○ 「中山道No19」見聞録(松井田宿〜深谷宿)・(距離 50.5km/ 455.6km/ 77.4km)
19−6.(11)新町宿〜(10)本庄宿・(7.9km) 2012.03.08 11:40〜14:30 曇り時々晴れ
国道17号線を進むと道路標識には「東京94km、熊谷27km、本所6km」と表示されている。日本橋まで100kmを切ったことを再認識して、少し 疲れ始めた足が元気付く。 旧街道は神流川に進む。昔はこの川を境に上野国と武蔵国に分かれていたのだ。道路標識にも埼玉県の表示が出ている。 群馬県から埼玉県に入り、埼玉県を抜けると東京都だと。 神流川を渡る手前に「神流川合戦の碑」が立っている。ここは,織田信長配下の武将滝川一益が,北条氏直と戦った古戦場だと。「新町宿」の 「於菊稲荷」の創建にかかわった北条氏直が合戦した所だと認識する。こんな合戦があったことも知らなかったと思いながら広い神流川を 渡り、埼玉県に突入する。 少し進むと国道から左に分かれる細道が旧街道で、静かな小道に進む。「地蔵堂」らしき祠の横に小さな「一里塚跡」の碑が立っている。 少し離れて「庚申塔」も立ち、旧街道の雰囲気を味わいながら進む。
旧街道を進むと左手に「中山道」の案内板が立ち、静かな道を淡々と歩む。左の小高い丘の上の草むらに埋まって「畑時能首塚旧跡」の碑と 小さな祠が祀られている。畑時能は武蔵国秩父郡で生まれ、南北朝時代・南朝方の新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えら れた武将で、福井県勝山市で亡くなったと。故郷のこの地に祀られたのだろうか? 「金窪八幡宮」の鳥居を確認し、道なりに進むと旧街道は、神保原北交叉点で国道17号線と交わり、直進し、神保原1丁目の信号を左折する し、国道と並行に進むと「庚申塔」が祀られている。
JR神保原駅に通じる道を進み、神保原陸橋北の交差点を過ぎる狭い道になり「泪橋由来の碑」が立っている。
近くには「中山道」の新しい道標が立ち、その前には「浅間山古墳」のこんもりとした丘と赤い鳥居が祀られている。 少し進むと本庄市に入り、時々見える左の国道17号線に並行にひたすら進む。 県道462号線とぶつかり、右折し進むと交叉点にこんもりとした森が見える。これが「金鑚(かなさな)神社」で、境内はいると静かな 雰囲気で本殿に参拝する。立派な神楽殿やクスノキの大木が立っている。ここで一息入れる。(13:20-13:25) 社伝では欽明天皇2年(541)の創立と伝える古社で、祭神は天照皇大神、素盞嗚尊、日本武尊の3柱。 旧本庄宿の西端にあたり、江戸時代頃には、神社の西側で旧中山道が鉤の手に曲がっていたらしい。人々のよく知る神社だったのである。 境内の中央にクスノキが立っている。樹高20m、幹囲5.6m、推定樹齢約370年の埼玉県指定天然記念物に指定されている。 (本庄市観光協会他のHPより)
「本所宿」に入って行く。電柱には「中山道」を示す看板も掲げられているが、余り雰囲気は感じられない。歩道にはタイルが貼られ、 車も少ない旧街道を進むと古いレンガ造り建物が建っているが、誰も住んでいないようで荒れている。 「かるたの町」としてPRしているのか、市内には「かるたの碑」が立っているのを見ながら歩を進める。
史跡が少ない 「本庄宿」で見る史跡なので、「歴史民俗資料館」に入り見学するが、はにわ等の展示で、「中山道」関連の史料は少なかったのは 残念だ。 「田村本能寺」も全景を写したかったが、前に工事用のトラックが停まっていて写せなかった。 旧街道から外れた所には寺院や神社が点在しているようだが、旧街道に戻り進む。 「新町宿」で「焼まんじゅう」で虫養いをしたが、昼食場所を探しながら行くが食堂も見つからない。やっと「さぬきうどん」の 店を発見し、本庄で「さぬきうどん」を食べることにする。大阪で食べるうどんのコシとは違い、柔らかくて期待外れだったが、 昼食を済ませ一安心だ。(14:00-14:20) 「本所宿」も残り少なくなり、広くなった道を進むと「円心寺」や「大正院」の立派な寺院があり、この地域の信仰心の篤さが分かるが 旧街道の雰囲気は感じられず、少し寂しい気持ちで、宿場の外れまで進む。
「新町宿〜本庄宿」の「紀行スライドショー」
|