「行程MAP」 ○ 「カルタゴ遺跡観光」(2011.12.12.<月>) 6時モーニングコール、6時30分朝食、7時30分荷物出し、8時出発の予定で最終日を迎えた。 朝の散策は昨日行ったので、今朝はパスし、朝食後に明るくなったホテル周辺を散策することにし、チュニジア最後の朝食に向かう。 バイキングの品数も多く、ゆっくりと朝食を楽しむ。今回の旅行の朝食は全てバイキングだったが、どのホテルも満足できるものだった。 パン・コーヒーが美味しく、生野菜も問題なく食べられ、果物も豊富だったのは嬉しい限りだった。 部屋に戻り、窓からチュニスの市街地を眺める。ビルが立ち並び、青空の下、1年前に革命の戦乱が行われたとは思われない平穏さだ。 陽が昇り始め、明るくなったチュニスの街は遠くに地中海も眺められ、美しい街だと改めて感じる。日の出を見ようと廊下に出て、反対の 窓から湖越しに昇る朝日を眺める。今回の旅行では砂漠・地中海からの日の出も堪能出来、満足の行く朝日観賞が出来た。 荷物を廊下に出して、ホテルから出て、周辺を散策する。 チュニスで泊まったアフリカ・エル・ムラディ・ホテルはこの界隈でも際立って大きく、反対側の小道に入らないと全景が写せない。青空に青い窓が 美しい。 遊歩道の街路樹と街灯もアフリカとは思えない落ち着いた風情で、フランスの影響が感じられる。時計台も堂々とそびえ、チュニジアの革命を 乗り越えたたくましさを感じさせるものだ。チュニス・チュニジアの力強い姿を見聞した9日間だったと強く感じ、ホテルに戻る。 彼女も日本人・日本語のニュアンスが、徐々に分かって来たようで、にこやかに話しかけて来る。次からのツァーの人は幸運だろう。 ホテルの前は通行止めになっており、警官がバリケードを開けてくれる後遺症が残るチュニスの街には、路面電車が普通に走り、平穏と警戒が入り 交じっている。 青空が美しく、カルタゴ遺跡やブルーのきれいなシディ・ブ・サイドのブルーが映えるだろうと期待を弾ませる。 下江さんの解説が熱を帯びる。その中で、今までの添乗員の経験を綴った本を出版すると。再来年(2013年)6月25日に発売するとのことで、 今までの彼の話から読んでみたいと思った次第だ。 カルタゴは紀元前9世紀頃、フェニキア人によって開かれた。その後、商才と航海術に長けたフェニキア人は、ローマやギリシャとの 地中海の覇権争いを繰り返すことになる。 アルプスを象の軍隊で越えたハンニバルで知られるカルタゴ軍はローマとの3度のポエニ戦争の末、 紀元前146年ローマに大敗し、カルタゴの街は 二度と再建出来ないよう17日間も火で燃やされ、その後は塩をまかれ完全に破壊された。そのちょうど100年後、ローマの植民都市として 再建され、施設や街が整備された。帝政期にはローマに次ぐ大都市であったという。当時の三大都市とは、ローマ・アレキサンドリア・カルタゴだったと。 バスはカルタゴ遺跡の中のピュルサの丘に進む。 ここはカルタゴの中心であった丘で、当時の王女が現地人から牛の皮(ピュルサ)1枚で覆える範囲の 土地しか譲れないと云われたので、その皮を細長い紐にして、広い領土を獲得したことに由来する名前だと。 丘の上からは地中海が眺められ、古代の繁栄した都市の息吹が残る太い円柱が残され、少し離れた所には当時の住居跡の土台や柱が 残っている。この上にローマ時代の建物が建てられたので、どれがカルタゴ時代、どれがローマ時代か分からないが、貴重な遺跡なのだろう。 横に建つカルタゴ博物館に入場する。 周辺地域から発掘されたローマ時代のモザイクや神々の像、ポエニ時代の生活用品等が 展示されている。 当時の想像画もあり、海に面したカルタゴの街が地中海を制覇していたのが良く分かる。 また、所々の遺跡で見た「タニトの印」も残されており、カルタゴ人が女神タニトを崇めていたことが理解出来る。 博物館の中にはローマ時代の彫刻も多く展示されており、壺やモザイク画も飾られている。落ち着いた雰囲気の中、ゆっくりと観賞する。 博物館から退出して、バス駐車場に行く所には青空の下、サン・ルイ教会の礼拝堂が美しく建っている。 ◎「カルタゴ遺跡観光@」の「紀行スライドショー」 今までの遺跡はほとんどが我々のグループ独占だったが、ここからは欧米人の観光客も多く、さすがカルタゴ遺跡への関心が深いことが分かる。 トフェにはたくさんの墓石が祀られている。ローマ以前のカルタゴの面影を残す遺跡で、カルタゴ時代には幼児を神の生贄にして 捧げる習慣があり、 その墓石が無造作に祀られている。何処の国にも生贄と云う習慣が存在していたのだと改めて悲しく思う。 墓石の中に「タニト印」が刻まれた石碑も建ち、墓地と神を祀る場所であることが理解できる。