○ 「中山道No18」見聞録(塩名田宿〜松井田宿)・(距離 44.7km/ 415.1km/ 117.9km)
18−7.(17)坂本宿〜(16)松井田宿・(9.5km) 2011.11.01 13:20〜16:30 晴れ
「碓氷峠」を越え、広い街道を持つ「坂本宿」を過ぎて、ほっと一息ついた。アップダウンで足の疲れも感じるようになって来たので、 まずは次の「松井田宿」まで行き、今後の行程を考えることにして、国道18号線を進む。 「上信越自動車道」の高架下を抜けるち「水神社」の祠が祀られている。前日の「追分宿」辺りも含めて、水に関する灌漑・利水の 施設・神社が多い。火山灰が多い地位なので、水の活用が重要だったのだろうかと。 前方に山の頂がギザギザの珍しい形の山が連なる。多分「妙義山」だと思いながら進む。
交通量が少ない国道の緩やかな下り坂を進んで行く。小学校を廻り込むように国道を進むと道路が複雑に交差した所に出る。 道を間違ったようで、 小学校の手前から旧街道が通じていて、ここで合流することが分かる。旧街道を少し戻り「薬師堂」を確認して戻る。 碓氷川を渡り真っ直ぐ進み、鉄道の高架下を抜けて行くと右側に列車が停まっている。長野新幹線が開通したのに伴い, JR信越本線の横川〜軽井沢間が廃止となったため、横川駅にあった車両基地は,鉄道文化村という施設とし、 以前の軌道を「アプトの道」遊歩道として残しているのだ。 この遊歩道は、以前「軽井沢・八ケ岳ローカル列車とめがね橋ウォーク」で 訪れた場所に通じるようだ。
旧街道に戻り少し進むと「碓氷関所跡・東門」が堂々と建っている。
この場所に関所が移ったのは、元和年間(1615〜1623年) といわれ、幕藩体制を中心とした徳川幕府の確立・安定という政治的意味から「入鉄砲と出女」の取締りを行うためと云われています。 明治2年(1867年)に廃関されるまで中山道の要所となっていました。 現存する門柱と門扉は、当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固な作りとなっており、また屋根材6点と 台石も当時のもので、昭和34年1月に、東京大学教授工学博士 藤島亥治郎氏の設計で復元されたものです。 (復元された門は東門で、この場所は番所跡にあたる)(WEB群馬HPより)
県道を進むと「諏訪神社」の並びに「旧茶屋本陣」が静かに建っている。関所の手前で休息したのだろうかと。 少し進むと「庚申塔」の石碑がたくさん祀られ、丘の上には「「御嶽山碑」が青空の中、そびえている。狭い地域に、史跡が集まっていて 旧街道の中心地だったことが想像出来る。 直ぐにJR横川駅があり、その前に「峠の釜めし」で有名な「おぎのや本店」が建っているので、昼食を兼ねて「釜めし」を賞味することにする。 「碓氷峠」山頂で蕎麦を食べたのは、おやつで、これは遅めの昼食と位置付け、味噌汁と釜めしを美味しくいただく。駅弁で食べるのとは 違って、本場の本店で食べる機会は少ないので、貴重な体験だ。(14:10-14:30)
満腹になり、狭い県道を「松井田宿」に向かって歩む。関東の日没は大阪より早いので、時間・距離的にも「松井田宿」には到達しようと 歩を速めるが、疲れが足にも来ており、思ったより進んでいない。 JR信越本線に沿って静かな県道を進み、踏切を渡って国道18号線を進む。国道から分岐して右側の小道に入ると「百合若大臣の足痕石」の 説明板があり、横には真ん中がへこんでいるように見える石が置かれている。百合若大臣が踏みつけたのだと。 軽井沢に比べると高度が低いので、まだ紅葉する木々は少ないが、柿がたわわに稔るあきの風情を感じさせる細い道には「道祖神」や 「馬頭観音」が祀られている所もあり、旧街道であることを示している。
旧街道は国道とJRの踏切を渡り、反対側に進むと「碓氷神社」の赤い鳥居が迎えてくれる。 やがて旧街道は線路を離れて左手の丘に上って 行く「丸山坂」となり、道横の高くなった所に「馬頭観音」が祀られ、のどかな道を進むと大きな「馬頭観音」碑が祀られている。この辺りも 「馬頭観音」が多く祀られているのだ。
やがて下り坂になり、JR線路に向かって下ると夕日を背後から浴びて「夜泣き地蔵」が祀られ、「茶釜石」の説明板が立っている。 「夜泣き地蔵」は、昔、馬子がお地蔵さんの首を荷物に加えて遠くまで運んでしまい、その地蔵の頭が元に帰りたいと毎晩泣いたと。 奇特な老人がこの場に戻して祀ったそうだ。「茶釜石」は叩くと珍しい音がするそうだが、確認出来ずそのまま下って行く。 道横には「青面金剛塔」が祀られ、JRの踏切と交わる手前には「道祖神」が祀られている。国道から離れた「丸山坂」にはたくさんの 史跡が散りばめられていたので、嬉しい紀行となった。 「馬頭観音」が多く祀られているのだ。
