ご)」なのだ。
「馬頭観音」と「午頭観音or牛頭観音」の違い等、興味深い課題が出来た。また「熊野」では「日本第一」の文字が、ここでは 「日本太一」と書かれている。神主さんの話では山形県南陽市の「熊野神社」とが、三大熊野神社だと。何時かは、山形県の「熊野神社」 へも行きたいものだ。

碓氷峠熊野大社・烏午王札

熊野本宮大社・牛王神符

熊野速玉大社・熊野牛王符


色々な想いを残して「熊野皇大神社・熊野神社」の参拝を終え、前にある有名な峠の茶屋「しげの屋」に向かう。

しげの屋

力餅と山菜蕎麦

店の前には長野県と群馬県の県境を示す石の境界線も引かれていて、この境界線が売りになっているようだ。
まだ開店していないかと心配したが、OKとのことで、一番目の客として見晴らしの良いテラスの席に座る。
名物の「力餅」と「山菜蕎麦」を頼み、テラスから周囲の山々の景観を楽しむ。朝食がサンドウィッチだけだったので、おやつよりも早い時間だったが しっかりといただく。美味しい!!
景観を楽しみながら、ゆっくりといただく。(9:20-50)
店の前が騒がしくなったので、みるとシニアの団体が集まっている。席を立ち、店前で話すとここまでバスで来て、一休みした後、軽井沢に 下るのだと。一番良い散策コースだ。京都から歩いていると話すと、頑張ってと応援される。

さあ、これから関東圏に突入だと、新たな想いを胸に「坂本宿」への「碓氷峠」の下り坂に進む。
少し下った所の分岐点から右手の地道に進む。左の舗装道路はかって「和宮」が下った「和宮道」と云われているようだ。
落葉が積もっている道を気持ち良く、勾配も少なく歩き易い。ここからの史跡は掲示板だけで、少し物足りないが、一つづつ史跡を 辿って行く。
「思婦石」から「仁王門跡」を確認して進むと「長坂道」の標識から、長い坂が続いて行く。下り坂では問題ないが、上りだとなかなか 厳しい上り坂と思いながら下る。

落葉が積もっている道

仁王門跡

長坂道


軽井沢からの遊歩道には紅葉が多かったが、下り坂では少ない。紅葉が現れた時にはハッと気分が和らぐのは嬉しいと思いながら下る。 道は細くなり「熊笹の道」や小川を渡ったりと変化に富んだ道を楽しむ。
文政の時代に作られた「人馬施行所跡」の標識がある。こんな山の中に人馬の休憩所を作ったのは当時としては凄いことだろうと。

下り坂の紅葉

熊笹の道

小川を渡る


木漏れ日が気持ち良い林の中を快調に下って行くと「化粧水跡」の標識が立つ。ここで旅人が水に映る姿で形を整えたと云われるが、泉の 形跡はなく、草原があるだけだった。緩やかな坂道を周囲の木々を眺めながら、所々に輝く紅葉を愛でながら下ると、少し広い道と 合流する。
この道は峠で分岐した「和宮道」で合流地点は広場になっており「陣馬ガ原」と云うらしい。説明によると太平記の時代、戦国時代にこの場で 合戦があったと。「碓氷峠」は領土の境界線として重要な地点だったことが分かる。横には「子持山」の標識も立っている。

化粧水跡

木漏れ日の道

陣馬ガ原 説明


和宮道」と合流して下って行くと「安政遠足」の立札が立っている。
何のことか分からず進むと「坂本宿」まで、所々にこの立札と「侍マラソン」の立札が立つ。今回、その語源を調べてみる。

安政遠足の立札

”遠足”と書いて”とおあし”と読みます。 毎年5月の第2日曜日に開催される行事で、毎回たくさんの仮装したランナーが走ります。
この遠足の歴史は古く、江戸時代(西暦1855年)に当時の安中藩主「板倉勝明」公が 藩士の鍛錬のために碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競走をさせ、その着順を記録させたことがはじまりで、 日本のマラソンの発祥です。(安中市役所HPより)

