○ 「中山道No19」見聞録(松井田宿〜深谷宿)・(距離 50.5km/ 455.6km/ 77.4km)
19−4.(13)高崎宿〜(12)倉賀野宿・(6.0km) 2012.03.08 6:30〜8:30 曇り時々晴れ
午前5時過ぎに目覚め、天気予報を確認すると昨日と同じような曇り・晴れなので一安心だ。 ホテルの朝食は7時からなので、諦めて6時30分にホテルを出発し、静かな高崎駅前から高崎城祉に向かって出発する。人通りも少ないメインストリートは 電柱もなく広々としていて気持ち良い。 本通りに「松屋」があるので朝食とする。24時間営業の店があるのは嬉しい。 高槻城址に建つ立派な市庁舎に向かって行くと「諏訪神社」の祠が祀られているので、今日の行程の安全を願う。城址には特に史跡が 残っていないとのことなので、外堀を巡って「高崎公園」に進む。人は誰も居ず、たくさん植わっている桜の蕾も固く、まだ春は先のようだ。
公園の奥に建つ「頼政神社」に向かう。
頼政公は、平安末期に、源家正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。 後に剃髪して世に源三位入道と称す。 後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承四年(1180年)宇治平等院で自刃した。 (高崎市観光協会他のHPより) 「頼政神社」は公園の高台に鎮座し、境内からは烏川の広い河川敷と県道を通る通勤の車の列が望まれる。気持ちの良い場所で、 早朝の清々しい空気を吸い込む。 それにしても、源頼政の名前とこんな所で出会うとは思っても見なかった。 「熊野古道・吉野道」紀行時、宇治の平等院に参拝し、 「源頼政の墓」に参拝したことを思い出した。祖先の霊を赴任地に神社を建て、お祀りするとはと驚く。 旧街道に戻るべく進むと高崎の地名ゆかりの寺と云われる「龍廣寺」が静かに建ち、旧街道である県道は電柱もなく、街灯が連なり、 歩道はタイル貼りの新しい「中山道」となっている。
まだ車の少ない県道を進むと上信電鉄の踏切を越え、上越新幹線の高架下を抜け、国道17号線を通過して進む。単調な舗装道路歩きは つまらない。
安楽寺境内には、覆屋(おおいや)に保護されて、2基の板碑があります。 ここには梵字で阿弥陀三尊と天蓋(てんがい)と華瓶(けびょう)2つが彫られています。 普通、板碑は関東地方では秩父青石または緑泥片岩と呼ばれる緑色の石で造られ、1m前後の高さで5cm前後の厚みを持っています。 しかし、安楽寺の板碑は厚みが30cm〜45cmと5倍以上で、石材も天引石が使われています。 銘文や年号は風化が進み読み取れませんが、全体のつくりや、梵字の彫り方などから南北朝時代(1300年代)以降のものであると 考えられます。 (高崎市観光協会他のHPより) 静かな境内で、「倉賀野宿」見学前に一息入れる。(9:30)
「倉賀野神社」の標識があるので、旧街道から離れて神社に立ち寄る。静かな空間に鎮座し、本殿に礼拝して元に戻る。旧街道には 「高札場跡」が復元され、広場には「伝説の樅の木」が植えられている。天狗が樅の木に上って大火を救ったとか。
上町の交叉点には向かい合って「脇本陣跡」の建屋が建つ。左の「脇本陣・須賀家」は当時の面影を残す立派な建屋で、反対側は新しい 建屋で前に「脇本陣」の碑が立っている。古い史跡が残っている宿場は落ち着いた雰囲気を残している。 少し進んだ倉賀野駅入口の信号には「中町御伝馬人馬継立場跡」の碑が立っている。その先のスーパーの駐車場が本陣の跡で「本陣跡」の 碑が立っている。
その先は二叉路に別れ、左は「日光例幣使道」に向かう追分で「道標と常夜燈」が建っている。 例幣使街道とは日光東照宮の旧暦4月14日の大祭に、幣帛(へいはく:神様にささげるもの)を供するため、京都から派遣された勅使が 通るための街道のことです。 中山道と例幣使街道は、倉賀野宿の東で分かれています。 この分岐点に石造りの「道しるべ」と「常夜灯」がが建てられています。「道しるべ」の西面には「従是右江戸道 左日光道」、 東面には「南無阿弥陀仏 亀涌水書」とあります。 常夜灯正面には「日光道」、南面に「中山道」、北面に「常夜燈」、東面に「文化十一年(1814)甲戌正月十四日 高橋佳年女書」 と刻まれています。 また、基台には312名の寄進者の名が刻まれ、その中には江戸時代の有名力士、雷電為右衛門の名も見られます。 (高崎市観光協会他のHPより) 右側に進むと横には「閻魔堂」の赤い祠が祀られている。
史跡が所々残り、古い建屋も保存されている「倉賀野宿」の見聞を終え、「新町宿」に向かう。(8:30) 「高崎宿〜倉賀野宿」の「紀行スライドショー」
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