少しの間、旧街道の雰囲気を味わい、JRの踏切を渡り国道を進み右側の旧街道に入って行く。 道脇には道標が立ち、「松井田宿」まで2.8kmと示している。「五料の高札跡」の標識を過ぎて、JRの線路越しに立派な建物が立っているので、 線路脇まで行くと「五料の茶屋本陣跡」が再建されている。五料の茶屋本陣は2軒あり両家とも中島姓なので、「お西」「お東」と呼 ばれていると。 「上信越自動車道」の高架下の手前に「庚申塔」が祀られ、再び、国道18号線に合流し、横断歩道のない道を渡り、旧街道に入る。
再び静かな旧街道を進むと大きな石の上に「石仏」が祀られている。JRと離れて行くので少し不安になりながら進と下り坂になったので、 これは間違いだと戻り、JRの線路方向に向かうと工事中で通行止めになっている。保安の方に中山道を尋ねるとこの道だと。 人は歩けるので、信越本線が土手の上を通る下の道を進むと踏切があり、渡って線路沿いに進む。 次の踏切を左側に県道217号線に向かうのだが、この辺りに「一里塚」があるはずなのが分からず進み、池の傍に「道祖神」を見つけ、 この道で間違いないと確信し、県道に向かう。
広い県道沿いに「松井田宿」があるが、史跡はあまり残っていないようだ。16時に近くなったので、急速に日が落ちて来ているのが分かる。 少し急ぎ足で県道を進むと道の反対側に「補陀寺」の立派な山門を確認し、車も通らない県道を進む
松井田宿は中山道と妙義神社参道と榛名神社参道が交わり、信州各藩の年貢米が集められるなど商業が飛躍的発展しました。 天保14年(1843)には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠14軒、家屋の数は252軒にのぼります。中世は松井田城の城下町として発展した 町だけに補陀寺や不動寺、八幡宮といった古社、古寺も多く見所の多い宿場で、
少し進むと洋館建の「松井田商工会館」が建ち、県道の奥には「松井田八幡宮」の白い鳥居が見られる。 古い建屋は観光案内所も兼ねて「みなとや」として商売をしておられるようだが、閉店でパンフレットを得ることが出来なかった。
仲町の角で、松井田駅の場所を確認するとここを曲がって行けばよいとのことで、「松井田宿」の探索は次回に廻して、駅に向かう。 坂道を下って、碓氷川を渡って、階段を上って行くと松井田駅に到着する。 切符を買おうとしていると、駅員が直ぐ電車が来ると云ってくれたので、慌てて階段を駆け下り、高崎行の列車に飛び乗り、今日の紀行を 終える。(16:30) 早朝の軽井沢から「碓氷峠」を越え、「坂本宿」を経由して「松井田宿」に到達した。 「碓氷峠」に立った時に、いよいよ関東圏に突入するのだと気分を引き締めた。まだ先は長いが、「日本橋」に近付いたと実感した。 さあ、何時の日に到達するのだろうか。今日の歩行歩数は48000歩だった。 「坂本宿〜松井田宿」の「紀行スライドショー」 列車で高崎に向かう途中から日が暮れ始め、高崎に着いた時にはもう暗くなっている。今夜の夜行バスは23時35分発なので、時間があり過ぎる。 ネットで調べていた銭湯に向かうことにする。 高崎は大きな町なのだと驚きながら、少し離れた銭湯の近くに到着するが、分からず、近くの 店の方に聞くと昨年廃業したと。他の銭湯は近くには無く、駅の向こう側だと。 足が重くなり、スゴスゴと駅前に戻る。銭湯は諦めて、駅前の居酒屋で、2日間の健闘を称えて乾杯する。マスターと話しながら時間を潰すが、 そんなに長くは飲んでいられないので、適当に退散し、駅前近辺をブラブラと。高崎駅は新幹線も通るので賑やかで、人も多く、次回に松井田 まで行く時刻を確認したりと。しかし、23時とは長い。 やっと夜行バスに乗る。前橋始発だが、半分位の乗車率だ。明日は満席だったのに日によって違うのだと思いながら眠る。3人席の窓側だが、 反対側の窓側の男性のイビキが凄いので、途中目覚めると眠れなくなり、ウトウトしながら7時10分に京都駅到着。8時過ぎに無事帰宅する。 やっと関東圏に突入出来、遠くまで来たものだと思うと同時に、ゴールは近くなったと確信出来るようになった。 次は夜行バスで高崎に行き、JRで松井田に戻って。「安中宿」「板鼻宿」を通り「高崎宿」で泊まり、次の日は進める所まで行き、熊谷から 夜行バスで帰ろうと計画する。群馬県のカラッ風も経験するのも良いだろうと。
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