タニト女神はポエニ時代の象徴なのだと、改めて 感じる。雰囲気は京都・嵯峨野の仏野念仏寺の風情だ。 洞窟があり、中は穀物庫として活用されていたと。 カルタゴ遺跡は範囲が広く、点在しているのでバスで行くのが便利だ。 池の様な穏やかな水辺で下車して、小休止となる。説明がなければ、とても港とは思えない古代カルタゴ港は、 南側が商業港、北側が軍港として栄えたと。商業港の周囲には倉庫街が建ち、軍港は220隻の船を係留出来たと。 先程のカルタゴ博物館で見たカルタゴ想像画にも円形の港が描かれていた。 ある程度そのままの形で残っているのだろう。 青空と静かな港を眺めて、次の遺跡に向かう。 2世紀、ローマの賢帝アントニヌス・ピウスによって建設された。建物は2階建で、更衣室・温浴風呂・水風呂・サウナ・談話室等々、 100を越える部屋が左右対称に配置されていたと。 遺跡の中に入るとレンガ造り浴場跡の部屋が見られ、太い円柱が2本立っている。その向こうには地中海が広がり、リゾート温泉場の雰囲気が 漂う景観の良さに驚く。 小原庄助さんと同じローマ人達が、ワインを片手に朝風呂を浴びていたのだろうと想像したりと楽しむ。 遺跡の塀の上に上るとそこは地中海。ローマもあの彼方なのだと、チュニジアの地理的な重要さを認識する。 遺跡の観光を堪能して振り返ると背後の丘の上にチュニジアの国旗が翻っている。あそこが、大統領官邸で、革命の時は戦乱の中心に なったようだが、今は平穏なのだ。 遺跡の外には今回初めての経験だが、土産物屋の露店が立ち並んでいる。観光客も多いので、商売になるのだ。小さなモザイク画を売って いるので、見ていると売り込みが激しい。25$と10$のモザイク画の値段交渉をする。25$と云うのを15$と。ダメだとのことで帰りかけると 20$とのことで商談成立させ、記念品として持ち帰る。 ◎「カルタゴ遺跡観光A」の「紀行スライドショー」 ○ 「シディ・ブ・サイド観光」 いよいよチュニジア最後の観光となるシディ・ブ・サイドに向かう。 シディ・ブ・サイドはチュニジアンブルーと真っ白な壁が映えるチュニジアで一番美しい街で、スペインのアンダルシア地方の影響が残る。 フランス植民地時代にはパウル・クレー、ボーヴォワール、、アンドレ・ジイドら作家や芸術家たちも訪れ、ドンキホーテの作者であるセルバンテスも守備隊兵士として 駐屯していたと。 石畳、白壁、ブルーの窓枠・扉、青空とチュニジアンブルーが映える。快晴で青空が見ることが出来、本当に良かった。青空が見えなければ、景観は 半減するだろう。 坂道の上まで進み、有名なカフェの前に集合で、自由行動となる。 暖かい陽射しを浴びながら、白とブルーに溢れた街並みを散策する。ブルーの窓枠に絡むブーゲンビリアの赤い花が、白とブルーに余計に映える。 坂の頂上からは地中海が望まれ、見慣れた国旗が見えるので確認するとブラジル大使館だと。 珍しい型をしたブルーの扉も家々の特徴を出している。そして、そのドアノブは「ファーティマの手」が飾られ、魔除けの役割をしている。個性のある 家の街並みを楽しみ、集合場所に戻る。 きれいなカフェでティータイムとなる。甘い紅茶(?)を2階のテラス席でいただく。青空と石畳の商店街を眺めながらゆっくりと。ここの街路樹もオレンジ なのだと思いながらお茶を楽しむ。 シディ・ブ・サイドの街並みが、スペインのアンダルシア地方の建物に似ているとの話に、「スペイン旅行」で訪れたミハスの街並みを思い出す。 飛行機のチェックイン時間も近付いたので、名残惜しいが、シディ・ブ・サイドの観光を終え、洒落たレストランの看板を見て、狭い土産物屋の中を 通って駐車場に向かう。その途中、偶然にも 日本人の観光客と初めて出会う。 クルージングでチュニスに訪れた関東のグループと大阪のご夫婦で、メンバー以外と久し振りの日本語での挨拶を交わし、 現地の治安について、問題ないと話すと安心しておられた。良い旅をと挨拶し、お別れする。海外で日本人に出会うと嬉しいものだ。 ◎「シディ・ブ・サイド観光」の「紀行スライドショー」 ○ 「帰国」 途中、大学があり、校門近くにたくさんの学生が話している。添乗員の話では、チュニジアは教育に熱心で、大学生が10万人いるそうで、 英語・仏語の教育も進んでいるそうだ。将来は若い力が発揮されるだろうと。 12時過ぎに空港に到着し、お世話になった運転手、現地ガイドとお別れし、搭乗手続きを行う。荷物の重量制限が30kgなので、余裕があり、 2人で45kgだったが、普通の航空会社だと重量オーバーだ。 メンバーの女性が重量オーバし、添乗員も30kgを越えたのは初めてだと大笑いしたが、無事分散して搭乗口へ。 