○ 「中山道No19」見聞録(松井田宿〜深谷宿)・(距離 50.5km/ 455.6km/ 77.4km)
19−1.(16)松井田宿〜(15)安中宿・(5.1km) 2012.03.07 7:25〜11:25 曇り時々晴れ
昨年10月末に紅葉の「軽井沢宿」から「碓氷峠」の絶景を眺めて、関東に突入した。日本橋まで後120kmと近付いたことを実感し、 次の行程に夢を馳せるていたが、他のイベントが続き、また今年の厳冬に恐れをなし、延び延びになっていた。 また、昔の会社の仲間が、高崎近辺に転勤になっていることが分かり、彼等とも昔話しをしながら飲みたいと、日程調整した結果、 3月上旬の日程に落ち着いた次第だ。バスの予約は取れても天候が心配だったが、予報では前日までの雨も止みそうなので、快適な 紀行が出来ると。 前回、帰路に利用した京都〜高崎の夜行バスで予約し、京都駅発21時40分の時刻に合わせ、20時過ぎに家を出る。京都駅で、少し 睡眠薬を飲み、バスに乗車する予定だったが、JRが人身事故で不通となり、回復の見込みがないため、小走りで阪急高槻から阪急電車で 烏丸へ、地下鉄で京都駅に着いたのが、21時30分で走ってどうにか間に合う。もちろん睡眠薬を飲む時間はなく、半分位埋まったバスで 眠ることになる。 バスが高速に乗った頃からぐっすりと眠ることが出来た。途中、SAでトイレ休憩があり、少し目覚めたがウトウトと眠り、時間調整の横川 SAで外に出ると曇り空だが、雨が降る気配がなく一安心だ。 定刻のよりも早く、6時前に高崎駅に到着する。スタート地点の松井田駅行の電車の始発が6時57分なので、前に調べていた駅前のファミレスに入り 朝定食をゆっくりと食べる。24時間営業のファミレスはこんな時有難い。食後、ゆっくりと新聞を読んだり、ガイドブックの予習をしたりと 有意義に過ごす。
7時21分、松井田駅に到着して今日の紀行をスタートする。駅前には若者2人が登山姿で話しているので、何処に行くのかと尋ねると妙義山に 登るのだと。 今夜会うK君に無事到着したことを報告する。彼は急な出張で少し遅れるが、T君がホテルに迎えに来てくれるとのことで、今夜の再開が 楽しみだ。 高台に建つ駅から「中山道」に下って行く。空気は冷たいが、風がないので歩くことに支障はなさそうだ。雪も残っておらず、寒波は 過ぎ去って良かったと。
人影も車も見られない県道を進む。「松井田宿」には「本陣」等の史跡が残っていないので、少し小道に入った「崇徳寺」に向かう。 足利尊氏の開基と伝わる臨済宗の古寺で、正面には大型の四脚門があります。境内には2間四面、宝形造り、瓦葺きの観音堂があり内部には 聖観音菩薩像、千手観音菩薩像、如意輪観音像が安置されています。西上州十四番札所として信仰を集めています。(群馬の街道HPより) 立派な石垣に囲まれた荘厳な寺院に参拝し、今回の紀行の安全を願う。立派な寺院が建っていることで、「本陣」が焼失しても、「松井田宿」の 存在感が分かる気がし、街道に戻る。 少し進むと旧家に「かんべや」の看板が掛かり、横に「妙義山登山口」と書かれている。先程、駅で会った若者が登ろうとする山の入口に 通じるのだ。
県道を進むと「中山道・道標」が次の「安中宿」まで8kmと示している。道端には「庚申と賽の神」が祀られ、旧街道の趣きを残している。 高台の県道から後を振り返ると「妙義山」と「浅間山」の雄姿が望まれ、爽快な気分で歩を進める。 旧街道はやがて国道18号線に合流する。左手奥に石仏・石碑が並んでいる。「西南の役碑」とあり、何故こんな所に「西南の役」関連の 碑があるのか疑問だ。この辺りからも戦役に駆り出されたのか?