侍の仮装で走る人が多いので「侍マラソン」とも云われるのであろうが、日本のマラソン発祥地とは知らなかったが、この勾配を走るのは 大変だと思いながら下って行く。

「碓氷峠下り道@」の「紀行スライドショー」


江戸時代、ここに1軒の家があり、そこに住む老婆が旅人を苦しめたと云われる「一つ家跡」の立札を過ぎ、きつくなった下り坂を 下っていると、男性が一人上って来られた。横川駅から上り始めたが、きつくて大変だと。日本橋から京都に向かっておられ、今年中に 到達したいが、大丈夫だろうかと。本格的に「中山道」を歩いておられる方と久し振りに会ったので、楽しく話す。
坂道の上に廃車になったバスが放置されている。どうしてここにあるのかと不思議に思いながら、真ん中が崩壊した山道を注意しながら 下っていると「山中坂」の立札が立っている。横川から上り始めると急坂なので「飯喰い坂」との名前が付いたのだろう。

急坂と旅人

崩壊した山道

山中坂の立札 説明


下って行くと今度は老夫婦の旅人に出会う。辛そうに上っておられたので、挨拶をしただけでお別れする。「山中坂」の上りは辛そうだ。
「山中学校跡」の立札に続いて「山中茶屋跡」の立札が、この場所に茶屋があったのは旅人のオアシスだっただろうと。 下って行くと「入道くぼ」の立札があり、その上に「線刻の馬頭観音」が祀られている。丁度、日が当たり、馬頭観音の線は判別出来 なかったが、「碓氷峠」下り坂初めての史跡にホッとして下る。杉木立の道、切り通しになった道を快調に下る。

山中茶屋跡 説明

線刻の馬頭観音

切り通しになった道


山道を下っていると分岐点があり「栗が原」の立札が立ち、「明治天皇巡幸道路」との分岐点だと。また交番の始まりとも。マラソンや交番と 初めてのものが多い峠越えだ。少し広くなった所で、一息付く。
下り始めて1時間15分でここまで来たが、上りだと2時間以上かかるのではないだろうかと思いながらお茶で喉を湿らせる。(11:05)
緩やかになった坂道を下っていると又々、廃車の自動車が放置されている。横目で見て進むと「座頭ころがし」の立札が立ち、そこから 急な坂道になる。岩や石がゴロゴロと滑り易く、慎重に下る。下った所に「一里塚」の立札が立ち、この辺りに一里塚があったことを 示しているが、何処かは分からない。

栗が原 説明

廃車の自動車

一里塚 説明


山道はウネウネと蛇行している。「北向馬頭観世音」の立札が立ち、上を見上げると岩の上に「馬頭観音像」が祀られている。更に下ると曲がった 所に「南向馬頭観世音」が祀られている。施主は違うが、「坂本宿」の方が祀られたのだと。史跡が連続して残っているのは嬉しい。
急坂が緩やかになり、馬の背になっている道を進み、渡り終える所に「掘り切り」の立札が立つ。秀吉の小田原攻めの時、防戦のため この馬の背を掘り切って狭くしたそうだ。ここにも歴史があったのだ。少し下ると今度は「刎石山」への上り坂になる。 下りばかりであったので、ここで一息入れる。(11:35)

北向馬頭観世音 説明

南向馬頭観世音 説明

掘り切り


久し振りの上り坂を進む。杉木立が美しい道を進むと東屋が建ち、更に進むと「碓氷峠の関所跡」の立札、四軒の茶屋があったと云う 「刎石茶屋跡」の立札を見て再び下り坂を下る。

杉木立の道

刎石山の東屋

碓氷峠の関所跡


坂を下っていると道の外れに小さな屋根があるので、そこに行くと「弘法の井戸」だと。中をのぞくと少し水が溜まっていて、柄杓もあるが 飲めるとは思えずパスして坂を下る。
「風穴」の立札に立ち止まり、横の風穴を覗くと温かい空気が吹きあげて来るのを感じた。刎石山の溶岩の裂け目が方々に点在して 風穴となっているのだ。少し進んだ道横には大きな「馬頭観世音」碑が祀られている。

弘法の井戸

風穴

馬頭観世音碑


坂を下って行くと展望が開ける所に出る。

覗き

下を見ると木立ち越しに、次に行く「坂本宿」が真下に、真っ直ぐに広がっている。「覗き」とは上手い表現だと思いながら 一息入れる。(12:05-15)
それにしても、下からの高度は高い。「坂本宿」からの「碓氷峠」は厳しい上り道であることが、この光景を見ても分かる。
横に立つ 立札には、一茶がここで「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだと記されている。