搭乗までの間、そんなに広くはない空港内をぶらつく。不思議なことに、空港内でチュニジア・ディナール(D)はほとんど使えない。少し残っている ディナールは飲食店で飲物で使い切っていまう。 待合室で待っていると現地の夫婦が小さな女の子が泣いているのに困っている。そこで、紙風船を出し、ポンポンと突くと泣き止んで、 紙風船を持って微笑み出した。子供は紙風船が大好きなのが分かり、これからの旅行時も持参しようと思った次第だ。 搭乗口には我々が乗るドバイ行の飛行機が停まっている。 14時30分発のEK-748は定刻通り出発する。 往路と同じ機種なので、席の前にあるモニター操作をしていると日本語で「お飲み物は?」と。 何とチュニジア・ドバイ線に日本人のCAが搭乗しているに驚き、ビールと白ワインを注文する。 グループの方も皆さん驚きと喜びで、彼女と色々と話しておられる。日本人と出会うのは嬉しいのだ。 飛行機が離陸するとチュニスの街並みが見下ろされ、やがて、地中海に出て東に向かう。昼食はビーフとチキンを頼み、チュニジア旅行が混乱もなく 無事終わったことに乾杯する。カレー風味の機内食はgoodだった。 日本人CAが飲物を持って来てくれた時、名前を確認すると孫の名前と同じ少し珍しい名前なので、孫と一緒の名前だと話す。 彼女も驚いて、なかなか少ない名前なのにと親しく話すことが出来、素敵な出会いとなった。 日が暮れ始め、雲の中で外は見えなくなる。やがて、下が明るくなり、良く見るとド゙バイの街の灯りが輝きだした。さすが、金持ちの国、 街灯が多く明るい。 22時55分、5時間余りの搭乗を終え、ほぼ定刻通りドバイ空港に到着し、集合場所を確認して、2時まで自由行動となる。 真夜中なのに本当に人が多く、免税店や店々が開いていて、買物客も多い。関空の状況とは大違いだと残念に思う。ブラブラとショッピングするが 特に買物もないので、ベンチでゆっくりと座って待つことにする。 隣に日本人の女性2人が座ったので話すと、イギリスに行った帰りだと。すごく楽しかったと旅行談を聞かせてもらい、チュニジアの話をすると チュニジアはほとんど知らない。ディジカメの映像で、説明するとびっくりして、何時かは行きたいと。 搭乗口の待合室で待っていると、先程の日本人CAが同じ飛行機で帰国するとのことで来られた。制服と違って見間違う程の京美人に変身 しておられ、女性グループとワイワイと話しておられる。 搭乗が始まり、最後の行程に進む。 3時発のEK-316は定刻通り、ほぼ満員で出発する。 直ぐに食事が始まり、余り食欲がないので、軽そうな蕎麦の入ったのを選ぶ。疲れと運動不足で食欲は少なくなるのは仕方ない。暗くなり 映画を見る。日本語の邦画「剣岳」をゆっくりと観賞し、ウトウトと眠ったりと長い時間を過ごす。 飛行航路はドバイ→カラチ→デリー→ヒマラヤ裾野→カルカッタ→上海付近を進み、東シナ海に入って行く。到着の1時間30分前から朝食が始まる。 パンと玉子焼きをコーヒーといただき、眼を覚ます。四国山脈の上を通り、鳴門大橋を眼下に眺め、9時間弱の飛行を終え、16時50分前に 関西空港に無事到着する。 入国審査を終え、荷物も無事出て来て、添乗員の下江さんに楽しい旅行だったことに感謝し、皆さんとお別れする。 JRで高槻まで戻り、松阪屋で寿司を買って、家でゆっくりと乾杯する。良い旅だった!! ◎「帰国」の「紀行スライドショー」 今回の旅行は「ジャスミン革命」により延期されたツァーの再開第一陣で、多少の不安もあったが、全く問題もなく、第一陣と云うことで、 地元も熱烈歓迎だったのは嬉しい限りだ。 実際の遺跡・自然は事前に想像していたものよりも、何倍も素晴らしいものだった。ローマ以前の遺跡、ローマ時代の遺跡もイタリア以上に保存状況が良く充実 したもので満足した。自然も砂漠・地中海の日の出、日の入りを堪能出来、これも大満足だった。 地元の人たちとの交流も積極的に努めたが、人懐っこく、笑顔が可愛かったのを見ると革命の後遺症もないように思えた。 12月で寒さが心配だったが、早朝の砂漠も問題なく、この時期の大阪の服装と同じで良く、寒さに震えることもなかった。また、 天候に恵まれ、常に青空とともに行動出来、チュニジアン・ブルーと青空を白壁を通して堪能することが出来たのは最高に幸運だった。 更に、楽しいツァー仲間との交流、名解説の添乗員・下江さんの話術に感心し、笑い、楽しい旅をすることが出来た。感謝・感謝だ。 さあ、次は何処へ行こうか!?
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