国道から左に分岐する角に「妙義道常夜燈と道祖神」が立っている。妙義神社への参道でもあり、先程通った妙義登山口に通じており、 当時「妙義信仰」が深かったことを示している。 旧街道に入ると静かな道になり、国道歩きに比べるとホッとする。街道筋には「道祖神」が点在し、丸い形の石碑は同じ形で面白い。 「自性寺」と「白枝神社」を過ぎたると古い旧家も残っており、その先にも「道祖神」が祀られている。集中して祀られている地域が 時々見られるのは地元の住民の信仰心と関係あるのだろうか。
赤い屋根の「八本木地蔵堂」が見えて来た。 地蔵堂の本尊・地蔵菩薩像は、頭は円頂(剃った坊主頭)で体には袈裟と衣を着用し普通の僧侶の姿をしている。 秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、霊験あらたかで日本三地蔵の一つであるといわれている。 様式は田舎造りで素朴の中に威厳と気品を備え、頭頂が偏平になっていることなどから造像された年代は室町時代初期のものとみられる。 (群馬の街道HPより) 境内には家の形をした「庚申石祠」が祀られている。この辺りでは由緒ある地蔵堂のようだ。 向かいの家の垣根の中に「八本木旧立場茶屋跡」の案内板が立っている。階段に座ってお茶を飲み、一息入れる。(9:00)
「松井田宿〜安中宿@」の「紀行スライドショー」 少し曇って来た旧街道は暑くもなく快適に歩くことが出来る。街並みには古い建屋も残っており、街道の趣きを残している。 郵便局を過ぎた所に「真光寺」が建ち、殺風景な境内に鐘楼が建ち「時の鐘」が吊るされている。安中市指定重要文化財とのことだが、 特に変わった鐘ではない。 少し進んだ右手に「茶屋本陣跡」で、「原市高札場跡」の看板と「明治天皇原市御小休所」の碑も立っている。この辺りには,昔立場が あったのだろう。その少し先の立派な塀と門を持つ家は,「原市村戸長役場の跡」でだと。
中山道の杉並木である安中原市の杉並木がいつ植樹されたかには、3つの説があります。・慶長9年(1604)説、・元和元年(1615)説、 ・安中藩主板倉重形が植えさせたという説です。 杉の数は天保15年(1844)には732本、昭和7年(1932)には321本で、昭和8年に国指定天然記念物に指定されました。枯死のため 昭和42年には安中部分が指定解除され、残された原市部分も現在は十数本に減少しました。 (安中観光ガイドHPより)
安中総合学園前の交叉点で国道と交わるが、そのまま直進する。 少し進むと道角に「新島襄旧宅入口」の標示を見つけた。義妹夫婦が同志社出身なので、土産話にと寄り道する。 右折し,標識に従って路地を進むと,藁葺き屋根の民家が「新島襄の旧宅」だ。質素だが、当時としては立派な家がひっそりと建っている。 旧街道に戻り、左に「愛宕神社」の階段を見て進むと、郵便局の隣に和菓子屋さんがあり、名物「遠足(とおあし)ポテト」の看板が出ている。 面白いと思い1個購入する。 近くに「安中大木戸跡」の碑があるはずが分からない。和菓子屋さんに戻り尋ねると隣の郵便局の塀近くにあり、前に車が停まっていたので 分からなかったのだ。
「龍昌寺」の山門を過ぎると醤油醸造蔵の前に「便覧舎跡」の碑が立つ。 「便覧舎」とは明治5年、日本で初めて設立された私設図書館だと。 安中は遠足や知的な分野でも優れた文武両道の宿場だったのだろうと 思いながら進む。 街道筋には「安楽寺」「長徳寺」と寺院も多く、薬屋さんの古い店舗も残っている。人通りもない静かな街並みを楽しみながら進む。
街道から離れて1つ山手の筋に坂を上ると「武家屋敷長屋」と「郡奉行役宅」の藁葺の家が復元されている。史跡の保存や復元に注力している 行政の姿勢は嬉しい。中には入らなかったが、当時の面影を思いながら静かな道を進む。 左に「安中教会」が林の中に重厚な姿を見せている。明治11年に日本人の手によって創立された日本初の教会で、新島襄から洗礼を受けた 信徒が教会創立に尽力し、大正8年には新島襄召天30年を記念して建てらたと。仏教とキリスト教、安中は創造的な町なのだ。
「安中教会」の向かいには当時の趣きを残した「旧碓氷郡役所」が建ち、角のカーブミラーの横には「町口門番所跡」の木碑が立つ所を見ると この辺りは官庁街だったのだろうか。 坂を下り旧街道に戻ると、郵便局の横に「安中宿本陣跡」の碑が立つ。山手に「熊野神社」が鎮座するとのことで、坂を上って行くと 立派な石段の上に「西広寺」が建つ。
「熊野神社」の山門に向かうと境内に数人の人が何か作業をしている。拝殿に掛けられていた「絵馬」が県の博物館に展示していたのが 帰って来て、元の位置に取り付けている所だ。県の係の方や地元の方も居られ、お話を伺う。 この絵馬は和宮が「安中宿」に来られた時の出迎えやお世話が無事終わり、和宮の無事降嫁を祝って奉納したものだそうだ。狩野派の 町の絵師が描いたと。裏にはその時の役員だった人の名前が書かれていると。立派な「絵馬」が無事、拝殿に掲げられ、日頃は扉が 閉じられているので見られないのが、良いタイミングに訪れたと嬉しく思う。 境内には゛「大楠」も植えられていて、落ち着いた空間とラッキーだったことを味わいながら、先程買った「遠足ポテト」を食べながら一息入れる。 (10:50-11:15)
旧街道に戻り、進んで行くと国道18号線に交わる。 「松井田宿〜安中宿A」の「紀行スライドショー」
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