刎石板・石碑群

「坂本宿」を上から望み、目標に向かって、ゴロゴロとした歩き難い石ころの道を下って行くと「刎石板・石碑群」が集まっている。 更に下ると火山特有の火成岩が四角・六角の柱状に固まった「柱状節理」が見事に残っている。「浅間山」から続くこの一帯が火山で あることが良く分かる自然現象だ。
狭い山道には岩がゴロゴロとしていて歩き難い。慎重に足を運んでいると膝が痛くなって来る。「堂峰番所」の立札と石垣跡を見て下り切ると 舗装道路に出る。ここが、横川側の「碓氷峠」上り口で、やっと峠越えを達成した。横の小屋で一息入れ、道に迷うことなく、 無事越えたことに満足する。(12:50)

柱状節理

狭い山道

碓氷峠上り口


標高940mの軽井沢から「碓氷峠」の見晴らし台(約1200m)までは約4km、ここからの下りは約6.6kmで標高500mと標高差700mを下ったのだ。 勾配がきついのは良く理解できる所だ。

「碓氷峠下り道A」の「紀行スライドショー」


「碓氷峠」の難所を踏破して、いよいよ関東圏突入だと気を引き締める。
国道18号線の舗装道路を少し下って行く。この道から坂を下って貯水場に進むのだが、その場所が分からず、もう一度上り口まで戻り、良く見ると 直ぐ前のガードレールの切れ目に「中山道道標」が立ち、下への階段があり、下って行く。
大きな貯水場のタンクの横を抜けると先程間違った国道に合流し、進むと「覗き」から眺めた「坂本宿」の真っ直ぐな国道18号線に出る。 左手に「坂本八幡宮」の赤い鳥居が迎えてくれる。

中山道・道標

貯水場のタンク

坂本八幡宮


坂本宿・上の木戸

真っ直ぐな「坂本宿」の街道に向かうと、「芭蕉句碑」があり、その先には宿場の入口となる「坂本宿上の木戸」が迎えてくれる。
坂本宿は江戸から17番目の宿場町で参勤交代が制度として確立し、碓氷峠を控えている事もあり新しく計画されたものです。
寛永2年(1625)に近隣住民を移住させ、街道は直線で道幅が8.1間と現在の道路とほぼ同じ広さ、中央に4尺幅の水路を 配置するなど他の宿場町と比べると赴きが異なる計画でした。
坂本宿は背後に碓氷峠を控え、前に碓氷関所があった為、宿泊や休憩に利用する人達が多く、特に参勤交代では大名が宿泊することが 常となりました。その為、本陣が2箇所、脇本陣が4箇所設けられ旅籠は40軒を数えたとされます。(群馬の街道HPより)

今まで通った「宿場」の狭い街道、枡形とは違い、真っ直ぐな広い道路は当時から区画整理して作ったのには驚いた。 また、英泉の浮世絵にも描かれている水路が、中央ではないが、道端に復活したとのことで、行政の姿勢は素晴らしいと思った次第だ。
広い道を進むと「脇本陣」「本陣」「旅籠」が残っていて、その説明板も親切に記されている。
この宿場には文人もよく泊まったようで、小林一茶の定宿「たかさごや」や若山牧水の「つたや」の旅籠も昔の面影を残している。

芭蕉句碑

たかさごや 説明

つたや 説明


少し進むと当時の面影を残す旅籠「かぎや」の重厚な建屋が建ち、その看板は当時のままのようで重みがある。広い道脇には 用水路が復活して、昔の雰囲気を出している。

旅籠・かぎや 看板 説明>

広い街道と道脇の水路


広い街道筋の両側を眺めながら歩く。立派な門構えの「脇本陣・永井」や「脇本陣・酒屋」「佐藤本陣」が両側に 建っている。しかし、道が余りに広いので、立派な建屋が小さく見える感じだ。でも、昔の雰囲気を残しているのは嬉しい。

脇本陣・永井

脇本陣・酒屋

佐藤本陣 説明


青空と陽射しが気持ち良い中を進むと「脇本陣・みよがや」「金井本陣」が左右に建ち、道路を行き来しながらチェックする。これらの「本陣」 「脇本陣」が集中的に残っているのは珍しいと思いながら、道幅が普通のように狭ければ、もっと当時の雰囲気があるだろうと。 しかし、道幅が狭いと火事の場合、両側共に焼失するのだろうと考えながら歩んで行く。
「坂本宿」の東の入口である「坂本宿・下の木戸」を抜けて、振り返ると正面に越えて来た「刎石山」に向かって真っ直ぐな街道を望み、 「軽井沢宿」から「碓氷峠」越えて「坂本宿」まで、到達したと実感する。(13:20)

脇本陣・みよがや

金井本陣 説明

坂本宿・下の木戸 説明



「坂本宿」の「紀行スライドショー」


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